3兄弟として1988年にデビュー
ジウジアーロは1988年のトリノショーに、言わば3兄弟のコンセプトカーを出品した。左右独立コクピットが特徴的なスパイダーのアズテック、低いキャビンをガラスで覆ったクーペのアスピド、そして2列5人乗りミニバンのアズガード。アウディの5気筒ターボを横向きにミッドシップした4WDのメカニカルレイアウトは、3台に共通だ。

88年当時すでに、最高速度が200km/hを超える高性能セダンが存在していた。レースカー顔負けの性能を持つスーパーカーもある。そんな時代にスポーツカーはどうあるべきか? それを自問自答したのがアズテックだ。

250psのエンジンと4WDで充分な動力性能と運転しやすさを両立させた上で、デザインは斬新でありながらもレーシーになりすぎない。だからフェンダーを盛り上げたり、大きなエアインテークを設けたりしなかった。左右のコクピットを区切ったのは、乗員それぞれがドライビングに集中するエモーションを醸し出すためだ。コドライバーの正面には半円形のアシストグリップとハルダ製ラリーコンピューターが装備されている。


アスピドのデザインはアズテックをベースに開発した。ショルダーから下は基本的に同じデザインで(ノーズのインテーク形状だけ異なる)、実は着せ替えが可能。パーツを交換すればアズテックからアスピドへ、またはその逆にコンバージョンできる。

アズガードは高級ミニバンの提案だ。ホイールベースを300mm延ばし(2950mm)、全高も上げて、5人分のゆとりあるスペースを確保(荷室には2つの子供用折り畳みシートも備える)。そこに250ps/4WDの走りの愉しさを組み合わせた。なおアズテックとアスピドは5速MTだが、アズガードは4速ATを採用する。

エンジンはアウディ200用の2.2L/200ps・5気筒ターボを、ドイツのMTMというチューナーに依頼して250psにパワーアップ。これをトランスミッションとデフも含めて、コクピットの後ろに横向き搭載する。そのデフをセンターデフとして使い、そこから前後にプロペラシャフトを延ばすという4WDだ。ジウジアーロは既存のユニットを利用しながら、独自のミドシップ4WDのレイアウトを実現してみせた。
横置きFFのパワートレインをリヤミッドに持ってくれば手っ取り早いが、それでは後輪荷重が大きくなりすぎる。元々は縦置きのユニットを横置きし、それとリヤデフをシャフトで結ぶことで、前後重量配分を改善すると共に、エンジンの後ろにラゲッジスペースも確保。エンジンは車両右側に寄せて搭載し、左側には燃料タンクを配置している。巧妙かつ理に叶ったレイアウトだ。
●ジウジアーロの歩みを映し出すデザイン
88年トリノショーの開幕に先立って、イタルデザインは市内のビスカレッティ自動車博物館でプレスコンファレンスを開催した。アズテック/アスピド/アズガードの3台を披露しただけではない。88年はイタルデザインの創立20周年という記念の年。ジウジアーロは創立からの歩みを振り返り、それを支えてくれた関係者に謝意を表明した。
アズテック/アスピドのデザインにも、ジウジアーロ自身の歩みが反映されている。

1959年、フィアットで働いていたジウジアーロは、友人の紹介でヌッチオ・ベルトーネの面接を受ける。それに向けて自宅で描きためたスケッチのなかに、運転席と助手席をそれぞれ透明キャノピーで覆ったスポーツカーがあった。それを思い出し、デザインしたのがアズテックというわけだ。30年近くも温めていたアイデアを、記念の年に実現させたのである。

ベルトーネとギアのチーフデザイナーを経て、ジウジアーロは67年にイタルスタイリングを設立して独立した。その時点ではまだギアとの顧問契約が残っていたが、それが終わった翌68年にイタルデザインに改称して正式に再出発。新会社の存在をアピールすべく、同年のトリノショーに向けて、たった40日間で1台のショーカーを開発した。ビッザリーニ・マンタだ。
レースカー設計者、ジオット・ビッザリーニが手掛けたミッドシップ・シャシーをベースに、ジウジアーロはモノフォルムというまったく新しいデザインのスポーツカーを生み出した。乗員空間の後ろにエンジンがあるなら、長いノーズなど必要はない。ボンネットを大胆に切り詰め、それとウインドシールドを滑らかにつなげた。マンタのモノフォルムは、その後のカーデザインに大きな影響をもたらすことになる。

そんなマンタの提案性を受け継いだのがアスピドだ。ガラスの成形技術の進化に着目したジウジアーロは、コクピットを3次曲面のガラスで覆うことを発案。結果的に左右二分割のガラスになったが、マンタとは異なるモノフォルムを最新技術で実現させた。
●ジウジアーロの名を自動車史に残す
1988年トリノショーから1年半を経た90年春のジュネーブショーでイタルデザインは「アズテックを生産化する」と発表。しかもその内容は「50台限定で生産して日本で販売」という、とりわけ日本人にとっては驚くべきものだった。
ショー会場で宮川秀之氏に聞いた。ジウジアーロの長年の友人で、イタルデザインの加わり、国際営業担当として会社の発展に貢献した人物だ。88年当時は自身のコンパクトという会社の経営が本業になっていたが、トリノやジュネーブのショーではいつもイタルデザインのブースにいて筆者の取材に応えてくれていた。

「ジウジアーロはこれまで数多くのクルマをデザインしてきたが、ショーカーはショーだけで終わってしまうし、量産車はあくまでメーカーのもの。これでは本当の意味で、自動車史に彼の名が残ることにならない」と宮川氏。「そこでアズテックを限定生産することによって、ジウジアーロの名を歴史に残したいと考えた」
生産化を決めた理由はわかったが、なぜ「日本だけ」なのか? それを問うと、「この人に聞けばわかる」と一人の日本人の名前と電話番号を渡された。帰国してすぐに電話したのだが、「私は黒子だから」と取材NG。交渉すること半年余り、秋も深まった頃にようやくインタビューが実現した。
●本場イタリアで修業したキーマン
その人の名は牧清和。後にガンディーニ・ジャパンを設立してマルチェロ・ガンディーニと日本メーカーの橋渡し役を務め、さらにステュディオ・エンメというカロッツェリアを開業し、ダイハツやマツダ、トヨタなどのショーカーを製作することになる人物だ。
90年当時の牧氏はGSジャパンという会社の代表取締役。同社には田中猛氏という共同経営者がいて、ある広告代理店が田中氏にカスタムカーのビジネスを提案。当初はあまり乗り気でなかった牧氏も、「やるならイタリアと共同でやるべきだと思って、義兄に相談していた」。

義兄とは宮川秀之氏のことだ。牧氏は製麺大手の社長の子息。もともとクルマと飛行機が大好きだったが、大学卒業後は家業を継ぐべくパスタの製造技術を学びにイタリアに渡る。しかしパスタ調査の合間にサルジョットというカロッツェリアを見学に行ったことが、人生の岐路になった。「オレがやりたいのはこれだ!」。
すぐにサルジョットに弟子入りした牧は、徒弟奉公でカロッツェリアのクルマ作りを習得。その後もいくつかのカロッツェリアで修行を重ねると共に、国立の技術学校の夜学にも通って自動車のボディ設計などを学び、68年にイタルデザインが創立されると、板金や組み立て、品質検査などの担当者として加わることになった。
そんななかで知り合った宮川氏の妹と結婚。71年に帰国すると、茨城県土浦市にTECAUTO=テカウトを設立した。本場イタリアの技法でカスタムカーを作る、日本初のカロッツェリアだ。
牧氏は3人の日本人スタッフを雇い、技術を教えながら、テカウトの能力を示すためのプロトタイプの製作を始める。しかし、それが8割ほど完成した頃、事故が起こった。車体の下にもぐって作業していた牧氏がボディに挟まれ、椎間板損傷の大怪我。テカウトは稼働停止を余儀なくされ、翌72年に解散となった。奇跡的に怪我から回復した牧氏はその後、南米でそば農場を経営するなど、家業の製麺事業の一翼を担うべく邁進することになる。
そうやって10数年を過ごした後、牧氏は再び家業から離れ、GSジャパンを設立。89年からカスタムカー・ビジネスを模索し始めた。そこに浮上したのが、アズテック生産化のプロジェクトだ。
●体制は整ったが・・バブル崩壊の飛燕
宮川氏のコンパクト社がアズテックの製造販売権をイタルデザインから取得。生産はサビオというカロッツェリアに委託し、その品質については牧氏が責任を持つ。公道を走るのに必要な認証の業務は、エンジン・チューンを依頼したMTMが担当する。生産を始めるには先行投資が必要で、「これをどう調達するかが難題だった」(牧氏)が、東京のアドックという会社が出資を決断。同社が販売を受け持つことになった
こうしてプロジェクトの枠組みが出来上がり、89年の初夏、アズテックの生産化がイタルデザインから正式に承認された。88年ショーカーとのいちばんの違いはエンジンで、89年にアウディ200に追加された最新の4バルブ・ユニットを採用。ノーマルは20psアップして220psだが、MTMチューンのアズテック用はあえてショーカーと同じ250psにとどめた。

(https://www.youtube.com/watch?v=Ld0CnooPd44)
90年秋に筆者が牧氏に取材したとき、プロジェクトは順調に進んでいるように思えたが、予定されていた91年東京オートサロンでの日本デビューは残念ながら実現しなかった。91年5月のモナコGPでデモ走行を披露したのが、生産型アズテックの1号車だ。F1ドライバーのベルトラン・ガショーがステアリングを握り、モンテカルロの市街地サーキットを走った。
その後、アドックはコンパクト社やイタルデザインの協力を得てプロモーションビデオを制作するなど、販売に向けて努力したが、91年と言えばバブル崩壊の年だ。資金繰りが難しくなり、92年にプロジェクトは志半ばで終焉を見ることになる。結果として何台が販売されたのか? 今は悠々自適の生活を送る牧氏に当時の記憶を辿っていただくと、「10数台だと思う。2/3が海外の顧客だった」とのことだ。
今回のオートモビル・カウンシルに展示されたのは、日本に残る数少ないアズテックの1台。大切に維持してきたオーナーも含めて、それは自動車史にジウジアーロの名を残そうと尽力した日本人たちの情熱の結晶だ。今もなお色褪せないそのデザインには、「歴史」という言葉の重みが詰まっている。
