デルタだけじゃない!じつは”イタリアのクラウン”だった?ランチアの名車と歴史を『さいたまイタフラミーティング』で振り返る

2024年11月17日(日)に埼玉吉見町で開催された『さいたまイタフラミーティング2024』のリポート5回目は、自己主張の激しいイタリア車の中にあって、控えめでありながらシックでエレガントなことを持ち味とするランチアを紹介する。イタリア国内の富裕層を顧客としたランチアは、いわば「イタリアのクラウン」とでも言うべき存在である。だが、近年は市場のグローバル化が進んだことにより、国内市場重視のドメスティックな高級車作りをするメーカーはすっかり数を減らしている。しかし、国情に合わせて進化してきた土着な高級車には、その国の風土や歴史、国民性が反映され、グローバルカーにはない味わい深さを秘めているのだ。
REPORT&PHOTO:山崎 龍(YAMAZAKI Ryu)

参加台数600台!?『さいたまイタフラミーティング』はイタリア車&フランス車だけでなくイギリス車や国産車でもOKで希少車も多数エントリー!

2024年11月17日(日)に『さいたまイタフラミーティング』が埼玉県吉見町にある吉見総合運動公園で開催された。今回で11回目を数えるこのイベントには、関東一円を中心に新旧さまざまなイタリア車とフランス車が600台以上も集まった。昨年に引き続き、今回はミーティング当日の様子をリポートする。

自動車市場のグローバル化により徐々に駆逐されてゆく
日本市場独自の高級車……その栄枯盛衰

ロールスロイスやベントレー、メルセデス・ベンツSクラス、レクサスLSのようなFセグメントの高級車は、輸出市場を考慮していることもあり、世界のありとあらゆる地域、すべての民族、いかなる文化圏でもわかりやすい豪華さ、贅沢さ、機能性を具現化するのが常である。いっぽう、そのひとつ下のEセグメントとなると事情は少し異なってくる。

メルセデス・ベンツEクラスやBMW5シリーズのようなグローバル市場で普遍的な人気を誇るクルマもあるにはあるのだが、片や製造メーカーが拠を置く地場市場を狙った極めてドメスティックなクルマもかつてはそれなりに存在感を示していた。

例えば、ちょっと前までのクラウンがそうだ。昭和から平成にかけてのクラウンと言えば、「いつかはクラウン」のキャッチコピーに象徴されるように、メインターゲットは一部上場企業に勤めるサラリーマンや公務員などの保守的なホワイトカラーの中高年層だ。

1987年に発売されたクラウン3.0ロイヤルサルーンG。昭和型クラウンの集大成とも言える8代目クラウンは、輸出を考慮しない極めて内向きな高級車だった。そのメインターゲットは保守的なホワイトカラー層で、ユーザーが憧れを抱く「贅沢」を熟知していたトヨタは、彼らの望むクルマを提供し続けることで、クラウンは日本における高級車市場のスタンダードとなった。(PHOTO:TOYOTA)

同じ「オヤジ車」でも主に自営業者が好んだ日産セドリック/グロリアとは異なり、いたずらにスポーティさなどを狙わない(スポーティさはある種のカジュアルさのことでもあり、フォーマルを旨とする高級セダンには本来ふさわしくはない)。

1989年式セドリックV30ターボブロアムVIP(PHOTO:NISSAN)
国内市場でクラウンの最大のライバルとなったのが日産セドリック/グロリア(写真はY31型)だった。いや、ここは「当初は」と注釈を入れるべきかもしれない。クラウンと違って日本の高級車の王道になれなかったセドリック/グロリアはときにクラウンに寄せ、ときに差別化を図って対抗しようとしたものの果たせず。
1989年式グロリアV30ターボブロアムVIP(PHOTO:NISSAN)
バブル時代に「スポーティさ」と「ヤンキー趣味」という他にはない個性と魅力を与えることで独自路線を歩むことになる。これは日産高級車が中古車になると「ヤン車」や「族車」「VIPカー」などで人気を博していた現実を考えると、潜在的なユーザーはそこにあると開き直った上での判断だったのかもしれない。そして、それは正しかったとも言える。

誤解を恐れずに言ってしまえば、ただただ静粛性が高く、サスペンションはソフトで、シートの掛け心地が良いということを追求した高級車であった。

1987年式クラウン3.0ロイヤルサルーンG。(PHOTO:TOYOTA)

また、インテリアをよく見れば、木目調パネルはフェイクだし、センターコンソールの側面などの目立たない場所に使われる部材はプラスチッキーで安っぽい。だが、日本人にとっての「高級なもの」あるいは「良いもの」との価値判断は自身が下すものではなく、世間の評価、すなわち外的な要因で決まるものなので、そうした細かな部分に大半なユーザーは気にしなかったのだろう。

1987年式クラウン3.0ロイヤルサルーンGのコックピット。(PHOTO:TOYOTA)

クラウンが長年多くのユーザーに愛されてきたのは、トヨタが日本のサラリーマンが憧れを抱く「贅沢さ」の正体を熟知していたからに他ならない。
押出感のあるルックスでありながらも下品とまではならず、クラウンとひと目でわかるラジエターグリルを備え、内外装のクロームメッキをの多用し、車体を大きく見せる直線基調による寺社仏閣スタイルのボディ、スムーズなパワートレイン、遮音が聞いていて静かな車内空間、掛け心地の良いモケット張りシートなどなど……。

1987年式クラウン3.0ロイヤルサルーンGのインテリア。(PHOTO:TOYOTA)

これらは一昔前の映画やドラマに登場する社長宅の応接間にも通じるものがあった。
ペルシャ絨毯の上にレザー張りのソファセットがセッティングされ、カフェテーブルにはクリスタルの重い灰皿が置いてある。天井にはシャンデリア風の照明が下がり、サイドボードにはロクに飲みもしない洋酒が並ぶあの空間だ。

宮仕えの身でも気後れするほどのことはなく、手にして得られる満足感と心の落ち着きが同居し、クリーンで、リッチで、サラリーマン生活を何十年か恙無く積み重ねていけば、いずれは手に入れらるであろう贅沢さ。

1987年式クラウン・セダン3.0ロイヤルサルーンG。(PHOTO:TOYOTA)

日本のサラリーマン社会における贅沢さなど興味も関心もない外国人からすれば「これが日本を代表する高級車?」と理解不能に陥るのかもしれないが、日本のホワイトカラーからすれば、まさにクルマに対する憧れを体現した存在がクラウンだったのだ。

その勘所を掴んでいたからこそトヨタは高級車の王道としてクラウンを国内で売りまくり、対して覇道を行くしかなかった日産は、セドリック/グロリアにクラウンにはない魅力を与えることに四苦八苦したあげく、バブル期に自社ユーザーの実態を認めて、開き直ったかのように「スポーティさ」と「ヤンキー趣味」をウリとすることで対抗したのである。

結果として、1990年代に入る頃にはクラウンは国内の高級車市場で押しも押されぬ存在となる一方で、セドリック/グロリアはクラウンの価値観に染まらない人々、すなわち、建設業、製造業、運輸業、飲食業を中心にした「成功したブルーカラーのための高級車」というポジションを得ることで生き残りを図った。

当初、その日産の戦略は一応の成功を収めた。その最たるものがバブル期に「下品で成金趣味」であることを包み隠すことなく開けっぴろげにしたことで爆発的にヒットした「シーマ現象」であったと筆者は考える。

だが、この勝負は日産に時の利がなかった。バブル崩壊後、日本経済が長期低迷に陥ると、「寄らば大樹の陰」で組織に所属した人間のほうが生活は安定する。クラウンが堅調な販売面を維持するいっぽうで、新車にポンと大金を支払える自営業者が減ったことで、日産製高級車は販売面で苦戦することになった。

1991年式シーマType-IIIリミテッドL AV(PHOTO:NISSAN)
2代目シーマはウリであったターボパワーを封印し、マルチシリンダーを与えてスタイルは英国調の上品なものとしてしまう。上品に仕立てた日産車で成功したためしは過去1度もないというのに……。そして、2000年代以降は輸出市場を重視したクルマづくりとなり、日産高級車を好んできた人達の趣味趣向と完全に外れてしまい販売は低迷することになる。

しかし、そんなクラウンにもやがて落日の日が訪れる。世紀を跨ぐ頃からユーザーの世代交代が進み、昭和型のサラリーマン的価値観に興味も関心もない世代が購買層の中心になると、彼らはクラウンのようなドメスティックな国産車を選ばず、メルセデスやBMW、アウディ、あるいはトヨタが高級車ブランドとして立ち上げたレクサスなどのグローバル市場で通用する高級車を選ぶようになったのだ。

2022年に発表された現行型クラウンシリーズ。それまでの昭和型クラウンを愛した年配のユーザーには到底受け入れられないようなモデルチェンジであったかもしれないが、ドメスティックな高級車としてのクラウンはすでに命脈が尽きようとしていた現実を考えると、輸出市場も視野に入れたグローバルな高級車として生まれ変わらせたトヨタの判断は正しかったと言える。

その結果、昭和のイメージを強く残すクラウンは徐々に販売台数を落として行き、2022年に発表された16代目となる現行型クラウンでは、グローバル市場への投入を前提に開発コンセプトをガラリと変えた4車種を同時発表。これをもって古式ゆかしきドメスティックなクラウンは終焉を迎えたのである。

スポーティさを売りにしないイタリア国内向け高級ブランドとしてのランチア

前置きが長くなったが、こうした傾向は日本車だけに限った話ではない。巨大なボディに大排気量エンジンを搭載したキャデラックのセダンシリーズは、2003年登場のCTSを皮切りにアイコンであったV8エンジン搭載車を主力モデルから外してダウンサイジング。高速域での操安性を重視して足廻りを引き締め「アート&サイエンス」と呼ばれる近代的なスタイリングを与えられたことでグローバル市場で通用する高級車に生まれ変わった。

2003年式キャデラックCTS(PHOTO:CADILLAC)

イギリスのジャガーも同様で、2008年のXFからは従来のクラシカルなスタイリングを捨て去り、伝統の本革とウッドによる内装の代わりにモダンなインテリアを与えている。それどころか「2025年にジャガーブランドの全ラインナップをフルバッテリーBEV化する」と発表し、今後は電動車のみを販売して行くという。

2008年に登場したジャガーXF。写真は2012年にマイナーチェンジされた後期型。(PHOTO:JAGUAR)

そして、ようやく今回の主役であるランチアだ。ランチアというとストラトスや037ラリー、インテグラーレなどのWRCでの活躍に目を輝かせる人もいるとは思うが、このメーカーがラリー競技に参戦していたのは技術力を証明するためであり、ランチアの本質からかけ離れた一種の徒花的な存在と言えるものだった。

WRCで活躍したラリーウェポンのランチア・ストラトス。このマシンが現役だった当時、日本では空前のスーパーカーブームがあり、多くの人間に「ランチア=ラリー車メーカー」として印象付けた。しかし、それはランチアの一面でしかない。写真は2024年のオートモビルカウンシルの出展車両。
1980年代後半~1990年代初頭のラリーシーンで鮮烈な印象を残したランチア・デルタシリーズ。(写真はHFインテグラーレエボルツィオーネ)。このクルマのファンは多く、特にラリーファンを熱狂させた。写真は2023年に開催された『さいたまイタフラミーティング2023』のエントリー車。

それではランチアの真髄とはどこにあるのか? それはイタリア市場へ向けたドメスティックな高品質・上質なベルリーナにこそあった。
もともランチアはモータースポーツ愛好家で、フィアットのテストドライバーを経てワークスチームとしてレースに参戦していたヴィンチェンツォ・ランチアが1906年に創立。同社はフルラインナップのフィアットと競合しない高級車を得意とした。

ヴィンチェンツォ・ランチア(1881年8月24日生~1937年2月15日没)
1881年にトリノ近郊のフォベッロ村に生まれたヴィンチェンツォ・ランチアは、幼少期から数学の才能があり、成長とともに機械や工学、そして自動車に興味を持つようになった。学校を卒業すると、トリノの自転車輸入業者ジョヴァンニ・バッティスタ・セイラーノの弟子となった彼は、そこでエンジニアとしての基礎を学ぶ。その後、彼はフィアットのエンジニア兼テストドライバーの職を得たランチアは、この頃に「トリノ自動車クラブ」の設立発起人であり、のちにモータージャーナリストとして活躍するカルロ・ビスカレッティ・ディ・ルフィアと友人となった。ランチアが初めてレースに参戦したのは1900年のことで、それを皮切りに内外のレースに積極的に参戦するようになる。1900年にル・マンで開催された最初のフランスGPでは最速タイムでライバルをリードしたほか、1908年の第2回ヴァンダービルドカップではレース8周目までをトップで快走するもジョン・W・クリスティーが運転するFWDレーサーに追突されてリタイアしている。彼がフィアットから独立し、自らの名を関した自動車メーカーを起こしたのは1906年のことで、翌1907年に初の生産車となるランチア・アルファ(α)12HPを発表している。その後はラムファやアプリリアなどの革新的で高品質な高級車を相次いで発表している。また、1930年に友人のバッティスタ・ファリーナ(通称ピニン)に出資し、トリノ市カンビアーノにカロッツェリア・ピニン・ファリーナを共同で設立している。1937年2月15日に心臓発作により55歳の若さで死去した。彼の残したランチア社は妻のアデーレ・ミリエッティと息子のジャンニによって経営が引き継がれた。
ジョン・W・クリスティーについてはこちらの記事で詳細に解説している。

技術志向の強い同社は自動車の発展にも大いに貢献し、モノコックボディや独立式サスペンション、V型6気筒エンジン、5速トランスミッション、風洞実験に基づくボディなどを世界に先駆けて量産車に採用したことでも知られている。その名声はランチアの最上位モデルは1925年にムッソリーニが首席宰相になって以来、イタリア元首の公用車に多数採用されてきた歴史が物語っている。

1922~1931年にかけて生産されたランチアの中型乗用車のラムダ。世界に先駆けてモノコックボディを採用するとともに、量産車初となる前輪独立懸架を採用する。心臓部は軽合金製ブロックの狭角V型4気筒SOHCエンジンを搭載しており、「当時の実用車の技術的進化を一気に10年も早めた」と評価されるほどの革新性を持っていた。

技術偏重の伝統と歴史が醸成するプライドは買収後も引き継がれるが……

1937年にヴィンチェンツォが亡くなったあと、同社を率いたのは息子のジャンニだった。父親の代から続く技術偏重型の経営は変わることがなく、第二次世界大戦後は戦前にアルファロメオのGPマシーンの数々を設計したヴィットリオ・ヤーノを招聘し、1951年には世界初のV型6気筒エンジンを搭載し、デフとギアボックスが一体化したトランスアクスルを持つアウレリアを発表。

1950~1958年にかけて生産されたランチアの中型乗用車のラムダ。ヴィンチェンツォの死後、経営を引き継いだ息子のジャンニによって招聘されたヴィットリオ・ヤーノが設計を手掛けた。世界初のV6エンジン搭載車としても知られている。

クーペボディのアウレリアには「GT」の名が与えられ、同車をベースにしたレーシングカーのD20は、ミッレミリアやタルガ・フローリオ、ル・マン24時間耐久レースなどのモータースポーツで活躍した。また、1954年と1955年のシーズン途中までモータースポーツの最高峰であるF1にも参戦している(レース結果は振るわず、エースドライバーのアルベルト・アスカリの事故死や資金難により撤退し、スタッフと設備をフェラーリに譲渡)。

ヴィットリオ・ヤーノ設計によるランチアのF1マシンD50。1954年のシーズンから参戦したが成績は振るわず、エースドライバーのアルベルト・アスカリの事故死、ランチアの経営難によって翌1955年のシーズン途中でF1から撤退している。残されたマシンと設備、スタッフはフェラーリへと譲渡され、ランチア・フェラーリD50として5勝を挙げた。

しかし、第二次世界大戦によってイタリアは国土が荒廃し、高級車市場が縮小したことに加え、採算を度外視した革新的な技術を追い求める姿勢、複雑な製造プロセス、時代遅れの製造機械、オートメーション化とは無縁の手作りによる生産工程などの高コスト体質によって、ランチアは1955年に倒産。これにより創業家は経営から退き、実業家のカルロ・ペゼンティが同社を買収して経営権を握ることになる。

2024年11月に開催された『さいたまイタフラミーティング2024』にエントリーしていたランチア・フルヴィア。1963~1976年にかけて生産されたランチア車の小型乗用車で、ラムダからの伝統である狭角V型4気筒エンジンをツインカム化したパワーユニット、FWDレイアウト、ディスクブレーキなどの高度なメカニズムを採用していた。高い工作水準と上品なスタイルもあって1960~1970年代を代表するランチアの乗用車となった。
ランチア・フルヴィアのリヤビュー。スクウェアで端正なスタイリングはピエロ・カスタニェロの手によるもの。設計はアントニオ・フェッシアが担当した。写真の車両は1967~1968年にかけて生産されたベルリーナGTで、最高出力80psを発揮するクーペ用の1.2Lエンジンを搭載した。

ランチアの伝統を尊重したペゼンティは、ヤーノの後任としてアントニオ・フェッシアを主任設計者に招き入れ、1960年代にはフラミニア、フラヴィア、フルヴィアなどの名車を相次いで発表して復興期を迎えることになるが、それでもなお財務状況は改善されず、1969年に拡大政策を推し進めるフィアットによって買収されてしまう。

『さいたまイタフラミーティング2024』に参加していたランチア・フルヴィアクーペ。1965年に登場し、ベルリーナからホイールベースを15cm短縮し、パワーユニットは90psを発揮するDOHC化された狭角V4を搭載する。
ランチア・フルヴィアクーペのリヤビュー。1965年末にはラリー参戦を前提としたクーペHFが追加され、その後はラリー1.3HFやラリー1.6HFを経て、132psを叩き出すシリーズ最強のラリー1.6HFヴァリアンテ1016へと進化した。

フィアット傘下に収まったランチアは、それまで培ってきた良好なブランドイメージを生かし、フィアットグループ内における高級車部門との位置づけで、ベータに始まり初代デルタやテーマ、デドラなどのフィアットと基本コンポーネンツを共用する車種を1970~1980年代にかけて相次いで発表して行った。

1973年に登場したランチア・ベータクーペ。1972~1984年にかけて生産されたランチアベータの派生車種として生まれた。ベータはフィアット傘下になってから最初にデビューしたランチア車で、フィアット124や125と共通のエンジンを横置きに搭載したFWDレイアウトを採用した。足まわりはマクファーソンストラット式四輪独立サスペンションが与えられている。美しいスタイリングのクーペはランチアのデザイン部門が手掛けている。(PHOTO:LANCIA)
1984~1994年にかけて生産されたランチアのフラッグシップとなったテーマ。フィアット、アルファロメオ、サーブの4社による「ティーポ・クワトロ」プロジェクトで誕生した。プラットフォームと車体中央部は4社で共用化が図られている。なお、基本となるデザインはジョルジェット・ジウジアーロが担当した。テーマにはフェラーリ製3.0L V型8気筒32バルブエンジンを搭載した8.32というモデルも設定された(1986年発表、1988年発売)。写真は1988年にI.DE.Aの手でフェイスリフトが行われたシリーズ2のターボ16V LX。(PHOTO:LANCIA)

EUの前身となるEC(欧州共同体)の成立以前、欧州各国の自動車市場は極めて閉鎖的で、高額な関税によって各国の自動車産業は手厚く保護されており、フランス人ならフランスのメーカー、イタリア人ならイタリアのメーカー、イギリス人ならイギリスのメーカーの中からクルマを選ぶのが一般的なことであった。1967年にECが成立すると加盟国同士の貿易には関税が掛からなくはなるが、それでも1980年代くらいまでは多くのユーザーは、それまでの惰性で慣れ親しんだ自国メーカーのクルマを選んでいたようである。こうした背景からイタリアの富裕層が高級車を選ぼうとしたときに、ごく自然に購入候補に挙がるのがランチアだったのだ。

理解しづらいイタリアの国情を反映した高級車づくり

イタリアという国は超高級GTのフェラーリを作るいっぽうで、国民の大多数はチンクエチェントや126、パンダ、プントのようなフィアット製の安価な小型車に乗る。すなわち、イタリアは封建時代からの階級社会が現在でも色濃く残り、貧富の差が大きな国なのだ。

戦後のイタリアは、高度経済成長期が終わるとテロとストライキが横行する混乱期を経て、硬直した政治における腐敗と汚職の蔓延する時代となり、ベルルスコーニによるポピュリズムの台頭、再びの多党制への回帰している。イタリアの戦後政治は政党間の合従連衡を繰り返すばかりで、安定とは程遠い状況にある。

これでは格差是正など実現できるはずもなく、北部と南部の経済格差や、未成年者の絶対的貧困は是正されることなく今日に至る。治安は一応安定しているとはいうものの、犯罪認知件数は年間200万件を超え、ローマ、ミラノ、フィレンツェ、ナポリなどでは、スリやひったくり、置き引き、詐欺、強盗、麻薬売買などの犯罪が横行している。車両窃盗や車上荒らしも多く、目立つクルマに乗るとそうした被害(下手をすれば身代金目的の誘拐被害にも)に合うリスクが高まる。

ハッチバックボディを採用したデルタの姉妹車として1982年に誕生したプリズマ。ボディタイプは3ボックスの4ドアセダンのみとなる。エンジンは1.3~2.0L直列4気筒ガソリンと1.9Lディーゼル/ターボディーゼルが用意され、駆動方式はデルタと同様にFWDと4WDが設定された。スタイリングはジョルジェット・ジウジアーロが担当し、コンパクトセダンながらランチアらしく気品のある仕上がりとなっている。(PHOTO:LANCIA)

おそらく、そうした国情も反映されているのだろう。現在のイタリアにも貴族階級は存在するのだが、家庭内での貴族としての行儀作法や習慣として残すのみで、イギリス貴族のように日常生活で富や贅沢さをひけらかすようなことはない。

セレブリティたちが所有する高級車と言えば、フェラーリやマセラティなどのハレの日に乗る趣味性の強いスポーツカーが中心で、盗難防止のため普段それらは人目の付かないガレージの奥に保管されている。贅を尽くしたロールスロイスやベントレーなどの超高級サルーンを日常使いで乗り回す人はほとんどいない。

そんな彼らがアシとして日頃愛用していたのがランチアであった。そうしたイタリアの国内市場にピタリと焦点を当てたランチアのベルリーナは、狭く入り組んだ道の多いイタリア都市部の道路事情を反映してサイズはEセグメントまでが中心で、ローマ法王御料車(パパモビル)やイタリア大統領専用車のような国家元首クラスの公用車に用いる場合には、ストレッチリムジンとして仕立て直すことで対応していた。

ローマ法王が公用車としてしようしたランチア・ジュビレオ。ランチア・テージスのストレッチリムジン版だ。ラインナップにFセグメントを持たないランチアでは大統領やローマ法王などの国家元首クラスからの公用車需要に対しては、フラッグシップとなるEセグメントの乗用車をベースに製作した。

同じフィアットグループのライバルとなるアルファロメオが実用車でありながら熱い走りとスポーティさを全面に押し出していたのに対し、共通のメカニズムを持つランチアは、抑制の効いた古典的な内外装デザインの中に走りの資質を隠したシックでエレガントな高級車であった。

多少強引なことを承知で言えば、ドメスティックで中庸な高級車という点で考えると、ランチアは「イタリアのクラウン」とでも言うべき存在だった。こうしたランチアのキャラクターはイタリアの文化的背景や国内事情とは無関係な日本人を含む外国人にはなかなか理解しづらいようにも思う。

テーマの後継車として1994~2000年にかけて生産されたEセグメント乗用車の2代目カッパ(初代は1919年に登場した大型乗用車)。この頃のランチアはイギリス市場をはじめ海外市場の多くを失っており、生産台数は国内を中心に8万台に留まる。(PHOTO:LANCIA)

しかし、1993年にEU(欧州連合)が成立し、欧州の自動車市場がグローバル化すると、イタリアの国内市場でも徐々にドイツ車が存在感を示すようになる。マーケットのボトムレンジは相変わらずフィアットがしっかりと押さえていたものの、ランチアやアルファロメオなどのプレミアムレンジをアウディやBMWが侵食し始めたのだ。それでもホットな走りとスポーティさを持ち味とするアルファロメオはドイツ車にはない個性で差別化が図られていたが、問題はランチアだった。

カッパの後継として2001年に登場したテージス。1998年トリノモーターショーで発表されたコンセプトカーのディアゴロスの市販バージョンと言える上質なEセグメント乗用車で、存在感のある懐古趣味的なスタイリングが特徴となる。ランチアとしては販売を回復させるべく独自性を全面に押し立てた高級車であったが、時代と商品性の間にズレが生じてしまったのか販売が低迷。現在のところ独自設計のランチア製大型乗用車としては最後のクルマとなってしまった。(PHOTO:LANCIA)

1990年代中盤以降のランチアのラインナップは、テーマ後継のEセグメント車のカッパ、156派生のプラットフォームに独自のメカニズムを与えたDセグメント車のリブラ、フィアット・ティーポから派生したCセグメント車の2代目デルタ、プント派生のBセグメント車のイプシロンが主力であったが、そのいずれもが派生元であるフィアット色の強いクルマたちであり、ドイツ車の構成に対抗するには力不足は明らかであった。

販売面で苦戦したランチアは、次世代のテージス、3代目デルタでランチアらしい再び独自性を全面に押し立てたクルマで再起を図るも、時代と商品性の間にズレが生じてしまったのか、これらは商業的な成功とは至らず、揃って討ち死にしてしまう。

その挙げ句、これらの後継車となったのはFCAの成立に伴うクライスラーとのラインナップの共有化により、300Cや200のOEM車というのだから往時の栄光を知るランチアファンからすれば噴飯ものだっただろう。

テージスの後継として2011年に登場した2代目テーマ。ご覧の通りのクライスラー300Cのリバッジモデル。ベースとなった300Cはなかなか良くできたクルマであったが、バッジを付け替えたからと言って、これがランチアと言われると……。(PHOTO:LANCIA)

だが、それらのバッジエンジニアリングによるランチア車はイタリアとアメリカという市場の違いもあって成功はおぼつかず、2010年代半ばには、3代目イプシロンを残してラインナップのほとんどが短期間で市場から退場を余儀なくされた。

2024年2月に久しぶりのランチアの新型車として登場した4代目イプシロン。世相を反映して電動化が図られたモデルであり、パワートレインはBEVと1.2L直3ガソリン+6速DCTに48Vバッテリを組み合わせたマイルドハイブリッドモデルを設定。スタイリングは往年のラリーウェポン・ストラトスの意匠が盛り込まれている。日本導入の予定は今のところなさそうだが、もし販売するのなら3代目のようにクライスラーブランドではなく、やはりランチアブランドで販売してほしいところ。(PHOTO:LANCIA)
ランチアブランド復活計画

ランチアとはイタリア車趣味を極めた先にたどり着くエデン

2024年11月17日(日)に埼玉県吉見町で開催された『さいたまイタフラミーティング2024』には、数は決して多くはないがランチアのエントリーもあった。

日本では1998年にガレージ伊太利亜が正規輸入を打ち切って以来、ランチアは並行輸入で少数が上陸したに過ぎない。たしかに「スポーティさをウリにしないイタリア車」というのは、イタリア車ファンの中でもコアなファンでなければ理解しにくいかもしれない。

しかし、それでも……いや、だからこそランチアは得難い存在とも言える。大方のイタリア車ファンは、青年期にフィアットの小型車で入門し、そこからアルファロメオへと進む。そして、ある程度歳を重ねるとフォーマルで落ち着いたランチアにたどり着くというのが、かつては麗しきイタリア車趣味の王道であった。

『さいたまイタフラミーティング2024』にエントリーしていた3代目ランチア・デルタ。2006年にランチア創業100周年を記念して製作されたプロトタイプのランチア・デルタHPEの生産型で2008年から市販された。CセグメントとDセグメントの間を狙ったボディサイズに、エレガントで伸びやかなスタイリングは特徴となる。

なかにはマセラティやフェラーリなどのさらなる高みを目指す人間もいたが、そんな彼らとてランチアの価値は充分に認めていて、晩年のエンツォ・フェラーリがランチア・テーマを公用車に用いていたことを引き合いに出し、趣味車のフェラーリとともに日常のアシとしてランチアのベルリーナを愛用するというのをイタリア車趣味の理想的な終着点としていた。

もちろん、そうした過去を現在のランチアに求めることはできないのかもしれない。しかし、アルファロメオを四半世紀に渡って愛し続け、現在は派手なピンクのフィアットをアシとする筆者ではあるが、齢五十を超えた現在、エレガントでシック、それでありながらイタリア車のエッセンスを凝縮したランチアという存在がどうにも気になって仕方がないのだ。おそらくベテランのイタリア車ファンならこの気持ちをわかってくれると思う。

3代目ランチア・デルタのリヤビュー。ガレージ伊太利亜の手で少数が日本に輸入された。エンジンはすべてターボ付きとなり、日本仕様はガソリン車が1.4Lと1.8L直4に加え1.6L直4ディーゼルを用意し、トランスミッションは1.4Lモデルに6速MTが組み合わされた以外は6速DCT。インテリアは正しく”小さな高級車”とでも言うべき内容で、ランチア好みのアルカンターラやポルトローナ・フラウ製の本革シートを採用している。

冒頭で紹介した「いつかはクラウン」というコピーは、日本の高度成長期の上昇志向とサラリーマン社会における立身出世の願望を体現したものだった。いっぽうでイタリア車ファンの胸の奥底にある「いつかはランチア」という心情は、それとは本質的に異なり、社会的なポジションや収入の多寡ではなく、年齢を重ねることで人生観や趣味趣向の深化によって辿り着くエデンでもあるのだ。

ランチアの魅力、それはたしかにグローバル市場で通用するような普遍的なものではないのかもしれない。しかし、それはフィアットやアルファロメオを体験した人間にとっては、イタリア車趣味の「上がり」のクルマでもある。そこに至ったオーナーは極めて幸せなカーライフを送る人でもある。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…