フードデリバリーは江戸時代に遡る!?
ウーバーイーツに代表されるフードデリバリー・サービスが登場する以前、1950~1970年代は出前と言えば、蕎麦やうどん、ラーメン、寿司などのいわゆる店屋物の「出前」を意味していた。
出前の歴史は意外と古く、歌舞伎の演目に出前持ちを主人公にした『福山のかつぎ』があることからもわかるとおり、江戸時代中期、享保年間(1716~36年)にはすでに存在していたようで、その当時の出前と言えば江戸庶民から愛された蕎麦切りのことだった。

この当時の蕎麦屋は、「板前」(蕎麦打ち)、「釜前」(茹でと盛り付け)、「中台」(種物の調理)、「花番」(接客)、そして出前担当の「外番」とそれそれ役職の異なる専門の職人が担当していた。その中でも外番は店から独立した職能集団であり、この職人のことを「かつぎ」と称した。彼らは口入れ屋と寄親・寄子(中世日本における親子に擬制して結ばれた主従関係)の関係を結んだ上で「外番」を求める店の依頼に応じて派遣されていた。
蕎麦は生ものだ。茹でたてはシコシコと腰があり、ツルツルと喉越しも良く、なんとも言えない旨さがあるが、時間をおいてしまうとフニャ~と伸びて食えたものではない。茹で時間や繋ぎの配合で多少の調整は効くが「おやど」(客が来店する店のこと)に比べて出前は味の面でどうしても不利になる。それを少しでもカバーするのが外番の役割であり、配達スピードが何よりも重視された。
当時の蕎麦屋が上得意としていたのは花街や商家で、ときには一度に大量の注文を届けることもあり、「かつぎ」の仕事はまさしく体力勝負。彼らに要求されたのは、健脚な上に豪腕、さらには汁こぼれや盛り付けを崩さないように運ぶ熟練した技術であった。

「かつぎ」の仕事着は『福山のかつぎ』の助六よろしく、豆しぼりの手ぬぐいに向こう鉢巻、赤い腹がけに印半纒、素足に草履履きという鯔背(いなせ)な姿だったらしい。当時の職人らしく背中に見事な彫り物を背負っていた者も多かった。配達の際には天秤棒の先に岡持ちをぶら下げて、江戸の街を肩で風切り、韋駄天の如き速さで疾走していたようだ。

そんな彼らは職人としてのプライドが高く、他店の向こう三軒両隣には依頼されても出前を断る、どんなに急ぎの配達でも他店の暖簾の前を横切らないように遠回りをするなどの仲間内の仁義を守って仕事をしていたという。短気で見栄っ張り、気風が良く、向こう見ずで喧嘩っ早いという江戸っ子らしい性格の持ち主が多かったらしい。歌舞伎の演目にもなるくらいだから、江戸の人々にとっては大工や左官、鳶(町火消しも務めた)などと並び、男らしくてカッコイイ仕事と思われていたに違いない。
文明開花で出前も進化?
片手に高く積んだ丼と蒸籠、片手に自転車のハンドルで走り抜ける
明治になっても外番の仕事に大きな変化は起こらなかったが、大正の頃から蕎麦屋にも合理化と機械化の波が徐々に押し寄せるようになる。製麺機や混合機が登場したことで複数の職人による分業体制が崩れてひとりの職人が何役もこなすことが当たり前となり、それに合わせて「外番」も直接雇用された従業員の仕事へと移り変わって行く。この頃になると自転車が庶民の間でじわじわと普及して行ったこともあり、徒歩(かち)による配達はほどなくして姿を消すことになる。

しかしながら、彼ら「かつぎ」の仕事は相変わらず体力仕事であることに変わりはなかった。写真に残る大正~昭和の彼らは、どんぶりや蒸籠を出前膳(平盆)に何段にも重ねた状態で自転車を片手運転し、大都会を曲芸さながらに駆け抜けて行くという姿であった。

まだ、ファミレスやファーストフード店などもなく、東京でいえば銀座や日本橋、浅草などの繁華街を離れれば洋食レストランも珍しい時代のことだ。手軽な外食と言えば、テイクアウトによる店売りと蕎麦やうどんの出前が中心だった。昼時のオフィス街ともなれば「かつぎ」の男たちは100人以上、重さにして40~50kg、大人の男の背丈ほどにも積み重なった蕎麦や丼物を肩に担ぎ、片手運転でハンドルを捌いて、ビルの谷間をすいすいと自転車で走り回っていた。
もちろん、そんな曲芸じみた芸当が一朝一夕にできることはずもない。新人は暇を見つけては先輩から指導を受けながら練習して技を磨き、少しずつ出前前の段数を増やし、運ぶ蒸籠や丼を増やして行ったとのことだ。
第二次世界大戦後の「かつぎ」は、次は交通戦争に巻き込まれる……
時代は少し飛んで太平洋戦争の終結直後の話。この当時は長く苦しい戦争が終わったあとも食料・物資不足は続いており、米や小麦粉と言った主食はあいかわらずは配給制が続いていた。外食に関しても「米、麦、めん類などの指定主食およびそれを使った料理は指定された食堂以外では売ってはならない」との統制経済が解除されずにいた。この時代の外食は政府から指定された「外食券食堂」(政府が発行した「外食券」を客が店に渡すことで食事ができる食堂)でのみ許されており、それ以外はヤミ営業であり非合法だった。

その後、食料事情が徐々に改善してきたこともあって、1951(昭和26)年に規制が撤廃され、外食が自由化される。この頃からポツポツと営業を再開する蕎麦屋が現れ始めた。それに合わせて昼時の街角では再び蒸籠や丼をうず高く積み自転車で配達する「かつぎ」の男たちの姿を見かけるようになった。

終戦直後、戦災と不作の影響で日本が食糧難に陥った際にアメリカが小麦粉を緊急援助し、当時の日本人は主にこれを麺類に加工して食した。そんな経緯もあり、この時代は庶民の間で麺類はとくに人気が高く、気軽な外食であった蕎麦屋は猫の手も借りたいほど忙しかったという。そうした状況もあって「かつぎ」はどこの店でも人手不足。中には主人の足元を見て威張ったり、法外な給金を要求する不届き者もいたようだ。
だが、時代は戦後復興期である。朝鮮戦争による特需もあり、東京の道路はトラックを中心に一気に交通量が増加した。おまけに23区内でもまだまだ舗装路が珍しいという時代だ。交通インフラも、法整備も、人々の安全意識も低い状況もあって当然のように交通事故が急増する。

もちろん、事故の被害は「かつぎ」の男たちも例外ではなかった。1951年の東京だけでも大田区で配達中の蕎麦屋の主人がトラックにはねられて即死。文京区や新宿区でも同様の交通事故で蕎麦屋の従業員が死亡するなど、新聞で報じられただけでも3件の痛ましい事故が発生している。おそらくは報道されていない事故を含めれば、全国でかなりの人間が配達中の事故で死傷していたはずだ。
いかに熟達した技術を持つ「かつぎ」とは言え、肩に出前膳を担いでの片手運転は片側の視界が遮られ、危険に気がついても緊急回避さえ覚束なくなる。すでに磨き上げたワザひとつでどうにかなる時代は過去のものとなっていたのだ。ここに江戸時代から続く出前は存亡の危機に直面した。
相次ぐ事故に心を痛めた蕎麦屋の主人が出前の機械化を目指す!
こうした状況に心を痛め、事態を改善しようと立ち上がったひとりの蕎麦職人がいた。その人の名は當麻庄司(とうましょうじ)氏。目黒区祐天寺にあった蕎麦屋『大朝日』(現在は閉店)の2代目店主だ。彼は戦前に父親が営んでいた蕎麦屋を1951年7月に復活させる。

前述の通り、当時は蕎麦屋の人気が高く、出前の需要が高かったことから、この店でも3人の外番専門の従業員を雇っていたのだが、それでも昼時になると引っ切りなしに注文が舞い込み対応しきれないほど忙しかったそうだ。しかし「かつぎ」は技能職であり、誰にでも務まる仕事ではない。人手が足りないからと言って安易に人を増やすことはできなかったという。そこで當麻氏は出前の機械化をどうにかできないものかと頭を悩ませていた。

そんなある日、『大朝日』でも出前中の従業員が交通事故に遭う。幸いにも生命に別状はなかったが、全治2ヶ月の大怪我を負った。新聞で同様の事故が都内各地で頻発していることを知った彼は、機械については素人ながら一念発起して出前品運搬機(以下、出前機)の開発に乗り出すことを決意する。

朝日屋高円寺店
住所:東京都中野区大和町3-2-10
TEL:03-3337-7792
営業時間:11:30~15:30/17:00~20:30
定休日:月曜日
出前機に必要な要件とは、
1:道路状況の如何にかかわらず荷台は常に水平を保つこと
2:凸凹道を走ることを想定し、路面からのあらゆるショックを緩衝できるようにすること
3:既存の什器が使用でき、少なくとも3段重ねの出前盆を運べる積載能力があること
の3つだった。

アイデアを構想すること数日。たまたま見かけたスタンド型の鳥籠に着想を得た當麻氏は、実物大の図面を描き、試作の段階に入った。とは言え、彼は大掛かりな専門の製造技術も工作機械も持ち合わせてはいなかった。そこで本体フレームなどの金属加工が必要なパーツは町工場を頼り、スプリングなどは麻布の古川橋にあった自動車部品専門店で適当なものを見繕って購入した。必要な部品がすべて揃って試作1号機を製作したのは1952年2月のことだった。
営業終了後の深夜、當麻氏は出前機の試作1号機を試してみる。はやる気持ちを抑えつつ、自転車の荷台に試作出前機を取り付け、実際の配達と同じようにうどんの入った丼を乗せた出前膳を1段積み、當麻さんはそろそろとペダルを漕ぐ。するとほどなくして後ろからガタガタと音がしだした。運転中のため確認することができなかったが。どうやら丼が踊っているらしい。そして、緩やかな坂道に差し掛かると荷台がぶらんぶらんと揺れ始め、ついに出前膳が道へと滑り落ち、丼はもちろん膳まで割れ、うどんは散乱して最初の実験は無残な結果に終わった。
しかし、これで挫けるような當麻氏ではなかった。次の夜もまた次の夜も、改良を加えては実験し、同じような失敗を何度も繰り返した。店の周りの道路脇には掃除しても取りきれなかった丼のかけらが目立つようになり、ドブが閊えて困るとの苦情が近所から寄せられるようになる。すると、その度に當麻さんの夫人は掃除をしなおして手助けしてくれたそうだが、実験のたびに店の丼が消耗し、とうとう営業に支障が出るほどまでになったという(瀬戸物問屋に頼んで商品にならない傷モノや売れ残りを安く譲ってもらうことで事なきを得る)。
失敗と試作を繰り返し、ついに実用化の目処が……
実験開始から1週間ほどが経過した頃、當麻氏は荷台の揺れにより、丼が転げ落ちるのを防ぐアイデアを思いつく。荷台を1点で吊っているからブランコのように揺れが次第に大きくなって、やがては荷崩れを起こしてしまうわけだが、この揺れを完全に止めてしまっては水平を維持できなくなる。そこで荷台の水平を維持しつつ、揺れをコントロールするために前後・左右に機械的な抵抗を加えれば良い。そのように考えた當麻氏は横揺れに対しては自作したパーツではずみ車を作って揺れを押しとどめ、縦揺れに対しては殺虫剤の噴霧器を流用することで、空気摩擦による抵抗を利用して揺れを抑さえることにしたのだ。
果たせるかな、この試みは上手く行った。1952年6月、平坦な道路、それも出前膳1段に限ってはどうにか運べる試作1号機改が完成したのだ。実用には耐えずとも出前機実用化の目処がついた瞬間だった。

だが、試作1号機改は平坦路では問題がなくとも、少しでも道に勾配がつくと簡単に荷崩れし、路面の凹凸にも弱かった。そこで當麻氏は荷台の緩衝に空気バネを利用しようと考えた。彼は自転車用の空気入れを4つ購入し、この中に金属製のスプリングを封入。本体フレームと荷台の接続部分に4本柱の空気バネを取り付けたのだ。
これによって上下の衝撃をかなり押さえ込むことができ、出前膳1段に限っては実用に耐え得る試作2号機が完成した。ただし、出前膳を2段以上重ねると膳と膳が滑って転げ落ちるため、まとまった数の注文を1度に運ぶには、まだまだ改良が必要だった。
そこで當麻氏は今後の研究改良を実地で行うために、思い切ってスクーターを購入(車種は不明。おそらくラビットかシルバーピジョンだろう)し、試作2号機を荷台に取り付け、毎日の外番仕事で使いながら、徐々に改良を加えてより実用的な出前機を開発を目指した。また、ある程度実用化の目星がある程度ついたとの判断から、改良作業と並行して出前機の特許出願の準備に取り掛かることにした。

モトチャンプ 2021年2月号