買えなかった悔しさを忘れず24年! 憧れのスカイラインGTS-R! 【ノスタルジックカーフェスタGOSEN】

名車の誉れ高いR32型スカイラインGT-R。GT-Rの名が復活する狼煙として上げられた限定車、R31型スカイラインGTS-Rに新車当時憧れたものの、買えなかった悔しさを忘れず念願を叶えた人の物語。
PHOTO&REPORT●増田 満(MASUDA Mitsuru)
1987年式日産スカイライン2ドアスポーツクーペGTS-R。

代々スカイラインはレースと深い関係にある。排ガス規制によりレース活動から撤退した日産ワークスは4代目ケンメリ、5代目ジャパンでレースに出ることはなかったが、ターボチャージャーをいち早く市販車に採用した日産が黙っているわけもない。6代目となったR30スカイラインは「ニューマン・スカイライン」とのキャッチコピーで広告にレースへの復活を匂わせた。この6代目の隠し球がS20型エンジン以来の復活となるDOHC方式を採用したFJ20E型エンジンを搭載するスカイラインRSシリーズだ。

固定式フロントスポイラーと大型リヤスポイラーがGTS-Rの特徴。

DOHCエンジンの復活により国産車最速でなければならないスカイラインの宿命が果たさせる日が近づく。ところがFJ20Eエンジンは6気筒ではなく4気筒だったことでGT-Rを名乗ることが許されず「RS」というグレード名が与えられた。このRSは当初自然吸気のNAのみでスタートするが、1年半後にはターボを追加したFJ20ET型へ進化。さらに半年と経たないうちにマイナーチェンジが実施され、RS系には「鉄仮面」と呼ばれるグリルレス風のフロントフェイスが与えられた。さらにさらに半年後、RSターボはインタークーラーを装備してリッター当たり100psを超える205psという最高出力を実現した。RSシリーズはグループ5規定に合わせたスーパーシルエットとして1982年からレース活動を開始。マシンそのものはDR30とは別物だったが、ファンを喜ばせたものだ。市販車ベースのグループA規定による全日本ツーリングカー選手権が1985年に始まると、こちらへは市販車ベースのDR30スカイラインが参戦している。

ヘッドライトのローにプロジェクタータイプを採用した。

グループA車両によるレースが、その後のスカイラインの命運を決めたと言っても過言ではない。1985年にフルモデルチェンジして7代目となったR31型スカイラインは、当時のハイソカーブームに乗り都市工学スカイラインというキャッチコピーとともに大型化。これに嘆くファンは多く、モデルチェンジによる販売台数の増加も鈍い。そこで1年後に2ドアスポーツクーペGTSシリーズを追加。この時からスカイラインの2ドアモデルはハードトップではなくクーペとなった。当時旧型のDR30でグループAレースに参戦していたスカイラインだが、2ドアクーペが登場したことで風向きが変わる。歴代最強の210psを発生するRB20DET-R型エンジンを搭載するスカイラインGTS-Rが87年のマイナーチェンジと同時に発売されたのだ。

レースへの意気込みを感じさせるデカールは標準装備。

GTS-Rは800台だけの限定販売。800台というのはグループAのホモロゲーションを取得するために必要な生産台数で、当時は抽選により販売された。いかにグループAでの勝利が熱望されていたかを表すモデルであり、GTS-Rがなければ名車R32GT-Rも生まれなかった。この当時、抽選にもれて悔しい思いをしたファンは数多く、GTS-Rの中古車を何台も揃える専門店まで存在したほど。今回紹介するGTS-Rのオーナーである54歳の江口政和さんも、新車で買えなかった悔しさを忘れられなかった人だ。

ホイールはRSワタナベの8スポークに変更している。

ただ、江口さんは当時抽選に応募したわけではない。というのも日産高等工業学校を卒業して日産自動車へ就職していたから、抽選に応募することが禁じられていたのだ。当時愛車にしていたのはDR30スカイラインRSで、その後もRSを乗り継ぎチューニングに明け暮れた。だが地元である新潟へ戻ることになり、さらには結婚・育児と生活環境が大きく変化。クルマを趣味にする日々は封印された。転機となったのは2011年のこと。すでにお子さんも手が離れ趣味を再開する日がやってきた。趣味のクルマとして選ぶなら、10代の頃に買えなくて悔しい思いをしたR31スカイラインGTS-Rが真っ先に思い浮かんだ。そこで知人たちに相談してみることにした。

直列6気筒DOHCターボであるRB20DET-R型エンジン。
等長エキゾーストマニホールドに付く専用遮熱板もGTS-Rの特徴。
マフラーをHKS製に変更するのと同時にECUをリセッティングしている。

相談からほどなく、ある情報が舞い込む。歴代スカイラインなどを収集するマニアが、何台か放出するという。その中にはGTS-Rも含まれているということで、早速倉庫のようなガレージへお邪魔することになった。そこで目にしたのは驚くべき個体で、新車登録時の二桁ナンバーが残るものの車検は切れていた。室内を覗き込むと、なんと走行距離は1万2000キロ台で止まっている。長年保管されてきたため、新車時の面影が色濃く残るフルノーマル状態を保つ個体だったのだ。12年ほど前だから今ほどではないものの、GTS-Rの中古車相場がジリジリと上がってきた頃。ところが値段は相場の半額程度で良いとのこと。

イタルボランテ製ステアリングが標準装備されたインテリア。
走行距離は驚きの2万キロ台!
表皮が浮きやすい純正モノフォルムバケットシートは無傷だ。

動かしていない状態とはいえ、こんな好条件を逃したら一生後悔するとばかり、その場で話をまとめられた。過去にDR30のチューニングで腕を磨いた江口さんだから、GTS-Rを復活させるための技術も知識も備えている。仕事の合間を見てGTS-Rのメンテナンスを進めた結果、大きな苦労もせず数年ぶりに路上へ復活させることに成功した。そもそも傷んでいない状態で保管されていただけなので、大掛かりな修理は必要なくノーマルのまま車検を再取得したのだ。

貴重な二桁ナンバーを継承している。

その後江口さんが手を加えたのは排気系で、HKS製マフラーの装着と同時にECUを書き換えることでパワーアップさせている。また純正アルミホイールは保管することとして、RSワタナベの8スポークホイールを普段は履かせている。購入から12年が経つが、GTS-Rの走行距離は2万7000キロ台で1万5000キロを追加しただけ。年間1000キロ走るかどうかといったところで、天気の良い休日に近所を流す程度。また地元の旧車イベントにも参加されていたが、当のイベント自体がなくなってしまった。そこでイベント会場で知り合った地元の知人らとともに実行委員会を再組織。消滅していた「十日町クラシックカーミーティング」を再開させるのだ。6月4日に開催された「ノスタルジックカーフェスタGOSEN」にも知人と共に参加。旧車仲間との楽しい時間を過ごすという新たな生活スタイルを教えてくれたのも、GTS-Rがあればこそなのだ。

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著者プロフィール

増田満 近影

増田満

小学生時代にスーパーカーブームが巻き起こり後楽園球場へ足を運んだ世代。大学卒業後は自動車雑誌編集部…