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高度経済成長期を舞台に、少年時代のルパン三世を描いた『LUPIN ZERO』
■BACK GROUND
全6回シリーズの『LUPIN ZERO』も1月6日の配信で最終回を迎えた。この作品はモンキー・パンチ氏の原作漫画『ルパン三世』の連載が始まった昭和30(1960)年代の高度成長期の日本を舞台に、少年時代のルパン三世が活躍するオリジナルストーリーだ。祖父であるアルセーヌ・ルパン(ルパン一世)から盗術を仕込まれながらも、父親であるルパン二世からはしのぶを通じてカタギとして生きるように干渉を受けており、両者に反発しつつも将来を決められずにいた中学生のルパンが、銃の扱いに慣れた同級生である次元と出会い、行動を共にしていくうちに自分の生きるべき道を見出して行く、というもの。
■STAFF&CAST
監督は『ルパン三世 PART4』の作画監督、『PART5』では副監督と歴任し、「ルパン三世をやるためにアニメーターになった!」と語る酒向大輔氏。シリーズ構成は大河内一楼氏。設定考証に白土晴一氏。キャラクターデザインを田口麻美氏が務めた。制作は多くの『ルパン三世』シリーズを手掛けるテレコム・アニメーションフィルム。音楽を大友良英氏が担当した。
そして、中学生のルパンを演じるのは畠中祐氏、のちに生涯の相棒となる次元大介を武内駿輔氏、ルパンを取り巻く登場人物を早見沙織氏、行成とあ氏、安原義人氏、古川登志夫氏らが演じている。
はじめて明かされることになったルパン三世の泥棒となった動機
『LUPIN ZERO』は作画・演出・シナリオのいずれも完成度が高い。時代考証にも徹底的にこだわっており、当時の社会状況や風俗、街並み、クルマやバイクなどのメカニズムからも製作スタッフの並々ならぬ意気込みが感じられる。シリーズを通じて「ルパン愛」を感じさせる素晴らしい作品となっており、半世紀以上に渡って続いたルパンシリーズの中でも5本の指に入る傑作と言っても過言ではない。
本作でとくに筆者が注目したのが、まだ何者でもない少年がルパン三世へとなる端緒を描いたことで、ルパンが泥棒をする動機が劇中で明確に語られたことだ。
最終回となる第6話で少年ルパンは泥棒の道を選ぶに当たって「いつだってワクワクしたい。ワクワクできることがいちばん大事なんだ」とその理由を語っている。
そんな息子の門出に際して、父であるルパン二世は「泥棒って生き方はな、手に入れるだけじゃない。たくさん失うってことでもある」との言葉を贈っており、泥棒という生き方には「祝福」だけではなく「呪い」があることを諭した。
その言葉の通り、ルパンは初めての冒険で早くも「呪い」の洗礼を受けることになる……。
『LUPIN ZERO』を見ることで『ルパン三世』シリーズがより深く楽しめる
『LUPIN ZERO』はこれまでのシリーズから逆算して『ルパン三世 Part1』へと繋がる物語として制作されたわけではあるが、逆に言えば本作を見たあとでこれまでのシリーズをあらためて見返せば、より深く『ルパン三世』を楽しめるということでもある。ここでキーとなるのが、この作品のテーマでもある泥棒にかけられた「祝福」と「呪い」だ。
『カリオストロの城』の物語における矛盾が『LUPIN ZERO』で読み解ける!
例えば、1979年に公開された映画『ルパン三世 カリオストロの城』(以下、『カリ城』)だ。この作品については今さら説明の必要は不要だろう。宮崎 駿氏の初監督作品であり、長く続いた『ルパン三世』シリーズの中でも名作中の名作、長年に渡って多くの人々に親しまれてきたアニメ映画の金字塔だ。
そんな同作には公開時からファンの間で物議を醸したストーリーの矛盾がある。
映画の冒頭でルパン三世は国営カジノから50億ドルもの大金を盗むことに成功するが、盗み出した札束が精巧な偽札=ゴート札であることに気づくと潔くフィアット500から投げ捨ててしまうシーンだ。だが、偽札に興味のないはずのルパンは、なぜかそれを求めてゴート札の震源地であるカリオストロ公国へと向かう。
そして、物語が大団円を迎えたあとのラストシーンでは、峰不二子の手にした偽札の原版を欲しがるという描写がある。この物語の整合性のなさについては過去さまざまな解釈がなされてきたが、『LUPIN ZERO』を補助線とすることですんなりと疑問が解消する。
読み解くヒントは少年ルパンが選んだ「ワクワクの言いなりになる」という生き方にある。
目も眩むようなお宝の争奪戦、手に汗握るスリリングな冒険アクション、強力なライバルとの技と知略をつくした対決、美女とのアバンチュール……平凡な日常を生きる我々にとっては『ルパン三世』の物語はなんとも魅力的に映る。退屈とは無縁の刺激に満ちた冒険の連続こそが泥棒としての「祝福」である。だが、ルパン本人にとってそれは本当に幸せなことなのか?
少年ルパンと中年ルパン……
歳を重ねるごとに重さを増す泥棒にかけられた「呪い」
常人が体験できないような波乱万丈の日々も繰り返せばやがてそれが日常になる。ルパン三世も少年~青年期はやることなすことすべてがチャレンジングであり、スリリングで胸弾むものがあっただろう。しかし、まるで2周目のRPGを遊ぶように、心を高揚させる冒険も繰り替えすことで刺激は薄くなる。人間の欲求には際限はない。心の渇きを満たすためには、さらに危険で困難な仕事に挑む必要に迫られる。つまりは「ワクワク」のインフレだ。
『カリ城』のルパン三世は、幾多の死線を潜り抜け冒険の果てに中年期に差し掛かったルパン三世の物語だ。天才的な泥棒ゆえにここまで警察に捕まることなく、様々な犯罪を成功させてきたルパンだが、そんな彼はもはや並大抵のことでは心を満たすことができなくなっている。そんなルパンが大仕事として臨んだのが冒頭の国営カジノの襲撃だ。ところが、首尾よく盗み出したお宝はニセモノだったのだ。そんな彼の心は如何ばかりだっただろうか?
偽札を捨てたルパンがゴート札の真相を暴くべくカリオストロ公国に向かったのは、一見するとルパンらしくない無計画な気まぐれに見える。だが「ワクワクの言いなりになる」という彼の行動原理からすれば何ら不思議はない。自分の「ワクワク」を満たした成果が偽物であることによって傷つけられたプライドを回復(自分の「ワクワク」を偽物にししたくないという気持ち)するためなら「お宝」という目的と「泥棒」という手段を逆転させたとしてもルパンは気にしなかったのだ。
これは理想的な世界を作るための手段としての「革命」であるはずなのに、「ワクワクの言いなりになる」という生き方故に手段と目的を取り違えて、権力を打倒したあとに共に新世界を作るであろう民衆ごと核で東京を焼き払おうとしたガウチョにも通じるものがある。これこそが「ワクワクの言いなりになる」という生き方の「呪い」なのかもしれない。
平凡な人生を手放したが故のルパン三世の孤独
後年、この映画(『カリ城』)のオープニングは「アニメの教科書」と評されるように、少ない作画枚数で動きの緩急をつけながら完璧で美しい映像を作り出しているが、そこで描かれているのはルパン三世(と相棒の次元)の孤独だ。
とくに印象に残るのは夕刻にフィアット500を土手に停めて佇むルパンと次元の傍を家路につく人々が足早に通り過ぎて行くシーンだ。「ワクワクの言いなり」になる生き方を選んだルパンとそれを選ばなかったごく普通の人々との対比。ルパンのような泥棒が存在できるのは、言うまでもなく実社会で地に足をつけた生活を送る人々の存在があってこそだ。
そして、それらの人々には帰るべき家があり、帰りを待つ家族がいる。だが、ルパンにはそれがない。ルパンは自分の人生を振り返って後悔するようなタイプではないかもしれない。だが、そんな彼でも「オレにも平凡な幸せを生きる人生があったかも……」との思いが脳裏を過ぎる瞬間がなかったとは言えないだろう。そんなルパンの深層風景をオープニングの映像は巧みに描いている。バックに流れる主題歌『炎のたからもの』の歌詞がまた切ない。
泥棒としての未来しか見ていない『LUPIN ZERO』で描かれた少年ルパンと、それなりの人生経験を積み中年となった『カリ城』のルパン三世との違いがここにある。
S・スピルバーグを驚愕させた映画史に残る出色のカーチェイスシーン
カリオストロ公国に潜入したルパンは、フィアット500のパンク修理中に黒服に追われるクラリスと遭遇し、好奇心から彼女のシトロエン2CVとそれを追う黒服のハンバー・スナイプに猛追を仕掛ける。ここからアニメ史に残るカーチェイスシーンが始まる。
このシーンの原画を担当したのは、のちに『Part4』の総監督を務める友永和秀氏だ。もともとクルマが得意な青木雄三氏が作画を担当する予定だったが、最終的に免許を持っていない友永さんが受け持つことになった。
クルマに詳しくない友永氏は、宮崎氏に大まかなラフを描いてもらい、大塚康生氏からクルマの描き方や動かし方を教わり作画に臨んだという。その結果がこの映画を見たスピルバーグが「これ以上の見事なカーアクションを自分には撮れない!」と、自身の作品でカーチェイスを封印したとする伝説が残るほどの名シーンを生み出したのだから、アニメーターとしての友永氏の絵を動かすセンスと才能には脱帽するしかない(ちなみに『Part2』第151話「ルパン逮捕ハイウェイ作戦」でのサンバーのコミカルなアクションも友永氏の作画によるもの)。
クラリスの好意を退けたルパンの想い
さて、激しいカーチェイスの末にクラリスを助け出したルパンだが、再び伯爵の手下に拐われてしまう。ルパンは託された指輪を見て、彼女が昔自分の窮地を救ってくれた少女がクラリスだったということに初めて気づく。ここでルパンの目的は偽札から伯爵に囚われた彼女を救い出すことに変化する。
ルパンがクラリスを救い出そうとした動機は、かつての恩返しの気持ちはあっただろう。だが、それ以外にも日の当たる場所での人生を約束された少女が、おそらくは自分と同じ闇の世界で生きる伯爵のものとなることがどうしても許せなかったのだ。さらに裏世界で偽札を武器に暗躍する伯爵と対決し、鼻を明かしてやることに満たされない心を埋めてくれることを期待した気持ちがあったかもしれない。
映画は伯爵との2度に渡る対決、ゴート札の真相の暴露、カリオストロ公国に眠る秘宝の謎を明らかにした上で、ライバルである伯爵を倒し、クラリスを見事救い出して物語は大団円を迎える。
だが、その過程ではからずもルパンはクラリスの心を奪ってしまうのだ。物語のラストでクラリスは「私も連れて行って! 泥棒はまだできないけど、きっと覚えます!!」との言葉と共にその身をルパンに預ける。それに対してルパンは葛藤し、苦悶の表情を浮かべたのちに優しく彼女の肩を抱き、「やっとお日さまの下に出られたんじゃないか。お前さんの人生はこれから始まるんだぜ。俺のように薄汚れちゃいけないんだよ」との言葉を発して彼女をそっと突き放す。もはや説明はいらないだろう。アニメ史に残る名シーンのひとつだ。
このときのルパンの心境を察するにあまりあるものがある。クラリスのひたむきな愛情に応えたいという気持ちと、彼女を自分と同じ闇の世界の住人にしてはいけないという内なる心の戦いだ。もしもクラリスを一緒に連れて行けば、彼女もまたやがては「ワクワクの言いなり」なる人生を余儀なくされるだろう(そうでなくては大泥棒として生きるモチベーションを保てない)。その結果は彼女もまた泥棒にかけられた「呪い」を受けることになる。そのときのクラリスは当然のように純真無垢な彼女ではいられなくなる。いずれは不二子のような男を手玉に取るような狡猾さを身につけ、きっとルパンの元を去って行くことだろう。ルパンには彼女を一緒に連れて行ったそんな未来が見えていたのだ。だからクラリスの思いを拒んだのである。
泥棒の「祝福」にしか目を向けていない少年ルパンなら、あるいは彼女の真っ直ぐな好意を受け入れたのかもしれないが、泥棒にかけられた「呪い」の重さを痛感する中年ルパンは身を引くしかなかった。
偽札の原版を欲しがる素振りを見せたのは
「呪い」を引き受けたルパンの覚悟の現れ
そして、問題のルパンが偽札の原版を欲しがるくだりだ。
物語はハッピーエンドを迎えたはずなのに、不二子が現れるまでのルパンは何とも浮かない顔をしている。そんなルパンの心を知ってか知らずか次元は「オメェ、残っててもいいんだぜ」と声をかける。
おそらく、ルパン自身も一瞬そんな考えが脳裏を過っただろう。近い将来カリオストロ公国の女王になるクラリスの庇護を受ければ、少なくとも公国内ではICPOの追及をかわすことも不可能ではなく、ルパンはひっそりと平凡に生きることもできたはずだ。だが、自分がそうした生き方ができない人間であることを知る彼に、その選択肢はなかったのだ。
そんなときに偽札の原版を抱えた不二子が颯爽とバイクで登場し、獲物である偽札の原版を自慢するように見せびらかす。まさに絶妙なタイミングである。ルパンを「うんざりするほど」よく知る不二子にとっては彼の心の内などすっかりお見通しだったのだろう。これはルパンの気持ちを察した彼女なりのエール(あるいは「小娘にうつつを抜かしているんじゃないわよ」という軽い嫉妬心もあったかもしれない)だったと筆者は考える。ルパンはそんな不二子の思いに応えるように「お約束ごと」として偽札の原版を欲しがるのだ。
同時にルパンは自分という人間を再認識する。日のあたる場所で平凡な幸せを生きることができない自分。泥棒という存在が地に足をつけた生き方をする普通の人々に寄生する存在であることを。すなわち「ワクワクの言いなりになる」生き方はカタギに対して背を向けた生き方、言わば「ニセモノの生き方」だ。そんな自分を今さら変えることはできないし、変える気もない。ならば、偽物の自分はいつかは訪れるであろう破滅の瞬間まで、まがい物のお宝に命を張って「ワクワクの言いなりになる」人生を続けて行くしかない。そんな自分にはクラリスの純真さやローマの街のような人類の宝は手にあまる。偽札の原版くらいをお宝として欲しがるくらいがちょうど良いのだ、と。
そのようにして泥棒にかけられた「呪い」を受け入れたからこそ、ポーズとしてでもルパンは不二子の獲物を欲しがる素振りを見せたのだろう。このように解釈すればこの映画におけるルパンの矛盾は解消する。自分の心に踏ん切りをつけたところにパトカーに乗った銭形が現れ、またいつもの追いかけっこが始まり映画は幕を閉じる。
『LUPIN ZERO』という作品に触れたことで、筆者は新たな視点で『カリ城』を見ることができ、ファンの間で議論の的になっていた映画の矛盾に対して自分なりの答えを見つけることができた。それというのも『LUPIN ZERO』で、成人したルパン三世が口にすることが少ない、泥棒をする(になった)動機を少年らしい純一無雑さで語っていたからで、本作が泥棒にかけられた「祝福」と「呪い」という、シリーズの根底にあるテーマをあらためて掘り起こしたからでもある。おそらく、このような試みは他のルパン三世シリーズでも成り立つのではないだろうか。
『ルパン三世』シリーズの新たな境地を切り拓く
『LUPIN ZERO』が見られるのはDMM TVだけ
ルパン三世シリーズの幅を広げるという意味でも、これまでの作品をより深く理解する意味でも『LUPIN ZERO』が果たす役割は大きい。サブスクでの公開ということで視聴を躊躇しているファンもいるようだが、そんなことで、この傑作を見ないのはじつにもったいない話だ。
しかも現在、DMM TVでは初回30日無料+最大3カ月間550ポイントが付与されるキャンペーンを実施している。ポイント支払いを利用すれば実質3ヶ月間は無料で様々な作品を視聴することができる。DMM TVでは『LUPIN ZERO』以外にも『カリ城』を含めたルパンシリーズが用意されているので、この機会に『ルパン三世』シリーズを一気見してみてはどうだろうか。
『LUPIN ZERO』の作品と乗り物を掘り下げる連載記事も必見!
MotorFan.jpでは『LUPIN ZERO』の配信開始からストーリーの展開を追う記事を連載。シリーズ全6話のストーリーと『ルパン三世』シリーズやその制作サイドを掘り下げて紹介してきた。
加えて、作中に登場するクルマ、バイク、鉄道、兵器といった乗り物を深く掘り下げているのはMotorFan.jpならでは。他では読むことができない『ルパン三世』『LUPIN ZERO』の見方が楽しめる内容になっているので、ファンならずとも一読をオススメしたい!
LUPIN ZERO 原作:モンキー・パンチ 監督:酒向⼤輔 シリーズ構成:⼤河内⼀楼 設定考証:⽩⼟晴⼀ キャラクターデザイン:⽥⼝⿇美 美術監督:清⽔哲弘/⼩崎弘貴 ⾊彩設計:岡亮⼦ 撮影監督:千葉洋之 編集:柳⽥美和 ⾳響監督:丹下雄⼆ ⾳響効果:倉橋裕宗 ⾳楽:⼤友良英 メインテーマ「AFRO"LUPIN'68"」 作曲:⼭下毅雄 編曲:⼤友良英 エンディングテーマ「ルパン三世主題歌Ⅱ」 歌:七尾旅⼈ 作曲:⼭下毅雄 編曲:⼤友良英 劇中歌「かわいい男の⼦」 歌:SARM 作詞・作曲:荒波健三 アニメーション制作:テレコム・アニメーションフィルム 製作:トムス・エンタテインメント 声の出演 ルパン:畠中祐 しのぶ:⾏成とあ 次元:武内駿輔 洋⼦:早⾒沙織 ルパン⼀世:安原義⼈ ルパン⼆世:古川登志夫 原作:モンキー・パンチ ©TMS