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■カローラとサニーを凌ぐ人気を獲得した5代目ファミリア
1980(昭和55)年6月2日、マツダ(当時は、東洋工業)の5代目「ファミリア」がデビュー。スタイリッシュなフォルムと俊敏な走り、なかでも大ブームを起こした赤いファミリアは、販売台数でカローラとサニーを凌ぐ空前の大ヒットを記録した。
●ファミリアはマツダにとって初の小型乗用車
戦中・戦後に3輪&4輪トラックで成功を収めたマツダは、1955年に政府が提唱した“国民車構想”に呼応し、1960年にマツダ初の軽乗用車「R360クーペ」、1962年には同じく軽ファミリーカー「キャロル」を投入した。
続いて1964年に登場したのが、マツダ初の小型乗用車「ファミリア」だった。初代ファミリアは、最高出力45psのアルミ合金製782cc直4 OHVエンジンを搭載し、最高速度は115km/hと優れた動力性能を誇った。小型大衆車の先陣を切ったトヨタ「パブリカ」や三菱「コルト」よりも商品力で上回り、ファミリアシリーズの月販台数は1965年には1万台を超えるヒットモデルとなった。
その後2代目では、「コスモスポーツ」に続いてロータリーエンジンが搭載されたが、3代目はボディサイズがひと回り大きくなり、ロータリーモデルは廃止された。
●ロータリーモデルへの逆風によってマツダは経営不振に
1960年代後半からロータリーモデルの展開を積極的に進めたマツダだったが、1973年のオイルショックとマスキー法に端を発した厳しい排ガス規制により、販売は他メーカーよりも大きな打撃を受けた。ロータリーエンジンは、その特殊な機構のために一般的なガソリンエンジンに比べて性能的には優れているものの、燃費性能と排ガス性能が劣っていたことがその原因だった。
その後もマツダの低迷は長引き、1970年代後半には赤字も経験する厳しい経営状況が続いた。それを打開するために、ロータリーエンジンの改良とともに、ガソリン車の開発にも注力したのだ。
その成果が表れたのは、1977年にデビューした4代目ファミリア。4代目は、それまでの3ボックス型セダン/クーペから2ボックス型のハッチバックに変更し、若者から人気を獲得。この勢いで1980年に投入された5代目ファミリアには、社運を賭けた大きな期待がかけられたのだ。
●赤いファミリア旋風で歴史的な大ヒットモデルになった5代目
5代目ファミリアは、従来のFRからマツダ初のエンジン横置きのFFに変更され、駆動方式だけでなくプラットフォームやパワートレインなどすべてを一新。エッジの効いたスタイリッシュな欧州風のスタリングとFF化により実現された広い室内空間が特徴だった。
パワートレインは、1.3L/1.5L直4 SOHCエンジンと、4速/5速MTおよび3速ATの組み合わせ。3年後にはターボモデルも追加され、軽快かつスポーティな走りも高く評価された。
ファミリアの月間発売台数は、トヨタ「カローラ」と日産自動車「サニー」を抑えて首位に立つこともあり、発売27ヵ月で100万台を達成。マツダの国内販売台数としては、過去最高を記録する空前の大ヒットを記録したのだ。
なかでも、赤いボディで電動サンルーフを標準装備した車両価格103.8万円の「ファミリアXG」は、“赤いファミリア”と呼ばれ若者の間で爆発的なヒットとなった。ちなみに、当時の大卒初任給は11.5万円程度(現在は約23万円)なので、単純計算では現在の価値で約208万に相当する。
赤いファミリアが巻き起こし、パステルカラーをまとったスタイリッシュなコンパクトカーのルーフに、サーフボードを載せた「陸(オカ)サーファー」と呼ばれたスタイルが大流行し、若者文化を象徴する社会現象になるほどのインパクトがあったのだ。
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陸サーファーとは、“サーフボードをクルマに載せてサーファーのような恰好をしているが、実際にはサーフィンをしない人”を指す。今となっては理解不能な話だが、洒落たクルマとサーファーの組み合わせが、女性にモテる大きな武器、そんな浮かれた時代だったのかもしれない。
毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかもしれない。