大好きなフランス。そしてフランス車のルノー キャトル(ルノー 4)に乗るようになって30年以上。今は2台目のルノー キャトルGTLに25年以上乗っています。買ったばかりのおんぼろキャトルを維持するために、1991年に出来たばかりのワンメイク クラブ、『クラブ・ルノー キャトル・ジャポン』に入会し、フランス好きのキャトル・オーナーの仲間たちとのパリ詣でが始まりました。
そんなパリ詣ででは、まだ日本にあまり情報が入っていなかったレトロモビルについてもパリにも詳しいキャトル・オーナーの写真家、永嶋勝美さんからお話を伺い、その永嶋さんとともにレトロモビルのいろいろなブースへ毎日通うという贅沢な体験をすることができました。また、家族でも何回もパリを訪ねていますが、そこで出会ったクルマたちについて、徒然なるままにお話ししていきたいと思います。今回はまず、パリで出会ったキャトレールについてお話ししていきましょう。
ルノー キャトル。1961年に世界初の前輪駆動2ボックス ハッチバックの乗用車として生まれ、そのコンセプトは時代に先駆けたものでした。当時のルノー総裁のピエール・ドレフュス氏によれば、皆に愛されるブルージーンのようなクルマ、60年代後半には反逆の時代の若者の自由の象徴として、その当時のキャトルのカタログにも象徴的な写真が使われていたりしています。そしてフランスでは、――ルノーの偉大な“キャトル シーボー(4CV)”と区別するためにも――愛情を込めて“キャトレール”と呼ばれています。これはキャトルの初期グレード、4Lの名称から来ているものですね。
今、パリに行っても街中で旧い車を見ることはなかなか出来ません。平日は市内に旧い車が入ることが制限されているのに加えて、旧い車自体も90年代終わりの中古車インセンティブ(旧い車を廃車にすると報奨金がもらえた)で、かなり街中から姿を消してしまったからです。
ボクが行き始めた頃の90年代初頭のパリは、まだ60~80年代のクルマたちが現役で、排ガス臭く、イエローバルブのヘッドライトが暗くなった街中をぼーっと照らしながら走り抜ける、“ロマンティックなパリ”が残っている時代でした。
街中で角を曲がるごとにたくさんのキャトルが目の前に出現し、同じキャトル クラブの仲間たちとカメラを持って楽しみながら写真をハンティングしていきました。とくにモンマルトルの坂の街はキャトルが多い地区で、美しい街並とキャトルの風景は沢山絵にしていきました。
1993年に訪ねたパリでは、モンマルトルのレピック通りの坂の途中のガラージュ(修理工場)で、古い初期型のキャトルに突然遭遇しました。朝日の中、薄い水色のキャトルは美しく、早速、ガラージュのオーナーとつたない英語で話してみると、そのキャトルは1962年式のシュペールというグレードで、当時の最高級バージョン。リヤのガラスが下に降りて、リヤゲートが通常のキャトルとは反対に、下向きに開く初期型キャトルだけにあった特別な仕様で、その中でも最初期のクルマということでした。
早速、写真を撮らせてもらいその場でもスケッチ。帰国後にキャトル クラブの友人に見せると興味を持ち、人伝いにそのクルマをはるばる日本まで輸入することになったのです。
1994年に写真家の永嶋さんと訪ねたパリでは、美しいフェラーリを描かれる、ボクが尊敬する画家である故・吉田秀樹さんのパリ郊外のアトリエにも何度かお邪魔しました。その年に訪ねた日はちょっとした先も見えないほどの凄い濃霧で、イエローバルブがぼーっと照らす中に浮かぶキャトルとフランスパンを持った女性の姿が、まるで映画の一シーンのようなイメージを見せてくれました。しかも向こうからは黄色い郵便車のキャトル フルゴネットが走ってきます。ボクは嬉しくなって思わず写真を撮ったのでした。
さらに永嶋さんたちとは1998年のルノー100周年のときも皆でパリに渡り、その後でブルゴーニュの方まで脚を伸ばしました。その田舎町で出会ったのが、この黒い初期型キャトル。ホテルの裏道で偶然出会い、ボクと永嶋さんは声も出なくなりひたすら写真を撮りまくったのでした。
もう今では、パリに行っても街角でキャトルを見ることはできないかもしれません。あの街で何度もキャトルに遭遇出来たのは、きっと幸せなことだったんだなぁと思います。これからもボクは、古い写真のアルバムの束の中に生き続けているキャトルたちの絵を描き続けていくことでしょう。
(初出:『パリ、我が心のキャトレールたち』 2022年2月19日 編集部により一部改稿)