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スポーツカーの資質を備えたクラシック・ミニ
イギリスの自動車設計者アレック・イシゴニスによって1959年に誕生したクラシック・ミニは、横置きした直列4気筒エンジンの下にギアボックスを配置した2階建て構造のパワートレイン、従来のシャシーフレームに代わって採用されたモノコックボディ、金属バネの代わりに円錐状のゴムバネを用いたラバーコーン・サスペンションなど革新的な技術を惜しみなく投入し、当時の技術水準を大きく超える小型乗用車として完成した。
イシゴニスはミニの設計に際して軽量・コンパクト・低重心な設計を追求したことで、実用性や経済性、乗り心地だけでなく、チューニングを施すことでスポーツカーにも匹敵する走行性能を身につけることになる。その優れたミニの資質に最初に着目したのが、イシゴニスの友人であり、1959年と1960年のF1のコンストラクターズ・チャンピオンに輝いたクーパー・カー・カンパニーの経営者ジョン・クーパーだった。
ミニの開発時に試作車を見せられた彼は、その優れたハンドリングに驚愕し、このクルマがBTCC(イギリスツーリングカー選手権)におけるライバルだった新興のロータスを打ち負かす切り札になると考えた。イシゴニスに対してミニをベースに機敏で経済的、しかも安価なスポーツバージョンの共同開発を提案する。これが受け入れられたことで、1962年にオースチン/モーリス・ミニクーパーが誕生するのである。
こうして誕生したミニ・クーパーは、1964年、1965年、1967年のラリー・モンテカルロで総合優勝(1966年の大会では補助灯のレギュレーション違反で失格したが実質的な成績は優勝であった)を果たすなど、オンロード・オフロード問わずさまざまなモータースポーツで華々しい活躍を見せることになる。
そして、ミニの活躍に刺激を受けたイギリスのバックヤードビルダーたちは、独創的なアイデアと技術で自分たちが理想とするミニをベースにしたマシン製作に乗り出したのであった。今回は『第32回ジャパンミニデイ in 浜名湖』のエントリー車の中からミドシップレイアウトを採るミニ派生のスポーツカー2台を紹介したい。
兄弟の情熱から生まれたミッドシップキットカー『コックスGTM』
最初に紹介するのはコックスGTMだ。Grand Touring Miniの頭文字を取ってGTMと名付けられたこのマシンは、ドナーカーにミニを使用することを前提にしたキットカー(オーナーがDIYで組み立てることを前提にした自動車のシャシーと部品のセット)として1967年のモーターショーで発表され、その後すぐにリリースされた。
キットの製造販売を始めたのはベルンハルトとバーナードのコックス兄弟で、設計は彼らの依頼によりジャック・ホスカーが担当した。ただし、兄弟が経営する「コックス&カンパニー社」の本業は繁盛していたガソリンスタンドとBLMC(ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション)提携の自動車修理工場の経営であり、その片手間でキットの製造販売を手掛けていたことから、ふたりは相当多忙な生活を送っていたようだ。
より多くの利益が見込まれる完成車販売を最初から諦めたのは、こうした事情からだったのだろう。詳細は後述するが、コックス兄弟が生産したのは試作車1台と55台分のキットのみで、ビジネスが順調であったにも関わらず、わずか1年でコックスGTMの権利を手放した理由もここにあったようだ。
足まわりとエンジンはミニからの流用
この車両のユニークなところは、後年登場するフィアットX1/9に先駆けてFWDユニットを生かしてミドシップ・レイアウトにしたことにあった。コックスGTMのボディは軽量かつバックヤードビルダーの生産に適したGFRP(ガラス繊維強化プラスチック)製としていたが、シャシーはミニのフロントサブフレームを前後両方に取り付けたバスタブ状のスチール製セミモノコック構造となる。リヤバルクヘッドからはロールケージ状に1インチ角の鋼管フレームを使ってルーフ骨格が形成されており、フロントサブフレームには、ステアリングラック、燃料タンク、ラジエーターが搭載されている。
サスペンションはラバーコーンを用いたミニのものがそのまま流用されており、ブレーキとホイールにも変更を受けていないが、1982年4月以降のモデルは新たに13インチホイールを装着できるように改良を受けている。
パワーユニットはミニ(オースチン/モーリス・メトロも)に採用されるA型エンジンがすべてのシリーズが搭載可能であり、オーナーの目的と好みに応じて848cc、948cc、1275ccのいずれのエンジンも選ぶこともできた。
スタイリングはフェラーリ・ディーノ206にインスパイアを受けたとも、フェラーリ250LMにインスピレーションを受けたとも伝えられるが、正直なところコックスGTMのエクステリアは、それらの精錬とは遥かに離れたところにある。ロータスにも通ずる無骨なスタイリングではあるが、それは決して悪い意味ではなく、”如何にもイギリスのライトウェイトスポーツカー”というカッコ良さがある。
ハワード・ヒーリーの買収により車名から”コックス”が外れ単なる『GTM』に
軽量小型なミッドシップらしくシャープなハンドリングと高い運動性を持ち、当時としてはボディ剛性も高かったコックスGTMではあったが、反面、市販ミッドシップ車の経験や技術がまだまだ未熟な時代に生まれたクルマということで、エンジン搭載位置や重量配分には難があり、限界領域でのドライビングはクセの強さを感じるものだったと伝えられている。それでも比較的安価な価格で戦闘力の高いマシンが購入できるということもあり、サンデーレーサーを中心に人気を集め、販売は好調であった。
しかし、コックス兄弟は本業が忙しく、コックスGTMの製造販売にかまけている時間的な余裕がないことから、ハワード・ヒーリーに事業を売却してキットカーの製造・販売から早々に撤退した。事業を引き継いだヒーリーは、父親の経営するフォード・ディーラー「ミッドランド・ガレージ」で製造・販売を行うことにし、コックス兄弟から譲られた生産設備一切をヘーゼルグローブにある工場に運び入れている。なお、その際に車名からコックスの文字を取り去って単にGTMとした。
ビジネスセンスに長けたヒーリーは、基本設計はそのままに適時小さな改良を加えながら1971年までに170台分のGTMのキットを製造販売している。社名を「ハワード・ヒーリー・エンジニアリング」社に改名後に製造した3番目の改良型である「1-3」(モデル1/バリエーション3)では、新たにフロントバンパーを新設し、トライアンフ・ドロマイトのテールライトに変更。リヤサブフレームは板金から軽量で製造しやすいスペースフレームに設計変更するとともに、ラジエーターを前方ではなくエンジン両サイドに装備するなどの改良を施している。
メーカーを転々としながら2010年まで製造される
しかし、改良型の登場から間もない1972年に、GTMの生産設備を構えていたフォード・ディーラーの店舗敷地が、道路の拡幅工事に引っかかることになった。これを機にヒーリーの父親は自動車ビジネスから引退を決意。ハワード・ヒーリーは代わりの土地と施設を急遽探すものの期日までに適当な物件は見つからず、やむなくGTMの権利と生産設備を手放すことに。
次にヒーリーから生産権と治具や金具一切を買い取ったのが「HEグラスファイバー」社だったが、この会社は何らアクションを起こすことのないまま1976年に「KMBオートスポーツ」社へとGTMにまつわる権利を転売。だが、この会社もアフターサービスとして補修備品の生産と販売を行っただけで、完成車はもちろんキットの販売は行わなかった。
そして1980年、長い交渉の末にピーター・ベックとパディ・フィッチ、ダガル・カウパーの3人が「KMBオートスポーツ」社からGTMの生産権を買収。彼らは「GTMエンジニアリング社」(のちに「GTMカーズ」に社名を改められる)を設立してノッティンガムシャー州サットン・ボニントンに工場を設けてキットの生産を再開した(直後にピーター・ベックはプロジェクトから脱退する)。
彼らはGTMのキットを再販するだけでなく、自動車エンジニアリングの進歩に合わせて改良したロッサ。K型エンジンの搭載を前提にしたK3。リチャード・オークスがデザインを手掛けた高級バージョンのリブラ。リブラのオープンバージョンとなるスパイダーなどを販売。キットの販売数は600セットを超え、GTMの全生産期間においてもっとも成功した時期と言えた。
2003年にGTMカーズ社はRDMグループに買収され、翌年に生産工場はコベントリーに移転。そこで同社はVWゴルフIIベースの新モデルの開発を行ったものの製品化には至らず、主力商品は相変わらずGTMのままだった。RDMグループの傘下に収まったことでキットに加え完成車の販売を始めたが、期待したほどの利益を得ることが難しかったようで、わずか4年でウェストフィールドのブランドを傘下に治める「ポテンザ・スポーツカーズ」社に売却されてしまった。その際に車名もウェストフィールドGTMに変更して生産を継続したが、2010年に使用パーツの調達が難しくなったことを理由に販売が打ち切られた。
国内ではなかなか見かけないGTMをジャパンミニデイ会場で発見!
現在、日本国内にどれほどのコックスGTMシリーズが存在するかは定かではないが、『第32回ジャパンミニデイ in 浜名湖』のような規模の大きなクラシック・ミニやイギリス車のミーティングでは時折エントリーしている姿を見かける。写真の車両は前後にバンパーを備え、4灯式のテールランプを備えていることから、おそらくは1980年代にGTMカーズ車が製造した車両だろう。コンディションは良好なようで、GFRPのボディに痛みなどは見受けられず、エンジンルームを覗き込むと整備が行き届いており、オーナーが日頃から大切に維持していることがわかった。
じつのところ筆者がコックスGTMの実車を見るのははじめてのことだ。日頃なかなか見る機会のないこうした珍しいミニのバリエーションと出会えるのも、日本最大規模のクラシック・ミニのミーティングならではのことだろう。
ロータス出身の技術者コンビが開発したミッドシップスポーツカー
次に紹介するのは1966年に登場したユニパワーGTだ。どことなくアバルトを彷彿とさせるこの小さなミッドシップ・スポーツカーは、ロータスやルーツ・グループでエンジニアとして活躍したアーニー・アンガーと、同じくロータス出身でフリーランスの自動車設計者だったヴァレリアン・デア・ブライアンとの共同開発により誕生した。
ふたりはA型エンジンをミッドに搭載したスペースフレームシャシーを設計し、ミニのコンポーネンツを流用することで比較的安価で運動性の高いライトウェイトスポーツカーを目指したのだ。ボディは軽量で製造に設備投資の少ないGFRP製とし、スタイリングはアンガーの友人であり、当時GT40の設計に取り組んでいたロン・ブラッドショーが、フォードからの仕事の片手間に手掛けることになった。
このプロジェクトのスポンサーとなったのがアンガーの親友で、アマチュアレーサーでもあったティム・パウエルだ。彼はミドルセックス州のペリヴァイルで林業用作業車などの特殊車両を製造する「ユニパワー社」を経営する実業家で、自社ブランドでの販売を条件に資金と工場施設の提供を申し出たのだ。
なお、同社はGFRP整形の技術を持たなかったことからボディはスペシャライズド・モールディングス社で製造され、シャーシとサスペンションの一部はアーチモーターズ社に外注されることになった。
高性能ではあったものの生産立ち上げに手間取り商機を逃す
こうして誕生したユニパワーGTは、車両重量508kgという軽量なだけでなく、全高を1029mm(GT40とほぼ同じ)に抑えたことによりcd値0.37と空力的にも優れた設計となった。
パワーユニットはミニクーパー用の55hpを発揮する998ccと、75hpを叩き出すミニクーパーS用の1275ccの2種類が用意された。価格は前者が950ポンド、後者が1150ポンド(現在の邦貨に換算するとそれぞれ425万円と575万円)だった。両エンジン位組み合わされるギヤボックスは、BMC製の4速MTを標準としていたが、ジャックナイト製5速MTを選ぶこともできた。サスペンションは独自設計の四輪独立懸架式で、フロントブレーキにはミニクーパーS用のディスクブレーキが採用されていた。
その高性能ぶりに自動車専門誌は絶賛。フランスの『スポーツ・オート』誌では、前年にデビューしたミッドシップ・ランボルギーニにちなんで「ミニ・ミウラ」との評価を与えたことがきっかけで、ファンの間でこの異名がユニパワーGTの通り名となった。
同車はミニクーパーより400kgも軽く、空力的にも優れていたことから発表と同時に予想を超える注文が殺到。しかし、生産開始までに1年近くを要した上に生産性も低く納期まで時間が掛かっていた。一刻も早く競技用車両を求めていた顧客は納期の早いマーコスやオーグルなどのライバルへと流れてしまい、すぐにユニパワーGTの人気は下火となってしまった。
権利はユニパワー社からUWFに移り生産は継続されるが……
この結果に落胆したパウエルは生産を予定していたタルガトップモデルをキャンセル。エンスージアストでもあった貴族のピアーズ・ウェルド・フォレスターに権利を売却してしまう。フォレスターの支援を受けたアンガーとブライアンは西ロンドンのパークロイヤルに「UWFオートモーティブ・エンジニアリング」という会社を設立し、ユニパワーGTの生産を継続。
その際にサスペンションセッティングを公道走行を前提としたソフトなものへと変更し、ダッシュボードやアルミホイール、テールランプなどの意匠も改めた。しかし、ユニパワーGTの人気が回復することはなく、1969年に生産は打ち切られる。生産終了までにラインオフしたユニパワーGTは、ユニパワーで生産されたMK.I、UWFで生産されたMK.IIを合わせてもたったの73台(75台説あり)だけだった。
『第32回ジャパンミニデイ in 浜名湖』エントリーしていた車両は1968年に生産されたMK.Iで、工場出荷時の塗装を残すオリジナリティの高い貴重なマシンである。また、新車時に純正オプションとされていたキャンバストップを備えるなど世界的に見ても珍しい車両である。
なお、現在日本には16台のユニパワーGTが存在するという。これはイギリス本国の13台を超える世界最多の保有数だ。全世界でもっとユニパワーGTを愛しているのが日本人というのがなかなかに興味深い事実である。