マツダが「人馬一体」を科学する理由

MTは運転するのが楽しい。ワインディングを走るのも面白い。FRっていい。エンジンは大排気量に限る。いや、遅いクルマの方が走らせる楽しみがある……クルマの魅力について、人はそれぞれの実体験に基づく意見を持っている。
運転免許を取ったばかりの頃は、行ける場所が増えることや、いつもよりちょっとスピードを出せたことなど、自分自身の進歩が嬉しかった記憶がある人もいるだろう。高齢の家族の運転を見て心配になる一方で、「自分で運転できることはやりがいなのかもしれない」「出かけることが元気の源だ」と感じる機会も、高齢化社会では増えていく。
クルマは身近な存在で、その魅力や価値を肌感覚で理解しているユーザーは多い。もちろん自動車メーカーも、クルマの魅力やクルマによって生活を豊かにできることはよく理解している。ただ、社会や経済状況が変化して、従来通りの価値観に基づく提案ではクルマを買ってもらい、使い続けてもらうのが難しくなっている。
諸元表や価格で示せる魅力を磨くことも必要だが、「そもそもクルマの運転はなぜ楽しいのか。楽しいとどんな効果があるのか。走る喜びはどこから来るのか」を見つめ直すことが重要だ、とマツダは考える。
楽しさも喜びも、人が感じている。脳科学や心理学、人間工学の理論を基に人を研究し、クルマの面白さや楽しさ、嬉しさについて肌感覚でわかっていることを客観的に数値やモデルで示せれば、「乗る人が前向きに、元気になるクルマ」を開発して量産することも不可能ではなくなる。そんなマツダの“ひと中心”の研究について紹介する。

走る喜び、移動の感動を「量産」する
マツダは2030年に向けたビジョンとして、「走る喜びで移動体験の感動を量産するクルマ好きの会社になること」を掲げているが、これは単なる抽象的なスローガンではない。走る喜びは、これまでにもクルマとして作ってきた。人が何をどう感じるか(感性)を重視したクルマづくりは、すでに初代ロードスターで実践されていた。性能や品質の高さではなく、「クルマを運転することが何よりの楽しみである」というクルマを作ることを目指した。
初代ロードスターの企画で掲げた「人馬一体」という言葉を緊張感、ダイレクト感、ドライビング感、一体感、爽快感といった言葉に置き換え、実際のコンポーネントの機械特性に落とし込んでいった。緊張感を持たせるために社内の居住性設計標準を無視したり、ダイレクト感のためにステアリングやブレーキ、シフトレバーなどの“遊び”を極力少なくしたりした。また、自然との一体感を生み出す上では、当時はまったく市場性のなかったオープンカーであることがカギだと判断した。
また、使う人の感性を重視した商品開発=感性工学を世界で初めて提唱したのは、広島大学出身の長町三生氏だとされている。マツダ社内では、ロータリーエンジンの開発者として知られる山本健一氏が自動車における感性工学の重要性を1980年代半ばから訴えてきた。




これまでの感性工学と、現在進めているひと中心の研究の違いのひとつは、医学部との本格的な連携だといえる。ドライバーの感性のメカニズムを取り扱う基礎研究はテストコースや実験室で行なわれてきたが、実社会でのあり方に近付けた研究も必要だ。そこでマツダは2024年に弘前大学医学部に共同研究講座を開設した。
弘前大は地元の弘前市民を対象に20年にわたって1人当たり3000項目の精密な健康診断(岩木健康増進プロジェクト健診、通称岩木健診)を実施し、のべ2万人のデータを蓄積してきた。内科的な検査だけでなく全身の状態を網羅し、メンタルやライフスタイルに関するデータも豊富に持つ。こうした健康に関わるビッグデータに、さまざまな企業が注目して共同研究を行なっている。マツダも、運転に関する独自の調査項目を岩木健診に追加してもらい、データを集める。
「運転が好きな人は幸福度が高い」研究結果
従来の感性工学よりも踏み込んだマツダのひと中心の研究の成果は、論文で発表したり、シミュレーションに活用できるモデルに落とし込んだりしている。内容を見ると、肌感覚として腑に落ちるものが多いが、統計的に意味のある差を見つけたり分類したりして証明していくことは、客観性を持って「乗る人が前向きに、元気になるクルマ」を開発していくための足掛かりになる。
例えば、マツダの研究では、運転が好きだと感じている人は、そうでない人よりも幸福度が下がりにくい可能性が明らかになっている。また、通勤や買い物、送迎など必要に迫られた運転だけでなく、ドライブやレジャーなど楽しみのために運転する人は、幸福度を高く感じる傾向があるという。楽しく運転することが心身の健康につながるというのは、肌感覚や経験則だけでなく裏付けをもって言えることなのだ。

また、マツダによる別の研究では、健康度が高く認知機能を維持している人は、「運転が好き」であることと関係が強いことがわかっている。運転が好きだと思えることも、健康に貢献する可能性がある。
MTが運転できる人、ワインディングでも不安を感じない人、FR車を持っている人に「運転が好きだ」「運転が楽しい」と思ってもらうのは難しくないが、それだけでは従来の感性工学の域にとどまってしまう。より多くの人に運転を好きだと思ってもらうには、一人一人の運転能力を理解し、苦手な場面を支援することも重要だ。
マツダは、2023年に約1100人が参加した岩木健診を利用して、運転に関わる能力や認知機能をゲーム形式で調査するとともに、運転で苦手な場面やその理由をアンケートで尋ねた。これらの結果を基にビッグデータ解析でタイプ別に分類した。その結果、物事を実行する能力の高低×空間把握能力の高低で4タイプに分類され、それぞれに苦手な場面と必要な支援が異なると整理された。すべての人に一律の運転支援機能を提供するのではなく、「速度差の知覚が不安」「素早い判断が苦手」など一人ひとりの特性に合わせたアシストができれば、運転が好きだと感じてもらいやすくなると考えられる。
ポジティブな出来事で幸せを感じる感情が高まると、ポジティブな出来事に対して幸せを感じやすくなり、前向きになる……という脳の仕組みが、MRIを使った研究で明らかになっている。このポジティブな出来事に「マツダ車のある生活」を当てはめられれば、クルマで幸せや健康に寄与できる構図がつくれる、とマツダは目論んでいる。「高齢者はMTを運転する方がいいのでは?」と思ったことがある人も多いだろう。そういったことも含めて、マツダのひと中心の研究ではさまざまなテーマを取り扱っていく。
人の感じ方をシミュレーションに落とし込むため、人の知覚のモデル化も進めている。例えば、前庭感覚≒バランス感覚をモデル化できれば、操縦安定性や乗り心地、車両制御の開発に活かすことができる。聴覚モデルがあれば、静粛性やサウンドのシミュレーションに有効だ。また、人の体温調節をモデル化することで、空調の設定温度ではなく、体温調節機能に基づく快適さを指標に空調を制御することも可能になる。燃費や電費と快適性を両立する技術として開発中だ。


