新車で買い41年乗り続けるターボRS! 数度の危機を乗り越えネオクラの仲間入り! 【喜多方レトロ横丁 レトロモーターShow】

ネオクラと呼ばれる1980年代から2000年付近までのクルマたちが人気だ。しかも改造されていればノーマルに戻す風潮が強く、扱いは完全に旧車。でも新車で買って乗り続けていたら、いつしかネオクラシックカーの仲間入りを果たしていた1台を紹介しよう。
PHOTO&REPORT●増田 満(MASUDA Mitsuru)
1983年式日産スカイラインHT2000ターボRS。

DR30スカイラインといえば、ケンメリGT-R以後途絶えていたDOHCエンジンが復活する記念すべきモデル。’70年代に吹き荒れた排出ガス規制とオイルショックが、高性能エンジンやスポーツカーたちを絶滅寸前にまで追い詰めた結果だ。日産自動車はスカイラインGT-Rに積まれていたDOHCであるS20型エンジンを規制に適合させることなく絶版とし、直列6気筒であるL型エンジンを延命して規制へと適合させて行くことになる。その結果、規制以前とはまるで別物のようにモッサリしたエンジンになってしまい、DOHCエンジンをなんとか規制に適合させたトヨタから「名ばかりのGTは道をあける」とまで揶揄されてしまう。

白いストライプやゴールドのデカールがそのまま残る。

ここまで挑発されては日産も黙認できない。なにせ「技術の日産」を高らかに宣伝文句としていたからには、誰もが驚くような技術で迎え撃たなければならない。そこで1979年にセドリック・グロリアへ国産初となるターボエンジンを搭載。このL型6気筒ターボをジャパンと呼ばれるC210スカイラインにも採用して、セリカより高い最高出力を実現した。すると今度はセリカが国産初となるDOHCターボである3T-GTEU型エンジンを搭載。だが、日産もL型ターボだけで終わらせるつもりはない。密かに開発していた新型エンジンをモデルチェンジしたR30スカイラインに搭載する。それがDOHC16バルブとなるFJ20E型エンジンだ。

復刻版のエンケイ・メッシュホイールを履く。

「名ばかりの〜」に対抗して日産は「4バルブなくしてDOHCは語れない」とトヨタを挑発。当時セリカに搭載されていた3T系DOHCは吸排気バルブが気筒あたり2個しかない古い設計のもの。それを気筒あたり4バルブとしたFJエンジンは、まさに新時代の幕開けにふさわしかった。ただし、このFJエンジンは6気筒ではなく直列4気筒。そのためスカイラインGT-Rを名乗ることは許されずレーシング・スポーツを意味するRSというグレード名に落ち着くことになる。

純正リヤスポイラーはいまだ弾力がある。マフラーは柿本改。

スカイラインRSは4ドアセダンと2ドアハードトップ双方にラインナップされた。肝心のFJ20E型直列4気筒DOHCエンジンは2リッターの排気量から150ps/6000rpmの最高出力と18.5kgm/4800rpmの最大トルクを発生。組み合わされたミッションは5速MTのみで、後にOD付きフルロックアップATが採用される。当時は今では考えられないほどMT比率が高く、スポーティな車種にはAT不要論まであったほど。ただ、スカイラインのオーナー層には高齢なユーザーも多く、ATを望む声があったことも事実。そのスカイラインRSは当初、自然吸気のNAのみだったが’83年にはターボを装着したFJ20E・T型を追加している。これにより最高出力は190psにまで向上。この半年後に実施されたマイナーチェンジでRS系にはグリルレスの新デザインが採用される。このスタイルはユーザーから「鉄仮面」と呼ばれることになり、さらなる人気を獲得した。

新車時からの二桁ナンバー。福島ナンバーは封印が金だった。

その後ターボRSは’84年にインタークーラーを装備するターボ・インタークーラーRSへ発展する。これによりFJ20E・T型エンジンは205ps/6400rpm、25.0kgm/4400rpmにまで出力・トルクを向上させる。これはライバルがセリカからソアラやセリカXXとなり2.8リッターエンジンを相手にしなければならなかったことも影響している。ほぼ半年ごとに進化を続けたDR30スカイラインだから、当時は買い時がいつなのかを判断するのが難しく仕様変更のたびに頭を抱えるオーナーが続出した。ただ、仕様変更を気にすることなく前期の通称「3本グリル」であるRSをこよなく愛するオーナーがいた。喜多方レトロモーターShowの会場で貴重な二桁ナンバーのRSを見つけ、オーナーである布施慶久さんに声をかけると案の定、新車から乗り続ける1オーナー車だった。

1度もオーバーホールしていないFJ20E・T型エンジン。

現在61歳になる布施さんがRSターボを買ったのは今から41年前で、当時20歳の若者だった。すでに地元の信用金庫に勤めていたものの、まだ新車を買うためにローンが組めるほどではない。そこで父親にお金を借りて毎月返済する「親ローン」での購入だったそうだ。20歳だったことからもっと早くに買うこともできたはずだが、’83年はドアミラーが解禁になった年でもある。初期型のNA仕様RSだと、実はまだフェンダーミラーが装備されていた。その当時はこれを嫌って後付け用の社外ドアミラーなども販売されていたが、布施さんはドアミラーが解禁になるのを待ってもいた。すると同年2月にターボRSが発売され「史上最強のスカイライン」を日産自ら謳う。これに飛びついたというわけなのだ。

オーディオ以外はフルノーマルを保つインテリア。

とはいえ、ターボRSの発売から半年後の同年8月にはマイナーチェンジにより「鉄仮面」となる。この時買い換えようと思わなかったかと聞けば「まったく思いませんでした」という。実は布施さん、テレビドラマ『西部警察』を見ていた世代でもあり、RSといえば3本グリルのマシンRSと同じルックスが大好きだった。だから精悍な鉄仮面にモデルチェンジしても心が動かされることはなかったというわけなのだ。

なんといまだに7万キロ台でしかないオドメーター。

だが、その後も試練は続く。ターボRSを買った4年後に結婚されるのだ。趣味のクルマを維持する上での天敵が結婚や出産という人生の節目。このような状況になると奥様からクルマを手放す、または便利なモデルに買い替えるよう進言される。ここで諦めるかどうかが瀬戸際なわけだが、布施さんは諦めずに維持し続けると覚悟を決めた。だから奥様からアシ車が必要と言われれば買い与え、文句を言われないよう努力された。まさに男である。

表皮が浮きやすいことで知られるRS純正シート。

次なる試練はトラブル。実はこのターボRSは雨の日に乗らずガレージ保管している。さらに41年乗り続けても走行距離は7万キロ台でしかなく、いわば過保護に育ててきた。だがある時から30分ほど走るとエンジンが止まる症状が現れた。しばらくしてディーラーへ持ち込むと、症状の犯人はディストリビューターだと判明する。幸いにも当時はまだ新品部品が供給されていたので、迷うことなく交換してトラブルを克服した。

乗降時に気をつけているので内張は傷ひとつない。

その後は順調に過ごすことができている。雨の日に乗らないためか「今でも下回りのネジは固着することなくすべて回せますよ」というほど程度が良い。トラブルも出ないため復刻されたエンケイ・メッシュホイールを履かせたり、純正が出ないため柿本改マフラーを装着して楽しまれている。実に幸せなターボRSと布施さんなのだ。

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著者プロフィール

増田満 近影

増田満

小学生時代にスーパーカーブームが巻き起こり後楽園球場へ足を運んだ世代。大学卒業後は自動車雑誌編集部…