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IAFの会場の中でも筆者の目をとくに引いたのが、1978年型ダッジ ・マグナム、1975年型プリムス・フューリー、1979年型クライスラー・ニューヨーカーの3台だ。アメリカ車のイベントでは同世代のGMやシボレーは見かける機会が多いものの、この時代のクライスラーはなかなかお目にかかれない。そんな希少な車両が3台も並んでいたのだからディープなマニアにとっては堪らないだろう。
NASCAR参戦のために開発された初代ダッジ・マグナムは
ユニークなヘッドランプを持つラグジュアリークーペ
ダッジ・マグナムと言えば、2004~2008年にかけて生産されたクライスラー300ツーリングと姉妹車の関係となるステーションワゴンを思い浮かべる人が多いのではないだろうか。
じつは21世紀に入ってから登場したこちらは、マグナムの名前が与えられたクルマとしては2代目となる。初代マグナムは1978~1979年にかけて生産されたフルサイズの2ドアHTで、チャージャーSE(4代目)の後継として登場した。
1974~1978年にかけてクライスラーはNASCARに空力に劣るチャージャーSEではなく前任の3代目チャージャーで参戦していた。しかし、ホモロゲーションの期限切れが迫っていたことからラグジュアリーカーのチャージャーSEをベースに、空力性能を改善したフロントマスクを採用するなどの改良を施した後継車・マグナムを開発した。チャージャーSEにも採用されたLXプラットフォームを踏襲するなど、メカニズムにも大きな変更を加えられてはおらず、車名こそ変更されたものの、実質的にはチャージャーSEのマイナーチェンジと言っても差し支えのない内容であった。
こうして誕生したマグナムの最大の特徴は、ヘッドランプに透明のカバーを備えたフロントマスクにあり、ランプの点灯とともにカバーが車体に隠れるという風変わりなコンシールド・ヘッドランプを採用をしたことにあった。透明のカバーならばそのままヘッドランプを点灯しても良さそうに思うのだが、当時のアメリカの車両規則ではヘッドランプカバーの装着が禁じられていたことから、このような凝ったギミックが採用されたのだろう。
心臓部は経済的な318cu-in(5.2L)V型8気筒OHVを基本とし、オプションで2バレルまたは4バレルの360cu-in(5.9L)V型8気筒OHV、さらにビッグブロックの400cu-in(6.6L)V型8気筒「HEMI」OHVを選ぶことができた(ただし、ビッグブロックは1年でラインナップから落とされている)。組み合わされるトランスミッションは全車3速「トルクフライト」ATとなる。
レース参戦を見据えて開発されたマグナムであったが、肝心の戦績はクライスラーの業績悪化による資金不足と熟成不足によりエンジンを中心にトラブルが続出。1970年からクライスラー車でNASCARに参戦していたリチャード・ペティは、マグナムの低い信頼性にとうとう愛想を尽かし、シーズン途中でシボレーに乗り換えている。
なお、マグナムはよりコンパクトな車体で、完全新設計されたミラーダの登場により、わずか2年で生産を終了している。同社はクライスラー製ビッグブロックV8、並びにBプラットフォームを採用した最後のクルマとなった。
苦境に喘ぐクライスラーの屋台骨を支えたインターミディエイト
1970年代後半~1980年代中頃のハリウッド映画でパトカー役の定番
クライスラーの大衆ブランド・プリマスで長年フラッグシップの座にあったフューリーであったが、1975年に登場した5代目モデルでは、1973年のオイルショックの影響からそれまでのフルサイズからインターミディエイトへと車両サイズをシュリンクした。
これは1974年にモデル廃止となったサテライトの後継を担うことを期待してのことで、シャシーにはサテライトと同じCプラットフォームが採用され、それに合わせてパワーユニットも下方にラインナップを拡充し、225cu-in(3.7L)直列6気筒「スラントシックス」からビッグブロックの400cu-in(6.6L)V型8気筒「HEMI」OHV(警察車両用には440cu-in(7.2L)V型8気筒「マグナム」OHVの設定も存在した)まで、様々なエンジンが用意されることになった。
ボディは2ドアハードトップ、4ドアセダン、4ドアステーションワゴン(サバーバン)の3種類が用意され、先代では豊富に用意されたグレードは、ベースモデル、カスタム、スポーツの3種類に整理されている(1975年型の2ドアハードトップには400cu-inV型8気筒エンジンを搭載するシリーズ最強の「ロードランナー」が設定されていたが、翌1976年からはベース車両をヴォラーレへ変更された)。会場で出会ったフューリーはデビュー初年度のクルマということで、丸目2灯のヘッドランプを備えているが、1977年からは縦目ヘッドランプの角型4灯式にフェイスリフトが行われた。
5代目フューリーはクライスラーの業績が悪化する中で、同社の屋台骨を支える主力モデルであり、一般ユーザーのみならずレンタカーやタクシー、警察などのフリートユーザーへの営業も積極的に行われた。そうした経緯から『ブルース・ブラザース』や『ゴーストバスターズ』『ランボー』などの1970年代後半~1980年代中頃にかけて制作されたハリウッド映画ではパトカー役で出演が多く、映画ファンにとっては馴染みの深いアメリカ車となっている。
先代モデルからボディサイズを一気にシュリンク
インターミディエイトサイズになったクライスラーの高級車
1939年に初代モデルが登場して以来、1996年のブランド廃止まで半世紀以上の長期に渡ってクライスラーの高級車として君臨したのがニューヨーカーだ。今回のIAFにエントリーしていたのは1979年に登場した7代目モデルで、Rプラットフォームを採用したことでボディサイズを大幅にシュリンクし、インターミディエイトサイズへと小型化されたことが特徴となる。従来までのニューヨーカーとは一線を画したモデルということで、フィフスアベニューのサブネームが初めて与えられたクルマである。
このクルマのパワーユニットは318cu-in(5.2L)V型8気筒OHVを標準とし、1980年型まではオプションとして360cu-in(5.9L)V型8気筒OHVを選ぶことができた。従来までのビッグブロックがラインナップから落とされたことによりパワーダウンを余儀なくされたものの、先代に比べて車体サイズは全長で285mm、全幅で61mmも小さくなり、車重も約400kg軽くなったことで性能的に見劣りすることはなかった。もちろん、車体が小さく、軽くなった分、燃費性能は向上している。
Rプラットフォームを採用したことにより、クライスラー・ニューポートやダッジ・セントレジアス、プリマス・グランドフューリーとは姉妹車の関係になったが、クライスラーブランドの高級車ということで、乗り心地にはこだわって開発されており、先代に比べても引けを取ることはなかった。
トリムレベルは姉妹車よりも上質なものに変更されており、オートエアコンやクルーズコントロール、フロントの電動パワーシート、オートドアロック、電動トランクリリースなどの装備は充実していた。また、追加フィーを支払えば、本革巻きの集中スイッチ付きのステアリングやキーロック式ガソリンキャップ、ハロゲンヘッドランプ、コーナリングランプ、電動調整式外部サイドビューミラー、8トラックカセットプレーヤー付きAM/FMラジオ、アルミホイールなどを選ぶこともできた。
エクステリアは1970年代のアメリカ車らしく直線基調のスタイリングを採用しており、先代で好評だった押し出し感のあるフロントグリルにコンシールド・ヘッドランプの組み合わせによるフロントマスクは、引き続きこのモデルにも採用されている。なお、グリルの形状は1981年のマイナーチェンジでわずかに変更され、細かい縦線で構成された意匠となった。
製造クオリティに問題を抱えていたクライスラーにあって、高級車のニューヨーカーは品質・信頼性ともに一定の水準をキープしていたようである。しかし、初年度こそ販売は好調だったものの、1980年代初頭のアメリカ経済の悪化により高級車市場が低迷したことに加え、車両価格の値上げによる影響で販売台数が急落。そのまま人気が回復することなく1982年に8代目へとモデルチェンジしている。
官僚主義に部門間の縄張り争い、放漫経営が製品に影響?
1970年代のクライスラー 車の評価が低いワケ
IAFにエントリーしていた1970年代のクライスラー車を今日の目で見れば、充分な個性を備えており、相応の魅力を湛えているように感じられる。しかしながら、これらのクルマが現役だった頃の評価はあまり芳しいものではなかった。それというのも当時のクライスラーは多くの問題を抱えており、経営破綻の瀬戸際にあったことが製品であるクルマにも影響を及ぼしていたからだ。
この頃のクライスラーをひと言で表すなら「どん底」であった。官僚主義の蔓延と部門ごとの縄張り争いで社内の風通しが極端に悪く、長らくヒット作に恵まれておらず、従業員の士気はたるみ切り、工場の品質管理は地の底へ堕ちていた。経営陣は目先の収益ばかりに捉われて長期的なビジョンを持っておらず、それでは短期的な利益は出せていたかと問えばもちろんそんなことはなく、場当たり的な経営を繰り返していたことで、四半期決算はずっと赤字を垂れ流し続けていたのだ。
当時のクライスラーの経営トップは会長のリン・A・タウンゼントであった。財務出身の彼は社長就任直後の1961~1965年にかけてアメリカ市場におけるシェアを倍以上に好転させたものの、それ以降の業績はパッとせず、経営状態は万年右肩下がりという有様だった。このような状況を打開すべくタウンゼントは海外に活路を求め、スペインの商用車メーカー・バレイロスの買収を皮切りに、フランスのシムカ、イギリスのルーツグループを相次いで買収。新たにオーストラリアに生産拠点を新設した。だが、これが結果的に裏目に出た。子会社化した参加のメーカーはクライスラーの利益に繋がるどころか足を引っ張り続け、確固たる世界戦略を持たずに各国の弱小メーカーの寄せ集め的な買収を繰り返したことから「負け組連合」と揶揄されるようになる。
リン・A・タウンゼント
(1919年5月12日~2000年8月17日)
1919年にミシガン州フリントに生まれたリン・A・タウンゼントは10歳の時に両親を病で失い、会計士だった叔父に引き取られた。高校を飛び級で卒業し、学費を稼ぐために1年間ナショナル・シティ銀行で出納係として勤務。1940年にミシガン大学を卒業、第二次世界大戦の勃発により2年間の海軍勤務を挟んでアーンスト・アンド・アーンストで勤務した。その後、ジョージ・ベイリー・アンド・カンパニーで会計士として勤務したのち、1957年にクライスラーに会計監査役として入社。その2年後に国際関係グループの副社長に就任し、1960年に社内でナンバー2の役職である管理担当副社長の職に就いた。翌1961年に会長兼社長のレスター・ラム・コルバートが利益相反の疑いで辞任するとタウンゼントは後任の社長に就任し、米国の自動車メーカーで初めて5年間または5万マイルの長期保証を導入するとともに、ディーラーネットワークの再構築に尽力した。これによりアメリカ市場におけるクライスラーのシェアは1962年の7.3%からわずか4年で16.7%へと増加させ、年間売上高は100%増しとなった。また、クライスラーのCIとして長年使用された青と白の五芒星は彼のアイデアから生まれたものである。しかし、1970年には有力な投資先企業の倒産により子会社のクライスラー・ファイナンシャルが有価証券の取り付け騒ぎを引き起こしたことに始まり、技術・生産部門への投資を抑えたことによる商品力低下と品質悪化、場当たり的な海外企業の買収を繰り返したことで企業体力の衰退を招いた。さらに1973年の石油危機とその後の不況により自動車販売が急落。クライスラーの財政難はさらに悪化した。これを受けて1975年10月にタウンゼントは責任を取る形で社長の職を辞し、ビジネス界から引退した。
もともとクライスラーはビッグ3の中でもっとも企業規模が小さかったが、創業者のウォルター・P・クライスラーが極めて技術志向の強い人物であり、新技術の開発には貪欲で、個性的な製品開発に定評のあるメーカーであった。
クライスラーは1930年代に他社に先駆けて制振性能向上のためにゴム製のエンジンマウントを採用し、1950年代に「HEMI」の愛称で知られる高圧縮のヘミ・スフェリカルユニット(半球形状燃焼室を持つエンジン)をアメリカ車でいち早く採用。近代的なオイルフィルターやエアフィルターを発明するなど、自動車技術の発展に同社が果たした役割は極めて大きかった。
しかし、タウンゼントが社長職に就任して以降、彼が技術・生産部門への投資を極端に抑え込んだことから、1970年代のクライスラーからはそうした麗しい伝統はほぼ完全に失われていたのである。
ウォルター・P・クライスラー
(1875年4月2日生~1940年8月18日没)
1875年にカンザス州ウェイミーゴウにてドイツ系の両親の元に生まれ、高校卒業後に鉄道技師をしていた父親の影響でエリスにあった鉄道工場で整備士見習いとして働き始める。熟練工たちから技術を学び、機械工学や電気工学についても独学で勉強を続け、さらなるスキルアップを目指すべくアメリカ中西部の鉄道会社を渡り歩き、1909年にシカゴの鉄道会社で機関車部門の責任者となった。1908年、シカゴで開催されたモーターショーで自動車と初めて出会い、ひと目見て虜になる。自動車の魅力に取り憑かれたクライスラーはさっそく自動車を購入。それを分解して構造を学んだのである。彼の自動車業界での経歴は、機関車製造メーカーのアメリカン・ロコモーティブ(ALCO)が自動車産業への参入を決定したことから始まった。同社の工場長だったクライスラーは、1911年に銀行家のジェームズ・J・ストローの紹介でビュイックに移籍。ビュイックの社長まで昇りつめたが、親会社であるGMの社長だったデュラントとは反りが合わずに1919年に辞任。1921年にマックスウェルの株式を買収し、経営権を得たラクライスラーは1925年に自分の名前を冠した自動車会社に改組するとともに、1928年にはプリムスとデソートのブランドを設立した。その後はダッジを買収し、ビッグスリーの一角へと成長した。高い技術力を擁していた同社は、第二次世界大戦前にはフォードを抜き去り、GMに次ぐ業界第2位になったこともある。1935年以降のクライスラーは会長として非常勤となり、1940年8月に病により没した。1967年に自動車の殿堂入りを果たしている。
そんな落ち目のクライスラーでも、アメリカ経済が好調なうちは低空飛行ながらもなんとかビジネスを回すことができていたが、1973年にオイルショックが発生すると、ガソリン価格は一夜にして高騰し、古色蒼然とした大型車ばかりを生産していた同社の経営は以前にも増して悪化の一途を辿った。同じ時期、GMやフォードも苦境に喘いでいたが、企業として体力のあった両社は短期間で小型車のベガやピントを開発するなど苦境に抗うことができたが、もともと業績が良くなかったクライスラーにはそうした余裕すらなく、消費者のニーズにマッチした小型車を生み出すこともできずに、相も変わらずにガスガズラーの大型車ばかりを生産していたことで売り上げはさらに低下して行った。
経営危機に際してまともな自動車メーカーなら、まずは経営立て直しの第一歩として生産計画の変更……すなわち、減産を図ったことだろう。しかし、当時のクライスラーは生産部門と販売部門の意思疎通がまったく取れておらず、新車が売れずにディーラーからの引き合いがほとんどないにもかかわらず、工場のラインはそのまま稼働が続けられていたのだ。その結果、「セールスバンク」と名付けられたデトロイト郊外の車両置き場には、行く当てのないダッジやプリマス、クライスラーが風雨に晒されるまま放置されることになったのだ。積み上がった在庫は平時で5万台、ときには8~10万台にも積達したという。金額に直すと約10万ドル(当時のレートで邦貨換算して1824億円)にも達したという。運営資金が枯渇し始め、金利が高かった時期に、この在庫は天文学的な赤字だった。これらの在庫車はディーラーでの大幅値引きに加えて、レンタカーなどのフリートユーザーに二束三文で叩き売られていたが、なかには買い手がつかないままセールスバンクで朽ち果てるクルマも少なからず存在した。
窮地のクライスラーを救ったフォード出身の名経営者リー・アイアコッカ
共通プラットフォームによる「Kカー」の成功で経営再建に成功
こうした絶望的な状況のクライスラーを救ったのが、ヘンリー・フォード2世との対立からフォード社社長を解雇されたばかりのリー・アイアコッカであった。
リー・アイアコッカ
(1924年10月15日生~2019年7月2日没)
1924年にペンシルバニア州アレンタウンで裕福なイタリア系移民の子供として誕生。高校卒業後にリーハイ大学で産業工学の学位を取得。卒業後はプリンストン大学で機械工学の修士号を取得(1946年)。同年8月にフォード・モーター社に入社。短期間エンジニアとして働いたあと、マーケティング部門への移動を希望し、フィラデルフィア地区でアシスタントマネージャーとしてキャリアをスタートさせる。そこでメキメキと頭角を現すと、ディアボーンの本社へと呼び戻され、そこから出世街道を邁進して行く。1960年にフォード部門の総支配人兼副社長に就任。1960年代の好景気を背景にベビーブーマー世代をターゲットにした2ドアクーペのマスタングを企画し、開発責任者となる。1964年4月に発表された初代マスタングはスポーティーなルックス、優れた性能、低価格、多彩なオプションによりアメリカ自動車史に残る空前のベストラーとなる。1965年にフォードの自動車およびトラックグループの副社長となり、リンカーン・マーキュリー部門の経営立て直しに尽力し、マーキュリー・クーガーやリンカーン・コンチネンタル・マークIIIなどのヒット作を生み出す。その功績から1970年1月にフォード社社長に就任。社長在任中は石油危機や日本製小型車の対応にあたり、肥大化したマスタングをシュリンクしたマスタングIIの開発指揮、FFコンパクトカーのフィエスタを導入したほか、不採算部門の整理を行うなどして経営の安定化を図った。アイアコッカは優れた経営手腕を持つ一方で、社長の地位を利用した公私混同やイタリア系企業との癒着などが問題視された。また人一倍自己顕示欲が強く独断専行が目立ったことから、やがてその経営手法を看過できなくなったヘンリー・フォード2世と対立するようになり、1978年10月にフォード社を解雇された。だが、その直後にクライスラー社社長(翌1979年9月に会長に就任)の地位を得て、経営破綻の瀬戸際にあった同社の立て直しを図る。1981年には自身が開発を指揮したFFコンパクトカー「Kカー」の爆発的なヒットにより連邦政府からの借金を完済し、クライスラーは深刻な経営危機から立ち直ることに成功する。しかし、1990年代に入るとKカーの陳腐化は否めず、販売台数が低迷するようになり、株主や役員からの反発が強くなって半ば追い出される形でクライスラー社を退職した。その後は亡くなった前妻の死因である糖尿病克服のための財団を設立するなど福祉活動に力を注いだ。2019年にパーキンソン病の合併症により死去。クライスラー退社後の1994年に自動車の殿堂入りを果たしている。
1978年11月にクライスラーの社長職に就いたアイアコッカ(翌1979年9月に会長に就任する)は、経営立て直しのために従業員の解雇を含む徹底的なリストラを行う一方で、連邦政府と議会からストックオプション(新株予約権)と引き換えに15億ドルのローン保証を得ることに成功する。だが、その直後に資金がショートしたことから、彼はやむなく第二次世界大戦以前からクライスラーの収益の柱のひとつであった軍需部門のクライスラー・ディフェンス社を3億4850万ドルでジェネラル・ダイナミクス社に売却している。
彼の手腕により倒産の危機を辛くも脱したクライスラーは、次に起死回生の一手として共通プラットフォームによる「Kカー」の開発に着手する。1981年に登場したダッジ ・アリエス/プリマス・リライアントから始まったこのプロジェクトは、最初は数種の中型セダンやステーションワゴンからスタートして、徐々にラインナップを拡充し、最終的にはKおよびその派生プラットフォームでクライスラーのラインナップの大半を賄うというものだった。
Kカー開発の狙いは開発期間の短縮と部品点数の削減、そしてFFレイアウトの採用による車体の小型化と効率的なパッケージングにあり、エントリーカーから高級車まで、さまざまな車種を共通化されたプラットフォームを用いて生み出すことにあった。当時のアメリカの自動車産業としては前代未聞の巨大プロジェクトであり、失敗すればクライスラーの倒産は不可避に思われた。だが、これがオイルショック後のユーザーの小型車志向や省エネ志向と結びついたことで、アイアコッカは見事賭けに勝利したのだ。
そんなアイアコッカ主導で開発したKカーの中でも、1984年に登場したダッジ・キャラバン/プリムス・ボイジャーは同時期に登場したルノー・エスパスや三菱シャリオとともにミニバンの先駆けとなったクルマで、斬新な車両コンセプトが消費者に受けて経営再建途上のクライスラーに大きな利益をもたらした。そして、この成功がクライスラー復活の一里塚となったのである。
クライスラー暗黒時代のフルサイズカーは本当にダメなクルマだったのか?
マイナー車を維持してイベントで魅せてくれたオーナーに感謝!
こうしてKカーの登場と入れ替わりに、巨大なV8エンジンを搭載したフルサイズのFR車はクライスラーのラインナップから姿を消すことになったわけだが、それではアイアコッカ登場以前のクライスラー製の乗用車すべてがダメだったのかと言えばそんなことはない。
1960年代中盤~1970年初頭のクライスラーには、その高性能で若者を熱狂させたプリマス・バラクーダやロードランナー、ダッジ ・チャレンジャーやなどを世に送り出した実績があり、安全基準の引き上げや排気ガス規制の強化、タウンゼントによる技術・生産部門への極端な投資抑制などの影響はあったにせよ、エンジニアの顔ぶれが急に変わったわけではなく、市場の変化について行くことができなかっただけで、設計や開発能力が他社に比べて著しく劣化していたとは思えないのだ。
事実、ダッジ・ダートやプリマス・ヴァリアントはオイルショックを経てもなお専門家からの評価が高く、クライスラー車の中ではそれなりに評判が良かった。
その一方で両車の後継として1975年に登場したダッジ・アスペンとプリマス・ヴォラーレは、軽量設計による燃費の改善や視界の良さ、バランスの良い性能からデビュー時の評価は高かったものの、度重なるリコールに加えて防錆処理の甘さからボディが早期に腐食するという問題を露呈した。
これは業績低迷から経営陣がエンジニアに対して開発期間短縮への圧力が加えた結果であり、煮詰め不足により生じた欠陥であった。「貧すれば鈍する」と言ってしまえばそれまでだが、この2台はそれなりに良いクルマになる資質を備えており、クライスラー経営陣の無思慮な場当たり的な対応が製品の可能性を潰した悪例となった。
また、この当時のクライスラーには品質の低さという問題があった。製造現場の士気が低く、品質管理がおざなりであれば、製造段階で不具合を抱えた車両も少なからず存在しただろうし、当然のようにそうしたクルマが消費者から良い評価を得られるはずもない。当時のクライスラー車は当たり外れが大きく、たとえ比較的評判の良かったダートやヴァリアントでさえも「休日明けの月曜日に作られたクルマは買うな。同じく休日前の金曜日に作られたクルマも買うな。どちらも工員が気もそぞろになって品質が悪くなるから」などとユーザーの間で囁かれような有様だった。
真偽のほどは定かではないが、当時のクライスラー車には「ドアから異音がするのでトリムを外してみるとコーラの空き瓶が出てきた」などという話があったほどだ(さすがに都市伝説の類であるとは思うが……)。いくら設計が良くとも品質管理がおざなりならクルマとしての評価が低くなるのは当然のことだと言えるだろう。
だが、こうした話も今や昔だ。一部のハイパフォーマンスモデルを除けば、1970年代のクライスラー車はコレクターの興味の対象外で見向きもされておらず、不人気車ということで残存数はアメリカ本国でもそう多くはないだろう。しかし、”ハズレ”の個体や不具合を抱えた個体はとっくの昔に土に返っており、数少ないサバイバーは”当たり”アタリ”と見做しても良く、歴代オーナーが価値を認めて大切に維持してきた個体と考えて良さそうだ。そうでなくては半世紀近くの時間を経て、なお良好な状態を維持しているとはとても思えない。IAFの会場で出会った3台のクライスラー車は、まさしくそんな数少ないサバイバーであり、良いオーナーに恵まれて幸せな車両だと言えるかもしれない。
この当時にリリースされたクルマはクライスラーの黒歴史と化しており、その存在を覚えている人ももはやすっかり少なくなった。しかし、そんな日の当たる機会が少ないクルマにも熱烈なファンがついているところが旧車趣味の面白いところだ。
たしかにこの3台は歴史に残る傑作車とは程遠い存在なのかもしれないが、オーナーは何も優れたクルマだからだとか、歴史に残る名車だからと乗っているわけではないだろう。自分が好きなクルマだから乗る。かけがえのない愛車だから良好なコンディションを維持する。ただそれだけなのだ。それは純粋な愛好家精神の発露であり、完全な趣味の世界であって、そこに金銭的な価値尺度やら他人の評価などの無粋なものが入り込む余地などないのだ。こうした趣味に生きる好事家の存在があればこそ、IAFのようなイベントで来場者は希少なクルマと巡り合えるわけである。筆者としてはマイナーなクライスラー車に愛情を注ぎ、素晴らしい状態で維持し続けてくれた上に、イベントに参加して多くの来場者の目を楽しませてくれたオーナーのみなさんに対しては、感謝とリスペクトの念を抱かずにはいられない。