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このクルマの正体はいったい何だ?
1994年1月、トヨタビスタ店(当時)専売車両としてカレンというノッチバッククーペが発売された。この当時、日産の5代目シルビア(S13型)やホンダの4代目プレリュード(BA型)などが、スタイリッシュな感覚や仕上げの良さで若いユーザーに人気が高く、いわゆる「デートカー」と呼ばれてもてはやされていた。当然、カレンのターゲットはこれらのクルマである。
カレンを担当したトヨタ第2開発センター・チーフエンジニアの中川齊氏(当時)は、その意義についてこう語っている。
「たしかにトヨタには、このあたりのクーペが抜けていたんですね。気楽に乗れて若い男性にも女性にも親しみやすいクルマが欲しいというのが開発当初からの考えでした。ちょっと前ですと、2リッターのソアラがあったわけですが、それも大排気量化して価格面からも違う分野に行ってしまいましたし――はっきりいえば、デートカーですね」
生意気を承知で書かせていただければ、この狙いは十分に納得できた。ただ、「バブル崩壊直後」という時期が気がかりではあった。カレンが開発に取り掛かったバブル期には正論だったろうが、果たして今後、想定した「若いユーザー層」がバブル期と同様にクルマを乗り回し、小洒落たイタ飯屋(イタリア料理屋のことを当時の若者はこう呼んだ。間違いなく現在は死語)でも巡るようなデートをするだろうか? いや、もっと言えば今後も造作なく新車が買える、もしくは親から買い与えられるような「若いユーザー層」とやらが存在し続けるのだろうか? すでに弊社でも筆者の後輩の新卒社員達が、「就職氷河期」の苦労を当たり前のように口にしていた時期のことである。
それはともかく、カレンの開発スタッフを見回すと、実はこの少し前に発売された6代目セリカとほぼ同じ顔触れだと気づく。そしてチーフエンジニアも同じ中川氏。当時、筆者はモータースポーツ誌でWRC(世界ラリー選手権)記事の編集を担当していたので、当然ながらトヨタのWRC主力マシンであったセリカの情報は市販車も含めて追っていた。おまけに当時の筆者の愛車は1973年製のTA27型、すなわち初代セリカ・リフトバック1600GT、バナナテールの初期型だったから、セリカという車種には相応の思い入れもあった。だから直感でこのクルマの”正体”がわかった。「こいつはセリカ・クーペだ…」と。
昔の名前で出て…いません
1970年に登場したトヨタのセリカは、斬新なノッチバッククーペであった。一般に初代セリカは前年の東京モーターショーに展示されたコンセプトカー”EX-Ⅰ”がベースになったとされているが、本メディアのライターの一人である松永大演氏や筆者をはじめとするスタッフの取材と調査によると、事実は順序が逆だったことが判明している。すでにこの時点ではセリカの量産デザインは完成しており、そこから逆に”EX-Ⅰ”が作られたのだ。これはトヨタが当時の日本メーカーの中でいち早く発足させた、先行デザイン担当部署である「アドバンスト・デザイン・チーム」のアピールのためと思われるのだが、初代セリカの開発経緯の詳細は『モーターファン別冊 トヨタ初代セリカのすべて』をぜひご覧いただきたい。閑話休題。
さて、初代セリカはこの後、1973年4月にファストバック・スタイルの3ドア・ハッチバックとした「リフトバック」をファミリーに加えてさらなる好評を博し、世界的にも成功をおさめることになる(この後、トヨタではファストバック・スタイルのハッチバックを「リフトバック」と総称し、そのスタイリングの独自性を主張するようになる)。
以後、セリカはノッチバッククーペと「リフトバック」の二本立てで企画・販売されてきたが、1985年8月に4代目が発売される際、ノッチバッククーペは姉妹車のコロナと統合されて「リフトバック」だけとなり、6代目が発売された1993年10月、もはやセリカと言えば「リフトバック」が常識となっていた。
ところが…。セリカにノッチバッククーペがなくなったのは日本だけの話だった。海外に目を向ければ、クーペは一定の人気を保ち、延々と存在し続けていたのである。それが日本で久々に復活したのだ。ただしフロントマスクは3代目カリーナEDあるいは2代目コロナEXiVの系譜に属するものへ整形手術を施し、名前までカレンに変えて…。そう。歌のタイトルではないが「昔の名前で出ていません」なのだ。
人気が出るほど自らの首を絞めることに…
実は現在でも特に変わらない状況だが、自動車という商品は、ごく些細なエンジン出力やトルクの向上だったり目新しい機構を備えることが、商品力を高めて人々から評価されることにつながっている。あるいはモータースポーツで同型を名乗るレース専用車が活躍したことが、現実には機構も構造もかけ離れているにもかかわらず、その名声によって市販車の販売成績を押し上げることもある。これが自動車という商品にとって一種の「陥穽」ともなっていることは否めない。
そもそもセリカというクルマはスペシャルティカーであってスポーツカーではない。スペシャルティカーは、カレンが登場した当時もてはやされていた「デートカー」と同義でもある。ところがセリカはレース専用改造車が作られてモータースポーツで活躍したりするうちに、いつしかスポーツカー的な役割を担うことが期待され、代を重ねるにつれてそれが当然となってしまった。
コロナ/セリカ/カリーナの3姉妹体制になってからはなおさらで、少なくとも日本では、セリカというクルマのキャラクターにはスポーツ性が強く要求されるようになり、本道たるスペシャルティカーとしての立ち位置は希薄化していった。極端な話、「セリカはGT-FOURだけ作ってればいいんだよ」と言われかねない状況に陥りかねない…いや、多分、陥っていたのだ。そうなるとクルマ造りは「まずGT-FOURありき」に縛られることになる。これは決してクルマ造りにプラスにはならない。
それを中川チーフエンジニアはこんな言葉で語っている。
「セリカの場合には、あくまでクルマが先に来て、そのあとに人間がついてくる感じでしょう。自動車のハードウェアとして、性能を優先させるスポーツ・スペシャルティの価値を追求してきた結果がそうなったわけです」と。
後年、これと似た状況から大々的なブランド再編(と言うか大規模な軌道修正)を行なったクルマがある。日産スカイラインだ。スカイラインはプリンス自動車の昔から、そもそもが「上質な中型セダン」だ。だが、モータースポーツでの、特に「GT-R」の活躍でそこに人気が集中、「GT-R以外は不良在庫」と言われるような有様に陥った。そこで「GT-R」という車種を作って分離独立させ、自ら「GT-R」を否定。セダンの本道に立ち返ってスカイラインをやり直したのが2001年、11代目を数えた時のことだ(いささか厳密性を欠く性急かつ雑な説明で恐縮だが、本稿の性質上、ご容赦願いたい)。
たしかにカレンの使命は、当時、トヨタが持っていた5つの販売チャンネルのうちで最も歴史が浅く、販売高もオールトヨタの1割程度と少なかったビスタ店に、より量販できる専売の新しい車種をという要求に沿ったものだった。だが、デザイン開発に携わっていた第24デザイン室・エクステリア担当の沖勝之氏(当時)は、カレンとセリカは企画としては並行して進められており、デザイン開発順はセリカ、カレン、海外専売のクーペ
だと語っている。到底、「ビスタ店のための付け足し車種」とは思えないプライオリティではある。まるで元からカレンの計画が存在していたかのようだ。
かなり独断と偏見に満ちているとは思うが、こう見てくると、カレンにはセリカというブランドの再編をはかるという目論見があったのではないか。それまでに作り上げてきた(作り上げられてしまった)スポーツ・イメージを払拭し、GT-FOURという極めて特異な存在からも自由になることで、スペシャルティカーとしてのセリカの存在感を取り戻す…。
しかし残念ながら、カレンは売れなかった。現在では「レア車」扱いされるほどに売れず、ついにスペシャルティカーの存在感を示すことは出来なかった。セリカがGT-FOURと決別したのは次の7代目のことだが、そのセリカもGT-FOURと決別した途端に36年の歴史に幕を下ろす羽目に陥ってしまった。
もし仮に、後の日産スカイラインと同様、6代目の時点でセリカからホットモデルのGT-FOURを分離させて「GT-FOUR」という独立車種を作り、カレンを王道スペシャルティカーのセリカ・クーペとして販売していたらどうなっていただろうか?
やはりバブル崩壊後の世界では、いずれにせよスペシャルティカーは絶滅する運命にあったのかも知れない。 大衆は貧乏をこじらせて質実剛健へ、そして時代は実用車をベースとしたRVへ、ミニバンへと確実に動いていたのだから。
■トヨタカレン(zs・5速MT) 主要諸元
全長×全幅×全高(mm):4490×1750×1310
ホイールベース(mm):2535
トレッド(mm)(前/後):1510/1490
車両重量(kg):1170
乗車定員:5名
エンジン型式:3S-GE
エンジン種類・弁機構:水冷直列4気筒DOHC16v
総排気量(cc):1998
ボア×ストローク(mm):86.0×86.0
圧縮比:10.3
燃料供給装置:EFI
最高出力(ps/rpm):180/7000
最大トルク(kgm/rpm):19.5/4800
トランスミッション:5速MT
燃料タンク容量(ℓ):60
10.15モード燃費(km/ℓ):12.0
サスペンション方式:(前)ストラット/(後)ストラット
ブレーキ:(前)ベンチレーテッドディスク/(後)ディスク
タイヤ(前/後とも):205/55R15
価格(税別・東京地区):208.4万円(当時)