「ワンガンより愛を込めて」最高速チーム“ミッドナイト”の看板を背負って走り続けた男【公道最強伝説】

首都高湾岸線最高速アタック

東京湾の海岸線に沿って千葉、東京、神奈川を結ぶ60km弱の高速道路、首都高速湾岸線。言わずと知れた日本最大級の最高速ステージである。90年台前半の全盛時には、週末ともなると最高速ランナー達が集まり、地上から数十メートル高いこの場所で、激しい空中戦を繰り広げていたものだ。そんな激戦区を最前線で駆け抜けた男が今回の主役だ。

250km/hからの加速勝負が全てだった

「幕張や南部のゼロヨンにも通っていましたけど、結局は最高速に絞りました。当時働いていたチューニングショップの看板を背負い、MA70で湾岸を走り始めたんです。ターボA用タービンにF-CON制御で430psくらいでした」と語り始めた彼。

しかし、湾岸でタクシーと絡んでクラッシュ。MA70は全損してしまうが、すぐにJZA70を購入して再び走り出した。まずはブーストアップ仕様。2回走ってタービンブローしたのを機にトラストTD07Sタービンキットを組んだ。追加インジェクターを打ってF-CONで制御し、カムも交換。ブースト圧1.3キロ時に500psを発揮した。

「その頃、湾岸習志野のロイヤルホストに通い詰めて。雨さんやトラスト大川さんが走り出すのを外で待つんです。そういう走り屋が大勢いました。湾岸に乗って勝負は市川PAまで。雨さんがGReddy.IIIで来てた時、俺、横に並びました。けど、一般車に前を塞がれてブレーキング。決着はつかなかったんですが、雨さんに“お前、踏むじゃん”と認められて一緒に走るようになったんです」。

チームを組んでいたわけではなく、数人の仲間達と走っていた彼はある日、雨さんからこんなことを言われた。
「俺らよりもミッドナイトの連中の方が速いから、あいつら追いかけた方が面白いよ」と。

彼は雨さんの言葉を受けて、ターゲットをミッドナイトに変更する。湾岸習志野のロイヤルホストが溜まり場だったのは変わらないが、ミッドナイトが集まるのは雨さんや大川さんが出た後の深夜2時頃。湾岸に上がるのは3時を回っていた。

「何ヵ月も毎週ミッドナイトを追いかけ回して。そうしたら、大黒PAで僕が偶然会った雨さんと話しているのをミッドナイトのメンバーに目撃されて。“雨さんと知り合いならウチに来なよ”と誘われたのが、ミッドナイトに入るきっかけでした」。

その後、メンバーが集まる横浜のゲームセンターに呼ばれて自己紹介。丁稚期間の1ヵ月は礼儀や人間性が見られ、ロイヤルホストでの車両誘導も担当した。そうしてメンバーと共に湾岸を走っていると、まずもらえるのが新人のピンクステッカー。1年後、その走りや出席率が認められた彼は、正式メンバーの証であるシルバーステッカーを手に入れた。

「シルバーステッカーは50人くらいいたと思います。圧倒的に多かったのがBNR32、次にMA/JZA70スープラとMZ20ソアラ。ロータリー系はFD3Sでした。FC3SやS13もいましたけど、先頭集団を走るのは厳しかったですね」。

湾岸最高速の全盛期は1990~1993年。チームとしてはミッドナイト一強の時代だった。その走りを一目見ようと、陸橋コーナー手前の路肩には多くのギャラリーが連なり、市川PAは混雑を極めるほどの盛り上がりを見せていた。

しかし、彼の同期が一般車を巻き込んだ大きな事故を起こしてしまう。若手の中心的存在と見られていた彼は、その件で先輩に問い詰められたこともあり、「それ以降、正直やりづらくなりました」と語る。

また、警察の取締りが強化され、いざこざのあった暴走族による“ミッド狩り”も横行。1990年代半ば以降、湾岸に漂う最高速ランナー達の熱気は次第に収束していったのだ。

「C1ランナー外伝」全盛期の首都高を生きた男のリアル【公道最強伝説】

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