電池というビジネス
電池ビジネスは超薄利多売だ。LIBに限らずNi-MH(ニッケル水素)でもアルカリ乾電池でも、これは変わらない。パナソニックはテスラ向けの車載LIB事業を単年度黒字化させるのに10年かかった。韓国勢の車載LIB事業も同様で、設備投資の累積を差し引くと「10年経っても赤字」という例さえある。
普段から我われが馴れ染んでいるアルカリ乾電池は、日本の家電量販店での販売価格が世界でもっとも安い。それが日本の乾電池メーカーの実力だ。素材は大量一括購入で、ほぼ無人の工場を延々と稼働させ、流通在庫を抱えない価格設定ができる卸値で出荷している。
乾電池工場を見学すれば、電池というビジネスの全体像がわかる。日本の乾電池工場の生産設備はもちろん日本製であり、手慣れた日本の工場設備事業者が搬入と据え付け、試運転を行なう。電池メーカー側の生産技術担当者も経験豊富で、完璧なコミュニケーションを取れる。故障したらすぐに設備メーカーが駆け付ける。
乾電池はIEC(国際電気標準会議)が規格化しており、形状と寸法が決まっている。日本のJISはこれに呼応している。規格品を均一な品質で高速大量生産するのは日本の得意技であり、だから中国製の乾電池は世界規模のシェアを獲得できなかった。乾電池は設備依存度が極めて高い超薄利多売商品であり、すでに日米製品のシェアが高い。だから中国政府は乾電池産業には補助金をばら撒かなかった。
しかし、LIBの世界では中国政府が多額の補助金をばら撒き、ほぼ10年をかけて「世界中に売りまくってもまだ余る」ほどの過剰生産体制を整え、価格決定権を握った。
欧州の夢、ノースボルトの蹉跌
その中国のLIB産業が過剰生産体制を整える前に、日本のパナソニックからLIB供給を受けていた米・テスラでサプライチェーンを担当するペーター・カールソン氏(スウェーデン人はピーターを呼ばずペーターと呼んでいる)は、LIBの将来性を察知した。欧州にはまだLIBメーカーがない。欧州でBEV(バッテリー電気自動車)が流行り始めたら供給を独占できる、と。
筆者はカールソン氏に会ったことはない。しかし、テスラ以降の彼の行動の足跡を調べれば、欧州でのLIB独占供給を夢見たことは容易に想像できる。そして、2016年にノースボルトが立ち上がったときは、まさに「われ先に」という投資ラッシュだった。
ノースボルトへの出資者はEUの金融機関である欧州投資銀行をはじめ、スウェーデン/ノルウェー/フィンランド/デンマーク/アイスランドの北欧5カ国とエストニア/ラトビア/リトアニアのバルト3国が共同運営する北欧投資銀行、デンマーク年金基金(ATP)、スウェーデン国民年金基金、さらにはOEM(自動車メーカー)からVW(フォルクスワーゲン)、BMW、ボルボ・カーズ、そして投資ファンドのブラックロックなど、一流どころがずらりと並んだ。
これがノースボルトへの期待の表れだった。欧州資本のLIBメーカーが渇望されていた。そこにノースボルトが現れた。2016年時点でのノースボルトは救世主であり、まさか9年後に同社が経営破綻するなどとは、だれも思っていなかった。
中心だった創業者のペーター・カールソン氏は、スウェーデンの通信大手エリクソンやオランダのNXPセミコンダクターズなどでサプライチェーンを担当してからテスラに入り、原価低減に手腕を発揮した。もうひとりのパオロ・チェルッティ氏もテスラでサプライチェーンを担当していた。しかし、ふたりとも技術者ではない。
ノースボルトの電池技術は阿武保郎氏が背負った。同氏はソニーやパナソニックで電池の経験を積んだほか、独BASFが出資するBASF戸田バッテリーマテリアルズの社長も務めた経験豊富なエンジニアであり、カールソン氏とも親交が深かった。カールソン氏にとっては、もっとも信頼のおけるエンジニアだったと思う。
しかし、ノースボルトは破綻した。理由はいろいろと言われており、そのすべてが「そうだろう」と思う。筆者はノースボルトの工場を取材したことはない。あまりに遠く、費用も考えると(フリーランスは基本、取材費は自腹)行く気になれなかった。現地へは行かなかったが、筆者なりの方法で2016年のノースボルト創業当時からずっと情報は集めていた。
理由は「いつか絶対に破綻する」と思っていたからだった。まったくのカンだが、拜騰汽車(BYTON)、ノースボルト、ブリティッシュボルトなどは筆者にとって破綻要注意企業だった。政治的思惑や、わかりやすい環境理念だけでは絶対にビジネスにならない。実際、この3社とも破綻した。
ノースボルトの破綻は必然だった
ソフトウェアや金融商品のような「見えない商品」とは違い、眼に見える実物としての商品を企画し、設計し、ものを作り、そのうえでビジネスとして成功させるには情熱が要る。青臭い言い方だが、商品をわが子のように思える経営陣とスタッフがどれだけいるかで成否は決まる。
筆者は新聞記者時代から数えると、およそ300カ所の工場を、延べ350回は取材している。同じ工場を何度か見た例も多い。マツダの宇品工場は43年間で9回取材した。スウェーデンのヨーテボリにあるボルボ・カーズのトールスランダー車両工場にも5回訪問した。自動車だけでなく自動車部品、鉄鋼、アルミ、樹脂、家電、建設資材、食品など、さまざまな工場を取材してきた。
その経験から、生産ラインとそこで働く人たちを見れば、だいたいその企業の実力は想像できるようになった。なので、いろいろなコネクションを使ってノースボルトの製造ラインの写真を集め、そこで働いた経験のある人を旧知のジャーナリスト諸氏に探してもらい、話を訊いてもらった。地元スウェーデンや欧州での記事も集めた。
案の定というか、ノースボルトの現場を知っている人は中国人だけだった。気心知れたドイツ人ジャーナリストにも依頼したが「現場スタッフには到達できない」と言われた。彼も血眼になって内情を知る人を探していたがダメだった。情報をくれたのは中国メディアだけだった。

ノースボルトが最初に工場を建てたのはスウェーデンのシェレフテオという小さな街だ。バルト海から運河を登った場所にあり、対岸はフィンランドである。過去に筆者が取材で訪れた「もっとも寒い街」は、スウェーデンの炭鉱の街・キルナである。冬場はマイナス30℃より暖かくはならない。そのキルナよりはシェレフテオのほうが緯度は低く、バルト海に面している分だけ暖かいが、それでも冬場の平均気温はマイナス25℃である。
なぜ、こんな寒いところにノースボルトは工場を建てたのか。しかもLIBに使う資源も素材もいっさい地産地消できない。材料の仕入れにも製品の運搬にもコストがかかる。
米国の自動車工場が北のデトロイト周辺からどんどん南へシフトしていったのは寒さを嫌ったためだ。工場内の重要な工程はだいたい20℃に保たれるため、寒ければ暖房費がかさむ。従業員にも住宅暖房手当を支給しなければならない。だから米国ではテキサス方面へと工場南下現象が起きた。
シェレフテオは電力をほぼ水力で賄えるらしい。「環境にやさしい工場」をノースボルトは目指したから、この土地だったと言われている。しかし、筆者が話を聴いた限りでは「あまりに寒くて会社の幹部は工場へ行かない」日々だったという。幹部スタッフは全員、突然のように「ここに住め」と言われた人たちだった。
写真を見れば、製造設備は日本製、中国製、韓国製のごちゃまぜだった。中国製のシェアが60%以上だったという報道もある。それは構わないのだが、電池の製造設備は非常にデリケートであり、手先の器用なアジア人を持ってしても量産までの微調整は手間がかかる。ノースボルトでは満足に機械は動いていなかったと想像する。

しかも、最終的にノースボルトはラミネート型、角形、円筒形の3種類のセルを作った。当然、生産ラインは電池形状によって異なる。ノースボルトの電池出荷量が極めて少ないという事実こそは「どれもうまく作れなかった」ことの証拠と見るべきだ。(2ページ目に続く)