目次
自動車市場のグローバル化により徐々に駆逐されてゆく
日本市場独自の高級車……その栄枯盛衰
ロールスロイスやベントレー、メルセデス・ベンツSクラス、レクサスLSのようなFセグメントの高級車は、輸出市場を考慮していることもあり、世界のありとあらゆる地域、すべての民族、いかなる文化圏でもわかりやすい豪華さ、贅沢さ、機能性を具現化するのが常である。いっぽう、そのひとつ下のEセグメントとなると事情は少し異なってくる。
メルセデス・ベンツEクラスやBMW5シリーズのようなグローバル市場で普遍的な人気を誇るクルマもあるにはあるのだが、片や製造メーカーが拠を置く地場市場を狙った極めてドメスティックなクルマもかつてはそれなりに存在感を示していた。
例えば、ちょっと前までのクラウンがそうだ。昭和から平成にかけてのクラウンと言えば、「いつかはクラウン」のキャッチコピーに象徴されるように、メインターゲットは一部上場企業に勤めるサラリーマンや公務員などの保守的なホワイトカラーの中高年層だ。

同じ「オヤジ車」でも主に自営業者が好んだ日産セドリック/グロリアとは異なり、いたずらにスポーティさなどを狙わない(スポーティさはある種のカジュアルさのことでもあり、フォーマルを旨とする高級セダンには本来ふさわしくはない)。

国内市場でクラウンの最大のライバルとなったのが日産セドリック/グロリア(写真はY31型)だった。いや、ここは「当初は」と注釈を入れるべきかもしれない。クラウンと違って日本の高級車の王道になれなかったセドリック/グロリアはときにクラウンに寄せ、ときに差別化を図って対抗しようとしたものの果たせず。

バブル時代に「スポーティさ」と「ヤンキー趣味」という他にはない個性と魅力を与えることで独自路線を歩むことになる。これは日産高級車が中古車になると「ヤン車」や「族車」「VIPカー」などで人気を博していた現実を考えると、潜在的なユーザーはそこにあると開き直った上での判断だったのかもしれない。そして、それは正しかったとも言える。
誤解を恐れずに言ってしまえば、ただただ静粛性が高く、サスペンションはソフトで、シートの掛け心地が良いということを追求した高級車であった。

また、インテリアをよく見れば、木目調パネルはフェイクだし、センターコンソールの側面などの目立たない場所に使われる部材はプラスチッキーで安っぽい。だが、日本人にとっての「高級なもの」あるいは「良いもの」との価値判断は自身が下すものではなく、世間の評価、すなわち外的な要因で決まるものなので、そうした細かな部分に大半なユーザーは気にしなかったのだろう。

クラウンが長年多くのユーザーに愛されてきたのは、トヨタが日本のサラリーマンが憧れを抱く「贅沢さ」の正体を熟知していたからに他ならない。
押出感のあるルックスでありながらも下品とまではならず、クラウンとひと目でわかるラジエターグリルを備え、内外装のクロームメッキをの多用し、車体を大きく見せる直線基調による寺社仏閣スタイルのボディ、スムーズなパワートレイン、遮音が聞いていて静かな車内空間、掛け心地の良いモケット張りシートなどなど……。

これらは一昔前の映画やドラマに登場する社長宅の応接間にも通じるものがあった。
ペルシャ絨毯の上にレザー張りのソファセットがセッティングされ、カフェテーブルにはクリスタルの重い灰皿が置いてある。天井にはシャンデリア風の照明が下がり、サイドボードにはロクに飲みもしない洋酒が並ぶあの空間だ。
宮仕えの身でも気後れするほどのことはなく、手にして得られる満足感と心の落ち着きが同居し、クリーンで、リッチで、サラリーマン生活を何十年か恙無く積み重ねていけば、いずれは手に入れらるであろう贅沢さ。

日本のサラリーマン社会における贅沢さなど興味も関心もない外国人からすれば「これが日本を代表する高級車?」と理解不能に陥るのかもしれないが、日本のホワイトカラーからすれば、まさにクルマに対する憧れを体現した存在がクラウンだったのだ。
その勘所を掴んでいたからこそトヨタは高級車の王道としてクラウンを国内で売りまくり、対して覇道を行くしかなかった日産は、セドリック/グロリアにクラウンにはない魅力を与えることに四苦八苦したあげく、バブル期に自社ユーザーの実態を認めて、開き直ったかのように「スポーティさ」と「ヤンキー趣味」をウリとすることで対抗したのである。

結果として、1990年代に入る頃にはクラウンは国内の高級車市場で押しも押されぬ存在となる一方で、セドリック/グロリアはクラウンの価値観に染まらない人々、すなわち、建設業、製造業、運輸業、飲食業を中心にした「成功したブルーカラーのための高級車」というポジションを得ることで生き残りを図った。
当初、その日産の戦略は一応の成功を収めた。その最たるものがバブル期に「下品で成金趣味」であることを包み隠すことなく開けっぴろげにしたことで爆発的にヒットした「シーマ現象」であったと筆者は考える。
だが、この勝負は日産に時の利がなかった。バブル崩壊後、日本経済が長期低迷に陥ると、「寄らば大樹の陰」で組織に所属した人間のほうが生活は安定する。クラウンが堅調な販売面を維持するいっぽうで、新車にポンと大金を支払える自営業者が減ったことで、日産製高級車は販売面で苦戦することになった。

2代目シーマはウリであったターボパワーを封印し、マルチシリンダーを与えてスタイルは英国調の上品なものとしてしまう。上品に仕立てた日産車で成功したためしは過去1度もないというのに……。そして、2000年代以降は輸出市場を重視したクルマづくりとなり、日産高級車を好んできた人達の趣味趣向と完全に外れてしまい販売は低迷することになる。
しかし、そんなクラウンにもやがて落日の日が訪れる。世紀を跨ぐ頃からユーザーの世代交代が進み、昭和型のサラリーマン的価値観に興味も関心もない世代が購買層の中心になると、彼らはクラウンのようなドメスティックな国産車を選ばず、メルセデスやBMW、アウディ、あるいはトヨタが高級車ブランドとして立ち上げたレクサスなどのグローバル市場で通用する高級車を選ぶようになったのだ。

その結果、昭和のイメージを強く残すクラウンは徐々に販売台数を落として行き、2022年に発表された16代目となる現行型クラウンでは、グローバル市場への投入を前提に開発コンセプトをガラリと変えた4車種を同時発表。これをもって古式ゆかしきドメスティックなクラウンは終焉を迎えたのである。
スポーティさを売りにしないイタリア国内向け高級ブランドとしてのランチア
前置きが長くなったが、こうした傾向は日本車だけに限った話ではない。巨大なボディに大排気量エンジンを搭載したキャデラックのセダンシリーズは、2003年登場のCTSを皮切りにアイコンであったV8エンジン搭載車を主力モデルから外してダウンサイジング。高速域での操安性を重視して足廻りを引き締め「アート&サイエンス」と呼ばれる近代的なスタイリングを与えられたことでグローバル市場で通用する高級車に生まれ変わった。

イギリスのジャガーも同様で、2008年のXFからは従来のクラシカルなスタイリングを捨て去り、伝統の本革とウッドによる内装の代わりにモダンなインテリアを与えている。それどころか「2025年にジャガーブランドの全ラインナップをフルバッテリーBEV化する」と発表し、今後は電動車のみを販売して行くという。

そして、ようやく今回の主役であるランチアだ。ランチアというとストラトスや037ラリー、インテグラーレなどのWRCでの活躍に目を輝かせる人もいるとは思うが、このメーカーがラリー競技に参戦していたのは技術力を証明するためであり、ランチアの本質からかけ離れた一種の徒花的な存在と言えるものだった。


それではランチアの真髄とはどこにあるのか? それはイタリア市場へ向けたドメスティックな高品質・上質なベルリーナにこそあった。
もともランチアはモータースポーツ愛好家で、フィアットのテストドライバーを経てワークスチームとしてレースに参戦していたヴィンチェンツォ・ランチアが1906年に創立。同社はフルラインナップのフィアットと競合しない高級車を得意とした。

1881年にトリノ近郊のフォベッロ村に生まれたヴィンチェンツォ・ランチアは、幼少期から数学の才能があり、成長とともに機械や工学、そして自動車に興味を持つようになった。学校を卒業すると、トリノの自転車輸入業者ジョヴァンニ・バッティスタ・セイラーノの弟子となった彼は、そこでエンジニアとしての基礎を学ぶ。その後、彼はフィアットのエンジニア兼テストドライバーの職を得たランチアは、この頃に「トリノ自動車クラブ」の設立発起人であり、のちにモータージャーナリストとして活躍するカルロ・ビスカレッティ・ディ・ルフィアと友人となった。ランチアが初めてレースに参戦したのは1900年のことで、それを皮切りに内外のレースに積極的に参戦するようになる。1900年にル・マンで開催された最初のフランスGPでは最速タイムでライバルをリードしたほか、1908年の第2回ヴァンダービルドカップではレース8周目までをトップで快走するもジョン・W・クリスティーが運転するFWDレーサーに追突されてリタイアしている。彼がフィアットから独立し、自らの名を関した自動車メーカーを起こしたのは1906年のことで、翌1907年に初の生産車となるランチア・アルファ(α)12HPを発表している。その後はラムファやアプリリアなどの革新的で高品質な高級車を相次いで発表している。また、1930年に友人のバッティスタ・ファリーナ(通称ピニン)に出資し、トリノ市カンビアーノにカロッツェリア・ピニン・ファリーナを共同で設立している。1937年2月15日に心臓発作により55歳の若さで死去した。彼の残したランチア社は妻のアデーレ・ミリエッティと息子のジャンニによって経営が引き継がれた。
技術志向の強い同社は自動車の発展にも大いに貢献し、モノコックボディや独立式サスペンション、V型6気筒エンジン、5速トランスミッション、風洞実験に基づくボディなどを世界に先駆けて量産車に採用したことでも知られている。その名声はランチアの最上位モデルは1925年にムッソリーニが首席宰相になって以来、イタリア元首の公用車に多数採用されてきた歴史が物語っている。

技術偏重の伝統と歴史が醸成するプライドは買収後も引き継がれるが……
1937年にヴィンチェンツォが亡くなったあと、同社を率いたのは息子のジャンニだった。父親の代から続く技術偏重型の経営は変わることがなく、第二次世界大戦後は戦前にアルファロメオのGPマシーンの数々を設計したヴィットリオ・ヤーノを招聘し、1951年には世界初のV型6気筒エンジンを搭載し、デフとギアボックスが一体化したトランスアクスルを持つアウレリアを発表。

クーペボディのアウレリアには「GT」の名が与えられ、同車をベースにしたレーシングカーのD20は、ミッレミリアやタルガ・フローリオ、ル・マン24時間耐久レースなどのモータースポーツで活躍した。また、1954年と1955年のシーズン途中までモータースポーツの最高峰であるF1にも参戦している(レース結果は振るわず、エースドライバーのアルベルト・アスカリの事故死や資金難により撤退し、スタッフと設備をフェラーリに譲渡)。

しかし、第二次世界大戦によってイタリアは国土が荒廃し、高級車市場が縮小したことに加え、採算を度外視した革新的な技術を追い求める姿勢、複雑な製造プロセス、時代遅れの製造機械、オートメーション化とは無縁の手作りによる生産工程などの高コスト体質によって、ランチアは1955年に倒産。これにより創業家は経営から退き、実業家のカルロ・ペゼンティが同社を買収して経営権を握ることになる。


ランチアの伝統を尊重したペゼンティは、ヤーノの後任としてアントニオ・フェッシアを主任設計者に招き入れ、1960年代にはフラミニア、フラヴィア、フルヴィアなどの名車を相次いで発表して復興期を迎えることになるが、それでもなお財務状況は改善されず、1969年に拡大政策を推し進めるフィアットによって買収されてしまう。


フィアット傘下に収まったランチアは、それまで培ってきた良好なブランドイメージを生かし、フィアットグループ内における高級車部門との位置づけで、ベータに始まり初代デルタやテーマ、デドラなどのフィアットと基本コンポーネンツを共用する車種を1970~1980年代にかけて相次いで発表して行った。


EUの前身となるEC(欧州共同体)の成立以前、欧州各国の自動車市場は極めて閉鎖的で、高額な関税によって各国の自動車産業は手厚く保護されており、フランス人ならフランスのメーカー、イタリア人ならイタリアのメーカー、イギリス人ならイギリスのメーカーの中からクルマを選ぶのが一般的なことであった。1967年にECが成立すると加盟国同士の貿易には関税が掛からなくはなるが、それでも1980年代くらいまでは多くのユーザーは、それまでの惰性で慣れ親しんだ自国メーカーのクルマを選んでいたようである。こうした背景からイタリアの富裕層が高級車を選ぼうとしたときに、ごく自然に購入候補に挙がるのがランチアだったのだ。
理解しづらいイタリアの国情を反映した高級車づくり
イタリアという国は超高級GTのフェラーリを作るいっぽうで、国民の大多数はチンクエチェントや126、パンダ、プントのようなフィアット製の安価な小型車に乗る。すなわち、イタリアは封建時代からの階級社会が現在でも色濃く残り、貧富の差が大きな国なのだ。
戦後のイタリアは、高度経済成長期が終わるとテロとストライキが横行する混乱期を経て、硬直した政治における腐敗と汚職の蔓延する時代となり、ベルルスコーニによるポピュリズムの台頭、再びの多党制への回帰している。イタリアの戦後政治は政党間の合従連衡を繰り返すばかりで、安定とは程遠い状況にある。
これでは格差是正など実現できるはずもなく、北部と南部の経済格差や、未成年者の絶対的貧困は是正されることなく今日に至る。治安は一応安定しているとはいうものの、犯罪認知件数は年間200万件を超え、ローマ、ミラノ、フィレンツェ、ナポリなどでは、スリやひったくり、置き引き、詐欺、強盗、麻薬売買などの犯罪が横行している。車両窃盗や車上荒らしも多く、目立つクルマに乗るとそうした被害(下手をすれば身代金目的の誘拐被害にも)に合うリスクが高まる。

おそらく、そうした国情も反映されているのだろう。現在のイタリアにも貴族階級は存在するのだが、家庭内での貴族としての行儀作法や習慣として残すのみで、イギリス貴族のように日常生活で富や贅沢さをひけらかすようなことはない。
セレブリティたちが所有する高級車と言えば、フェラーリやマセラティなどのハレの日に乗る趣味性の強いスポーツカーが中心で、盗難防止のため普段それらは人目の付かないガレージの奥に保管されている。贅を尽くしたロールスロイスやベントレーなどの超高級サルーンを日常使いで乗り回す人はほとんどいない。
そんな彼らがアシとして日頃愛用していたのがランチアであった。そうしたイタリアの国内市場にピタリと焦点を当てたランチアのベルリーナは、狭く入り組んだ道の多いイタリア都市部の道路事情を反映してサイズはEセグメントまでが中心で、ローマ法王御料車(パパモビル)やイタリア大統領専用車のような国家元首クラスの公用車に用いる場合には、ストレッチリムジンとして仕立て直すことで対応していた。

同じフィアットグループのライバルとなるアルファロメオが実用車でありながら熱い走りとスポーティさを全面に押し出していたのに対し、共通のメカニズムを持つランチアは、抑制の効いた古典的な内外装デザインの中に走りの資質を隠したシックでエレガントな高級車であった。
多少強引なことを承知で言えば、ドメスティックで中庸な高級車という点で考えると、ランチアは「イタリアのクラウン」とでも言うべき存在だった。こうしたランチアのキャラクターはイタリアの文化的背景や国内事情とは無関係な日本人を含む外国人にはなかなか理解しづらいようにも思う。

しかし、1993年にEU(欧州連合)が成立し、欧州の自動車市場がグローバル化すると、イタリアの国内市場でも徐々にドイツ車が存在感を示すようになる。マーケットのボトムレンジは相変わらずフィアットがしっかりと押さえていたものの、ランチアやアルファロメオなどのプレミアムレンジをアウディやBMWが侵食し始めたのだ。それでもホットな走りとスポーティさを持ち味とするアルファロメオはドイツ車にはない個性で差別化が図られていたが、問題はランチアだった。

1990年代中盤以降のランチアのラインナップは、テーマ後継のEセグメント車のカッパ、156派生のプラットフォームに独自のメカニズムを与えたDセグメント車のリブラ、フィアット・ティーポから派生したCセグメント車の2代目デルタ、プント派生のBセグメント車のイプシロンが主力であったが、そのいずれもが派生元であるフィアット色の強いクルマたちであり、ドイツ車の構成に対抗するには力不足は明らかであった。
販売面で苦戦したランチアは、次世代のテージス、3代目デルタでランチアらしい再び独自性を全面に押し立てたクルマで再起を図るも、時代と商品性の間にズレが生じてしまったのか、これらは商業的な成功とは至らず、揃って討ち死にしてしまう。
その挙げ句、これらの後継車となったのはFCAの成立に伴うクライスラーとのラインナップの共有化により、300Cや200のOEM車というのだから往時の栄光を知るランチアファンからすれば噴飯ものだっただろう。

だが、それらのバッジエンジニアリングによるランチア車はイタリアとアメリカという市場の違いもあって成功はおぼつかず、2010年代半ばには、3代目イプシロンを残してラインナップのほとんどが短期間で市場から退場を余儀なくされた。

ランチアとはイタリア車趣味を極めた先にたどり着くエデン
2024年11月17日(日)に埼玉県吉見町で開催された『さいたまイタフラミーティング2024』には、数は決して多くはないがランチアのエントリーもあった。
日本では1998年にガレージ伊太利亜が正規輸入を打ち切って以来、ランチアは並行輸入で少数が上陸したに過ぎない。たしかに「スポーティさをウリにしないイタリア車」というのは、イタリア車ファンの中でもコアなファンでなければ理解しにくいかもしれない。
しかし、それでも……いや、だからこそランチアは得難い存在とも言える。大方のイタリア車ファンは、青年期にフィアットの小型車で入門し、そこからアルファロメオへと進む。そして、ある程度歳を重ねるとフォーマルで落ち着いたランチアにたどり着くというのが、かつては麗しきイタリア車趣味の王道であった。

なかにはマセラティやフェラーリなどのさらなる高みを目指す人間もいたが、そんな彼らとてランチアの価値は充分に認めていて、晩年のエンツォ・フェラーリがランチア・テーマを公用車に用いていたことを引き合いに出し、趣味車のフェラーリとともに日常のアシとしてランチアのベルリーナを愛用するというのをイタリア車趣味の理想的な終着点としていた。
もちろん、そうした過去を現在のランチアに求めることはできないのかもしれない。しかし、アルファロメオを四半世紀に渡って愛し続け、現在は派手なピンクのフィアットをアシとする筆者ではあるが、齢五十を超えた現在、エレガントでシック、それでありながらイタリア車のエッセンスを凝縮したランチアという存在がどうにも気になって仕方がないのだ。おそらくベテランのイタリア車ファンならこの気持ちをわかってくれると思う。

冒頭で紹介した「いつかはクラウン」というコピーは、日本の高度成長期の上昇志向とサラリーマン社会における立身出世の願望を体現したものだった。いっぽうでイタリア車ファンの胸の奥底にある「いつかはランチア」という心情は、それとは本質的に異なり、社会的なポジションや収入の多寡ではなく、年齢を重ねることで人生観や趣味趣向の深化によって辿り着くエデンでもあるのだ。
ランチアの魅力、それはたしかにグローバル市場で通用するような普遍的なものではないのかもしれない。しかし、それはフィアットやアルファロメオを体験した人間にとっては、イタリア車趣味の「上がり」のクルマでもある。そこに至ったオーナーは極めて幸せなカーライフを送る人でもある。