
ファミリアは、特別な存在ではなかった。
少なくとも、広島にいた頃の彼女にとってはそうだった。学校の帰り道や住宅街の駐車場には、いつもファミリアがあった。男子たちの被っていた赤い野球帽と並んで、白やシルバーのファミリアが並ぶ光景は、ごく当たり前の風景だった。ひと口に「ファミリア」と言っても様々なスタイルのボディがあったから、極論、幼いころの彼女にとっては「あれもファミリア、これもファミリア」だったのだと笑った。
小学校の中学年のとき、父の転勤の都合で東京へ引っ越してきて、最初に感じた違和感のひとつが「ファミリアの少なさ」だった。街を歩いても、あまり見かけない。代わりに目に入ってきたのは、見慣れない他メーカーのクルマばかりだった。野球だってカープは東京ではマイナー球団で、カープが好きだと言うと、クラスの男子たちに奇異の目で見られた。クルマの世界にも、土地ごとの色があるのだと、そのとき初めて気づいた。

ファミリアの7代目となるBG型は、1990年代初頭の日本で「ちょうどいい」条件を備えたクルマだった。大きすぎず、小さすぎないボディ。運転しやすく、維持費も現実的。だが広島では、それ以上に「地元のメーカーのクルマ」という親近感があったのだろう。マツダの本拠地では、ファミリアは標準であり、安心の象徴でもあった。
デザインは直線基調で、過剰な主張がない。低めのボンネットと広い視界は、運転する人に余計な緊張を与えない。四隅が分かりやすく、狭い道でも扱いやすい。その実直さは、日常の足として理にかなっていた。
走りもまた、誠実だった。アクセルを踏めば素直に応え、ハンドル操作にも過不足なくついてくる。派手さはないが、不安を感じさせない。この時期――1991(平成3)年――のマツダによるル・マン24時間レースの日本車初優勝はお祭り騒ぎだった。ル・マンがフランスのどのあたりにあるかは定かではなかったが、それはカープの6度目のリーグ優勝と共に記憶され、地元民にとっては今でも、ある種の「誇り」と共に語られている。「マツダらしい走りの良さは、こういうクルマにもきちんと反映されとるんじゃ」と、彼女の父も少し誇らしげに言ったという。
東京に来てから、彼女の家のファミリアは「近所で少し珍しいクルマ」になった。それは、決して彼女の一家が変わり者だったわけではない。クルマの選ばれる理由が、土地によって違っただけだ。子どもながらに、クルマが単なる製品ではなく、地域や文化と結びついている存在なのだと感じていた。

ファミリアは、広島では“空気のようなクルマ”だった。特別に語られることはなく、それでも確実に生活を支えていた。東京でその姿をあまり見かけなくなったことで、逆にその存在感がはっきりと彼女の記憶に残ったのかもしれない。
ファミリアは、強く主張するクルマではない。それでも彼女にとっては、幼い頃を過ごした広島の風景とともに、確かにそこにあった。土地と生活に寄り添いながら、静かに役割を果たしていたクルマだった。











