自転車じゃない!? ビアンキのクルマを知っているか? アウトビアンキ・ビアンキーナ『さいたまイタフラミーティング2023』で見つけた名車・旧車vol.5

『さいたまイタフラミーティング2023』にエントリーした車両のうち、女性を対象にアンケートで人気投票をしたら間違いなくトップにランキングされるのがアウトビアンキ・ビアンキーナだろう。この小さくて愛らしいクルマ、じつは現在も続く世界最古の自転車メーカー・ビアンキの自動車部門が生産していたことを知る人はすっかり少なくなった。なぜ自転車メーカーが乗用車を作ったのか? 今回はその歴史を含めて紹介する。
REPORT&PHOTO:山崎 龍(YAMAZAKI Ryu)

フィアットやアルファロメオ、ルノーにプジョー……イタリア車&フランス車が600台!『さいたまイタフラミーティング2023』は希少車の宝庫だった!!

今回で10回目を迎える『さいたまイタフラミーティング』が2023年11月19日(日)に開催された。会場となった吉見総合運動公園にはフィアットやアルファロメオ 、ランチア、シトロエン、プジョー、ルノーなどのイタリア車&フランス車が600台も大集合。今回はその様子をリポートする。 REPORT&PHOTO:山崎 龍(YAMAZAKI Ryu)

世界最古の自転車メーカー!? ビアンキのプレミアムコンパクトカー

『さいたまイタフラミーティング2023』にエントリーしたクルマの中から女性人気がもっとも高かったのが、写真のアウトビアンキ・ビアンキーナだった。このクルマは終日人だかりを集めており、取り囲んだ女性からは「かわいいー」「おもちゃみたい」との黄色い歓声が上がっていた。

ビアンキと言えば、139年もの歴史を持つ世界最古の自転車メーカーで、高品質なロードレーサーやMTB、クロスバイクなどを製造していることで知られている。

筆者が所有する2006年型ビアンキLupo。ビアンキは現存する世界最古の自転車メーカーであり、現在ではカーボンフレームなどの軽量素材を用いた競技用のロードレーサーのほか、MTBやシクロクロス、クロスバイクなどさまざま自転車をリリースしている。

同社は創業時から国際自転車競技にも精力的に参戦しており、ファウスト・コッピやマルコ・パンターニ、フェリーチェ・ジモンディなどのスター選手とともに数多くの勝利を掴んできた。とくに1990年代にヒルクライマーとして名を馳せたパンターニの活躍は鮮烈だ。彼は1998年にジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方で総合優勝に輝き、史上7人目となるダブルツール達成者となったことで、その名はビアンキとともに現在でもロードレースファンの間で語りぐさとなっている。

マルコ・パンターニ(1970年1月13日生~2004年2月14日没)。
プロ通算36勝を挙げたロードレース選手。選手のタイプとしてはヒルクライマーで、1998年にはジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方で総合優勝を成し遂げた。スキンヘッドに顎髭を蓄えた用紙から「海賊」の異名で知られる。

第二次世界大戦以前は高級車メーカーであったが
戦後はフィアットとピレリの協力で小型車メーカーへ転身

ビアンキーナのリアビュー。エンジンフードの上には荷室容積を補うためかフードキャリアが備わる。コンビランプは当時世界的に流行していたテールフィンに組み込まれている。

さて、そんなビアンキだが、かつては自転車だけでなく、自動車やオートバイの製造も手掛けていたことはあまり知られていない。
ビアンキは1897年からオートバイ、1899年から自動車の製造に着手している。創業時は職人のハンドメイドによる高級車を生産していたが、第二次世界大戦が勃発するとイタリア軍向けの軍用トラックの生産に従事したが、大戦中盤に連合軍の爆撃によってイタリア中部にあるアブルッツォの工場が破壊されてしまい操業休止を余儀なくされた。

自転車用補助モーターの製造販売からはじまったビアンキのオートバイ作りは、1903年にオートバイ専用フレームを製造し、小排気量車から始めて徐々に排気量の大きなモデルも手掛けるようになる。1959年にモンディアルからリノ・トンティを引き抜き、技術部門の責任者に就けると250~500ccの空冷2気筒DOHCのスポーツモデルに注力するようになりモータースポーツでも活躍した。しかし、1960年代に入ると日本車の台頭もあって業績は急速に悪化し、1967年に生産を休止(1970年代初頭まで在庫車の販売は行われたようだ)。オートバイに関する権利はイノチェンティに譲渡された。

大戦終結後の1946年に創業者であるエドアルド・ビアンキが交通事故で急逝し、経営は息子のジュゼッペに引き継がれた。ジュゼッペはイタリア北部のデージオに新工場を建設して再起を図るが、戦後の復興期ということもあり、贅沢品であった乗用車は再開せず、自転車とオートバイ、商用車に生産を集約することにした。

1937年に製造されたビアンキES250。ふたつの排気ポートを備えた空冷SOHC単気筒のドライサンプエンジンを搭載したオートバイで、動力の伝達にはシャフト駆動が用いられた。ビアンキを代表する当時としては高性能なオートバイでレースでも活躍。コーポレートカラーの水色から「フレッチア・セレステ(青い矢)」の異名で呼ばれた。

当時、ビアンキのゼネラルマネージャーを務めていたフェルッチオ・キンタヴァッレは、高級車製造の経験を持つビアンキがこのまま乗用車生産を諦めるのはあまりにも惜しいと考え、再開を目指すものの単独での事業再開は難しいとの判断から大企業のフィアットとピレリーに再建のための助力を求めることにした。

1903年に生産が開始したビアンキ初の市販四輪乗用車8HP。富裕層向けに贅を尽くして作られた高級車で、当時の販売価格は1万リラと、そのプライスは平均的な医師の10年分の給与に匹敵した。
1938~1943年に生産されたビアンキ・マイルズ。イタリア軍の統制型トラックのひとつで、メディオラヌムの後継車種に当たる。イタリア軍のほか、ドイツ軍に徴発されて終戦まで運用された。戦後は民間向けにチャイブス46と名を変えて生産を継続している。

こうして1955年に3社間で合意が結ばれてアウトビアンキが誕生した。新会社のために用意された資本金は300万リラ(うち33%をビアンキ家が所有。のちに18億リラへと増資される)で、デージオに新たに14万㎡の土地が確保され、日産200台の生産能力を持つ近代的な乗用車生産工場が建設されることになった。

エドアルド・ビアンキ(1864年生~1946年没)
1885年に自転車製造会社を起業し、現代的な安全自転車を開発・販売して成功。1897年からオートバイ、1899年から自動車の製造に着手した。自転車・オートバイ・自動車の総合メーカーとしてビアンキ社は成長したが、第二次世界大戦の戦災により工場は灰燼と帰した。大戦後、会社の復興に乗り出したエドアルドであったが、不慮の交通事故により1946年に帰らぬ人となる。会社は息子であるジュゼッペが引き継ぐが、エドアルドほどにはオートバイや自動車に情熱はなく、オートバイ部門は1967年にイノチェンティに譲渡し、のちにアウトビアンキもフィアットにすべての権利を譲り渡している。
フェルッチオ・キンタヴァッレ(1914年生〜1998年没)
ミラノ市の名家キンタヴァッレ家の一族であり、マニエッティ・マレリCEOのウンベルトの息子として生まれる。10代〜20代前半かけてはテニスプレイヤーとして活躍。ダブルスの強豪選手として国内選手権で6回優勝し、男子国際テニス選手権のデビス・カップではイタリアチームのキャプテンとなった。テニスプレイヤーとして活躍する一方、ミラノ工業大学で機械工学を学び、第二次世界大戦中にはイタリア空軍の輸送機パイロットとして軍務についた。彼のスポーツに対する情熱はテニスだけでなく自転車にも注がれており、そのことが縁となって終戦後にビアンキの幹部社員として雇用された。1949年からデニスカップ・イタリアチームの監督を務める一方で、ビアンキ社内でも頭角を現したキンタヴァッレはゼネラルマネージャーに就任。1955年にはフィアットやピレリの協力を取り付け、アウトビアンキ立ち上げの中心人物となる。その後、同社の初代CEO兼社長に就任する。

再建されたアウトビアンキの社長についたのはジュゼッペ・ビアンキで、エンジニアディレクターにフェルッチオ・キンタヴァッレ、マネージングディレクターにはルイジ・ガヤル・デ・ラ・シェナイエ(フィアットから出向)、フランコ・ブランビッラとコラード・シウティとエマヌエーレ・ドゥビーニ(ピレリーから出向)が就いた。なお、新会社設立に伴い自動車部門は自転車・オートバイ部門から独立している。

1963~1965年にかけて生産されたアウトビアンキ・ステリーナ。フィアット850スパイダーを下敷きにオリジナルのボディを与えたスポーツカーで、イタリア初のFRP製ボディを採用している。

こうしてビアンキの乗用車は生産を再開したわけであるが、高級車を生産していた戦前とは異なり、大衆車では飽き足らない中間層を狙ったプレミアムコンパクトカーだった。ベースとなったのはフィアットの大衆車で、それに洒落たスタイリングのボディと豪華な内装が与えられたというもの。

1964~1970年に製造されたアウトビアンキ・プリムラ。フィアットグループとしては初のエンジン横置きFWD車で、販売の主力となるフィアット128に先駆けてジアコーサ式レイアウトの市場調査を目的にアウトビアンキから販売された。

さらには1964年に誕生したプリムラからは、フィアットの大衆車に先立って先進的なメカニズムやスタイリングを与える実験的なブランドとしての役割が与えられるようになる。こうしたアウトビアンキの性格は1996年のブランド廃止まで続いた。

1969~1972年にかけて生産されたアウトビアンキA111。全長4m以上とアウトビアンキが製造したクルマの中でもっとも大きく、サイズ的にはフィアット124に匹敵する。プリムラで採用されたジアコーサ式FWDを採用し、後輪駆動だったフィアット124をFWD化するための実験的な性格が強いクルマであった。
1969年に登場したアウトビアンキA112。ジアコーサ式FWDを採用しており、2年後に登場するフィアット127の観測気球的な役割が与えられていた。しかし、127の登場後も人気が衰えることはなく、モデル後期に追加されやアバルト仕様が世界的に人気を博したことから生産は1986年まで継続された。日本にはJAXの手で輸入されている。

愛らしいビアンキーナはフィアット500のメカニズムを流用

ビアンキーナは全長3m弱という本当に小さいサイズながら存在感はどのクルマにも負けてはいない。

そんなアウトビアンキの戦後第1号車がこのビアンキーナだ。ベースとなったのは大衆小型車のフィアット500で、RRレイアウトのプラットフォームや0.5L空冷直列2気筒OHVエンジンなどのメカニズムはそっくりそのまま踏襲している。

『さいたまイタフラミーティング2023』にエントリーしていたフィアット500F。ビアンキーナはこのクルマの基本設計とメカニズムを流用して作られている。愛くるしい500であるが、ダンテ・ジアコーサの巧みな設計により虚飾を排した上で大人4人が乗車できる車内空間を確保している。これに比べるとビアンキーナは設計上の合理性はやや後退させて、プレミアムコンパクトカーらしい上質さを与えている。

ビアンキーナのボディバリエーションは豊富で、写真のカブリオレ以外にも2ドアベルリーナ(セダン)、トラスフォルマビレ(現行型フィアット500Cのような巻き上げ式のキャンバストップを持つオープンモデル)、パノラミカ(2ドアワゴン。のちにジャルディ二エラに改名)、フルゴンチーノ(ライトバン)と豊富だった。

ビアンキーナ・2ドアベルリーナ

1840mmのホイールベースはフィアット500と同一だが、ボディは3020mmと50mm延長され(ベルリーナ同士の比較)、エンジンフードに小さなノッチを持つ3ボックス形状が採用されていることも特徴となる。

ビアンキーナ・トラスフォルマビレ
ビアンキーナ・フルゴンチーノ

インテリアはフィアットに比べて明らかに仕上げが上質なものとなっている。シートの形状はベース車とかわりはないが、色違いのパイピングを使うなど洒落っ気があり、インパネは金属パネルむき出しの500Fとは異なり、プラスチックのカバーで覆われ、ウッドパネルがあしらわれている。ステアリングホイールもメッキのホーンリングを備えた高級感あふれるものに変更されている。

現車はまるでディズニーの世界から飛び出したような愛らしさで、1952年の短編作品『青い自動車』(原題:Susie THE LITTLE BLUE COUPE)に登場するスージーが実在するとしたらこんなクルマなのかもしれない。

ビアンキーナのインテリア。インパネのデザインはベースとなったフィアット500よりも質感の高いものとなっている。

昨今は巨大なメッキグリルにツリ目のヘッドライトを備えた装飾過剰気味なオラオラ感の強いクルマが流行している。それに比べてビアンキーナの愛嬌があり、小さくともシンプルで美しく、上品なスタイリングはどうだろうか? 見る人を振り返らせ、思わず笑みを浮かべてしまう。世の中、こうしたスタイリングのクルマがもっと増えれば、日本の交通社会もギスギスした感じが多少なりとも和らぎ、煽り運転などの交通トラブルもあるいは起こらないのではないかと筆者は思うのだが……。

旧車も数多くエントリーする会場を散策していると、何か今のクルマのあり方、進化の方向性が本当に正しかったのかと疑問を感じてしまった。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…