激戦の2クラスで2年連続チャンピオン

 1985年からは改造スクータークラスと改造ミッションクラスに参戦。改造ミッションクラスはオクムラエンジニアリングからの援助はなく、加藤選手が自ら手を加えたマシンだったこともあり、最高位は2位だったが、この年に開催されたモトチャンプ4時間耐久レース用にオクムラエンジニアリングが作ったアルミフレームのMBXを使わせてもらえるようになり、シリーズチャンピオンを獲得した。

 このような経緯で、85年と86年は改造スクータークラスと改造ミッションクラスの両方で2年連続のダブルチャンピオンを獲得。オクムラエンジニアリングと「カトーくん」の名が名実ともに全国に轟いた全盛期だった。

モトチャンプが開催していたSHOP対抗ゼロハン4時間耐久レース用に作られたオクムラエンジニアリングのワークスマシン。MBX50のエンジンがアルミフレームに搭載され、前後にディスクブレーキを装備。このようなスタイルのマシンは当時多く存在した。
80年代のミニバイク全盛期は参加台数も非常に多く、2ストロークエンジンの甲高く遠くまで届く音質は近隣住民とのトラブルの元にもなっていった。必然的に音量規制も導入されることになり、サイレンサーも大型化していった。

ミニバイクレースの引退を考えていた時

 この頃、加藤選手はミニバイクレースの引退を考えており、奥村社長にも相談済みだった。と言うのは、85年からロードレース活動も初めており、ライセンスも取得していたが、ミニバイクレースが忙しく、ロードレース活動がままならなかったのだ。またミニバイクレースでは圧倒的な速さだったこともあり、当時の状況を「ぬるま湯に浸っていてもダメだ」と自己分析。思い切ってミニバイクを引退し、背水の陣でロードレースに飛び込んでいきたいという思いを引きずっていた。

 この86年にある出来事があった。静岡県の富士白糸スピードランドに遠征時に右足を骨折。シリーズ終盤を欠場することになり、ミニバイクを引退する年に最後まで走れずに悔しい思いをしていたのだ。

スチール製のワンオフフレームにパッソーラのフルチューンエンジンが搭載されたオクムラエンジニアリングのワークスマシン。リヤはKYB製のサスが2本装備され、フロントフォークはテレスコピック。ディスクブレーキも装備され前後アルミホイールとなっている。