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サスペンションのAアームまで折れた
1966年8月5日。茨城県・谷田部の自動車高速試験場で行なわれるTOYOTA 2000GTのスピードトライアルのドライバーとして、後のチーム・トヨタの核となる5人のメンバーが集められた。細谷四方洋、田村三夫、福沢幸雄、津々見友彦、そして8月1日に契約したばかりの最年少、鮒子田寛である。
津々見が後のインタビューに答えたところによると、「トライアルカーが日本グランプリの練習で燃えたクルマをベースにしていることは、当時すでに聞いていました。でも、実際に乗ってみて、そんなことは全然わからなかった」。
本番まで正味2カ月。事前テストは4回行われたというが、今までレースでも大きなトラブルを起こさなかった3M型エンジンが数時間で壊れてしまう。さらに車体関係でも様々なトラブルが起きた。
「スピードトライアルのテストの時には、ピストンに2回も穴を開けてしまいました。サスペンションのAアームも1回折れています」。TOYOTA 2000GTの開発ドライバーを担当した、チーム・トヨタのキャプテン・細谷四方洋はそう語っている。
さらに、タイヤの偏摩耗やバーストも発生したという。250km/hをはるかに超える高速走行によって生まれる遠心力でタイヤが変形したのが原因と考えられたが、開発チームには全く予期せぬトラブルだった。
「エンジンさえ持てばイケる」と踏んでいた希望は見事に打ち砕かれた。それでも78時間の走行を目指して事前テストは続いた。しかし、肝心のエンジンが壊れてしまう。仕方なくエンジンを積み替えてテストを続行したという。開発チームは大きな壁にぶち当たっていた。
トヨタとヤマハ、そしてアイシンの情熱
細谷の話によると、さらにはこんな事件も起きた。「練習の時に、なんか速度が上がらないな……と思っていたら、うっかりオイルチェンジャーを引きずって走っていた。
本当にあの時は、一瞬、青くなりました。ずっと引っ張ったまま1周して戻ってきた。オイルがこぼれなかったのが幸いでした。オイルチェンジャーとは、ガソリンスタンドに置いてあるアレです。冷蔵庫よりは小さいけど、頑丈だったからホースがちぎれなかった。今だから話せることですけどね」。
空気抵抗を生むサイドミラーを装備していないトライアルカーでは、リア周辺の作業をドライバーが確認できなかったのだ。これをきっかけに、ピットからのスタート合図の信号が「右と左の作業で両方がOKになったら緑、片方だけではダメ」と改良された。人為的ミスを減らす、トヨタ流の“カイゼン”である。
新設計したオイルポンプを組み込んだエンジンは直前に完成した。ヤマハの自動車部開発課長だった田中俊二によると、「横から差し込んで駆動するタイプのオイルポンプをアイシンさんがすぐに設計して、本当に1週間ぐらいで作ってくださったんです」。ヤマハの依頼でトヨタがシリンダーブロックを作り、アイシンがオイルポンプを作る。それは、トヨタとヤマハ、そしてアイシンの信頼関係と現場の情熱がなければ出来ないことだった。
作り直されたシリンダーブロックと新設計のオイルポンプを使って、スピードトライアル用の3M型エンジンが組み上げられた。作られたエンジンは、試験運転用、本番用、そして予備用の3基だった。しかし、マシンに搭載して実走テストしている時間はない。エンジンベンチで78時間の耐久試験が行われた。
「3日ぐらいベンチで回しました。しかし、なんだかんだいっても実際に走るのとベンチ上でエンジンを回すのは違うんですよ」と田中が言う通り、気温・気圧の変化や走行抵抗など、当時のエンジンベンチでは現在ほど実走行を精密に再現することはできなかった。
ましてや、谷田部の高速周回路ではバンクを走る。横Gだけでなく縦Gもエンジンや車体に影響を及ぼす。ベンチ上では大丈夫でも、実際の走行となるとトラブルが発生する可能性は少なくなかった。それでも、ベンチでの耐久試験は無事に終了し、10月1日の本番を迎えることになった。
鮒子田によると、「私は3回の長距離テストに参加しましたが、3回ともさまざまなトラブルが出ました。本来ならテストで目標距離を完走して本番に突入という段取りですが、実際のところは見切り発車のぶっつけ本番だったんですね」(続く)