アンフィカー・タイプ770を手掛けた
異色の設計家ハンス・トリッペルの生涯

2026年1月に開催されたチューニングカーとカスタムカーの祭典である『東京オートサロン2026』の会場の片隅に、場違いとも思える1台の珍車が展示されていた。そのクルマとは旧・西ドイツ製の水陸両用車アンフィカー・タイプ770だ。

2026年1月9日(金)~1月11日(日)にかけて幕張メッセで開催された『東京オートサロン2026』に出展されていた旧・西ドイツ製の水陸両用車アンフィカー・タイプ770。来場客の多くは正体不明の外車に関心は低いようだったが、筆者のような一部のヘンタイは超レアな車種を前に狂喜していた。

前回詳しく紹介したアンフィカーは、1961~1965年にかけて生産(在庫車販売は1968年まで)された世界で初めて民生向けに量産された水陸両用車だ。

わずか5台!? 日本でも販売された幻の水陸両用車「アンフィカー」を発見!【東京オートサロン2026】 | Motor-Fan[モーターファン] 自動車関連記事を中心に配信するメディアプラットフォーム

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【幻の水陸両用車アンフィカー・前編】

このクルマは実業家にしてBMWの大株主だったヘルベルト・クヴァントの意向を受け、アメリカ市場攻略を狙って同社傘下のIWK(Industoriewerke Karlsruhe:現クーカ)が開発・製造を担当した。だが、クヴァントの目論見通りには行かず、ビジネス的には上手くいかなかったことはすでに解説した。ここからはアンフィカーの設計を手掛けたハンス・トリッペルの生涯を見ていくことにしよう。

混乱期にあった1930年代のドイツで
専門教育を受けることなく独学でエンジニアを目指したトリッペル

ハンス・トリッペルの名前を聞いてピンときた人は、おそらくは相当なミリタリーマニアだろう。というのも水陸両用車の開発に一生を捧げた彼が設計した多くのクルマは軍用車だったからである。

1908年にドイツ南部ヘッセン州グロース=ウムシュタットの街で食料雑貨店を営む両親のもとに生まれたトリッペルは、幼い頃から自動車に並々ならぬ興味を抱き、少年期に自動車設計者を志したものの、技術者としての専門教育を受ける機会に恵まれないまま社会人となり、タバコのセールスマンなどで糊口をしのいでいた。だが、夢を諦めきれなかった彼は独学で自動車工学を勉強した。仕事から戻ると深夜まで専門書を読み漁り、休日になると貯金をはたいて購入した機材や廃車で実験を繰り返した。

ハンス・トリッペル
ハンス・トリッペル
(1908年7月19日生~2001年7月30日没)
1908年にドイツ南部ヘッセン州グロース=ウムシュタットの街で食料雑貨店を営む両親のもとに生まれる。幼少期に自動車技師になることを夢見るが、専門教育を受ける機会に恵まれないまま社会に出る。日々の生活の傍ら独学で自動車工学を学び、1930年初頭から自作のレーシングカーでレースに出走するほか、水陸両用車の開発に没頭する。ナチスに入党し、突撃隊員になったことで彼の運命は大きく変わる。ヒトラーから研究開発費援助を受けたことで「トリッペルSG.6アンフィビウム」の開発・製造に成功。軍に採用された。敗戦後、連合軍に人道に対する罪により戦犯として裁かれ、懲役5年と罰金刑を受けるが、シュトゥットガルト商工会議所の会長だったフリッツ・キーンの娘と結婚。カイロン・ヴェルケ社の工場を引き継ぎ、小型乗用車SK10を開発するが商業的には失敗となった。このことがきっかけでキーンとの関係が悪化し、キーンの娘とも離婚。その後も自動車開発を諦めきれなかったトリッペルは、なかなか芽が出なかったが、1961年にBMWの大株主だったヘルベルト・クヴァントとともにアンフィカーを開発。商業的には満足できる結果を残せなかったが、これが彼の最大の成功作となる。その後も西ドイツ軍向けの水陸両用車開発のコンサルタントを務めるなど、81歳まで現役のエンジニアとして活動を続けた。2001年7月30日にヘッセン州エアバッハで死去する。

1932年に彼は月15ライヒスマルク(現在の貨幣換算で1500~3000円ほど)でダルムシュタットの馬小屋を借り、父親から借りた500ライヒスマルク(同じく50~100万円ほど)で購入した中古のDKWのシャシーにオリジナルのアルミ製ボディを仮装したレーシングカーを自作してレースに参戦。これを皮切りに、1934年にはアドラー・トランプフ・ジュニアをベースにした流線型のレーシングカーを製作し、その後の数年間にこのマシンで6回の優勝を記録している。優勝賞金はそのまま活動資金へと費やされた。

水陸両用車開発に一生を捧げたドイツ人技術者のハンス・トリッペルが初めて開発したのがSG.6アンフィビウムだった。写真はドイツ陸軍からの受注を受けて20台製造した低率初期生産型。角ばったのちの量産型とは違い、ボディ全体が丸みを帯びているのが特徴となる。

また、彼の開発したマシンは空力性能にこだわった流線型をしており、手製のアルミボディは気密性が高く、ふとしたことから彼は「このボディを利用すれば水に浮かぶ自動車が作れるのでは?」とのアイデアを思いつく。そして、1934年には同じくアドラーをベースにオフロード走破性を高めた水陸両用車・ランドワッサーツェップを試作している。

この車両はリューデスハイム近郊のライン川で水上航行テストを実施した。初回の実験は車内への浸水はあったものの、辛うじて浮くことに成功したが、同年12月15日の実験では車両が水没してしまった。彼は凍えるような気温の中、冷たいラインの流れの中を必死に泳いだ。一歩間違えば命を落としても不思議はない惨事であったが、彼はこれに懲りることはなく、3日後、水深8mの深さから車両を引き上げ、突貫作業の修理ののち、3日後には不具合を直して再び実験を再開した。

ハンス・トリッペルが初めて試作した全地形対応の水陸両用車ランドワッサーツェップ。DKWのシャシーにオリジナルのアルミ製ボディを載せた車両で、ヒトラーとの謁見時に彼が総統官邸で披露したのはこの車両だ。写真は1936年頃に突撃隊員によってテスト風景を写したもので、その後の量産車両とは異なり、RRレイアウトを採用していたことがよくわかる。この車両はたびたび改修を受けているので完成時とは細部が異なっている可能性がある。

トリッペルはこのように自動車設計者になるべく日々努力を続けていたが、1930年代になると自動車工業は大資本がプレイヤーとなるビッグビジネスへと成長をしており、個人が独学でできることにはやはり限界があった。本来なら彼は大学に入学して学び直すなり、有力なスポンサーを見つけて研究・開発に没頭するなりすべきだったのかもしれないが、1930年代初頭のドイツは第一次世界大戦の敗戦に伴う「ヴェルサイユ条約」によって多額の賠償金が課せられたことに加え、1929年の世界恐慌と1931年の金融恐慌の影響でドイツ経済は壊滅的な危機に瀕しており、失業率は40%にも達し、庶民は毎日の食事にも事欠く有様だった。また、当時のドイツ経済はデフレに蝕まれており、学歴も実績もない情熱だけの若者に投資しようという者は誰もいなかったのである。ただひとり、ドイツ政界において急激に頭角を現したひとりの男を除いて……。

ヒトラー率いる極右政党のナチスは
社会の混乱に乗じてドイツ国民の支持を伸ばす

混乱の極みにあった当時のドイツの社会情勢にあって、反ユダヤ主義、反共産主義、アーリア人至上主義を掲げて台頭してきたのが、アドルフ・ヒトラー率いるナチス(NSDAP:国家社会主義ドイツ労働者党)だった。彼らは社会的混乱に乗じて権力奪取のために褐色のシャツを制服とした武装組織「突撃隊」(SA)を暴力装置として共産党や社会民主党と街頭闘争を繰り返した。当初、ドイツ国民に愚連隊同然に見られていた彼らだったが、「ミュンヘン一揆」失敗後の1930年9月に、ヒトラーが法廷で「合法誓約」を行なって、合法政党として活動を開始すると次第に人々のナチスに対する目は徐々に変わって行った。

アドルフ・ヒトラー
アドルフ・ヒトラー(1889年4月20日生~1945年4月20日没)
ドイツの政治家。ナチス(NSDAP:国家社会主義ドイツ労働者党)の指導者であり、1933~1945年にかけてドイツ国の首相および総統の地位にあった。 1933年に首相に指名されると、1年程度で指導者原理に基づく党と指導者による一極集中独裁指導体制を築いた。壊滅的な状況にあったドイツ経済をアウトバーン建設などの公共事業と軍備拡張による「財政出動」で急速に立て直し、600万人もの失業解消したことで国民の支持を集めた。領土的な野心から条約に基づく非武装地帯とされたラインラント進駐、チェコ・スロバキアのズデーテン地方の併合し、さらには1939年にポーランドへと侵攻したことで第二次世界大戦を引き起こした。1940年のフランス戦には電撃戦で勝利したものの、バトル・オブ・ブリテン(英本土の戦い)は失敗し、1941年のソ連侵攻は初戦は勝利したものの、1942年のスターリングラードとの戦い、1943年のクルスク会戦で敗北を喫したことで東部戦線は劣勢に回る。同じ頃、イタリア支援のために派兵した北アフリカを失い、イタリア本土への連合軍侵攻を許してしまう。そして、1944年の連合軍のノルマンディ上陸作戦によってフランスを失い、同年末の起死回生の「ラインの守り」作戦(バルジの戦い)で敗北。東西両方向から連合軍のドイツ本土侵攻を許し、追い詰められて1945年4月20日に首都ベルリンで自殺した。

第一次世界大戦の敗戦の記憶が覚めやらぬ当時、「背後の一突き説」(先の大戦でドイツは戦いでは負けておらず、ユダヤ人や共産主義者、自由民主主義者などの裏切り者によって戦争に破れたとの陰謀論)をヒトラーは主張し、ヴェルサイユ体制打破と再軍備を主張した。政治的混乱と経済的な困窮に喘いでいた当時のドイツ国民からすれば彼と彼が率いるナチスは文字通りの救世主に映ったのだろう。

当初は泡沫政党扱いされていたナチスだったが、ヒトラーの人の心を揺さぶる卓抜した演説の魔力もあって、彼らの主張に賛同する人間は次第に増えて行き、ナチスは急速に勢力を拡大した。その結果、1930年の国政選挙で107議席を得て第2党へと躍進したのを経て、国会解散に伴う1932年の国政選挙(戦前のドイツで最後の民主的な選挙となった)では230議席を獲得してついに第1党へと上り詰めた。

隊列を組んで市内を更新する突撃隊(SA:Sturmabteilung)。突撃隊とはナチスが政権奪取前から運用していた準軍事組織で、褐色シャツの制服から「褐色シャツ隊」とも呼ばれた。ドイツ共産党などの敵対組織への暴力や集会警備、ヒトラーの権力基盤強化に貢献した武力集団である。1933年にナチスが政権の座についてからは政敵の弾圧などの補助警察的な役割を担うが、失業対策として雑多な経歴・階層の人間を入隊させたことから思想的な統一が図れなかった。また、4代目幕僚長のエルンスト・レームは名家の出身で、ヒトラーとは「俺・お前」で呼び合う古くからの盟友関係にあり、彼自身そのことを自負していたことで、次第に増長が目立つようになる。国防軍などの保守勢力との連携を考えていたヒトラーにとって、このような事情から突撃隊は次第に疎ましい存在となって行った。その結果、ヒムラーやハイドリヒの進言もあり、1934年夏に「長いナイフの夜」と呼ばれる親衛隊によって突撃隊の粛清を実行させた。これによりレームら幹部は処刑され、以降は権限・部隊規模を大幅に縮小されることになる。

1933年1月30日、ナチスは保守派のドイツ国家人民党の協力を取り付けたことで、首班指名に必要な議会の過半数を確保し、ここにヒトラー内閣が発足。そして、これを契機としてナチスの党是であるドイツ国民を糾合し、民族共同体としてひとりの指導者(=ヒトラー)が率いる指導体制を目指し、社会構造や国民世論の統一を急激に進めて行なった。

そうした政策を実現するためにナチスが「公共の敵」として共産主義者とともにターゲットにしたのがユダヤ人であった。そして、同年2月末のドイツ国会議事堂放火事件を奇貨とし、同年3月23日の総選挙後初の議会でナチスは全権委任法を可決させる。この法律は国会審議・議決なしに広範な範囲の法令を制定する権利をヒトラー政権に認めるという、一種の憲法改正的法令であった。これによりナチスによる一党独裁体制が確立する。そして、この年以降、ドイツ共産党は非合法化されるとともに共産主義者は取り締まりの対象となり、ユダヤ人への迫害は一層激しさを増すことになった。

ナチスに入党し、突撃隊員となったトリッペルは
ヒトラーの支援を受けて自動車エンジニアにある夢を果たす

そのような世相にあって、トリッペルもまた当時のドイツの若者の多くと同じく、ヒトラーとナチスの熱烈な信奉者になった。1930年にナチスの党員となった彼は、ほぼ同時期に党の私兵であった突撃隊にも入隊する。その中で彼の自動車技術に対する造詣の深さと情熱は、突撃隊のみならず党幹部の知るところとなり、1936年10月に首相と大統領を兼任した総統となったヒトラーに謁見する機会を得る。

このときに彼は、それまで製作したレーシングカーや試作車を総統官邸の中庭でヒトラーに披露した。自ら運転することはなかったものの、自動車に並々ならぬ関心を示していた独裁者はこれを見て狂喜し、「民族の誇り」「理想的アーリア人の若者」と大袈裟な表現でトリッペルを褒め称えたという。

国防軍の再軍備が本格化していたこともあって、トリッペルが持ち込んだ車両の中でもヒトラーがことさら関心を示したのが全地形対応のランドワッサーツェップで、彼に1万ライヒスマルク(現在の貨幣換算で1000~2000万円ほど)の研究開発費を下賜するとともに、水陸両用車のさらなる研究・開発を命じたのである。

突撃隊員によってテストされるSG.6アンフィビウムの低率初期生産型の3号車で、ノーズ部分に誇らしげに突撃隊の紋章が描かれている。他の車輌とは異なり、ヘッドランプは車体への埋め込み式ではなく、ライトポッドを採用している。また、ボンネット上には浪切板が備えられていることも特徴だ。このように低率初期生産型は細部の異なるバリエーションが存在した。

総統のお墨付きをもらったことでトリッペルはこの資金と銀行融資、さらに陸軍兵器局からの支援を受けて、ホンブルクにある古い食肉工場を購入して自動車工場に改装し、250人の従業員を雇って、水陸両用車の研究・開発・製造を本格的に行うようになる。

短期間で完成した量産型水陸両用車のSG.6アンフィビウム
ドイツ陸軍から20台の受注を受け好調な滑り出し

開発作業はヒトラーに披露した試作車をベースに急ピッチで行われ、1936年には早くも量産車のSG.6アンフィビウムを完成させている。この車両は試作車の基本デザインはそのままに、従来までの市販車のシャシーに船型の車体を載せたボディ・オン・フレーム構造から走行用メカニズムを組み込んだモノコック・フレーム構造に改められた。そして、陸軍から初期生産分として20台の受注を受け、1938~1940年代にかけて納品した。

1938年から生産が始まった量産型のSG.6アンフィビウム。ボディは軍用車両としての使い勝手を考慮して再設計され、車体後部は角ばったデザインとなった。1941年からSK-8コロニアル・パイオニアをベースにした後期型のSG.6/41が登場したことにより、この車両はSG.6/38と呼ばれるようになる。

トリッペルは軍用車だけでなく、富裕層やKdf(歓喜力公団:ドイツ国民に国民に多様な余暇活動を提供した組織)へのレジャー用として民間車両の開発を企図しており、陸軍向けの車両とは別に自社登録されたSG.6アンフィビウムの6号車は民生仕様として仕立てられた。

1938年5月にドイツと同盟関係にあったイタリア軍に売り込みを図った際には、この車両を用いてホンブルクの本社からイタリアのナポリまでを地上走行し、さらにカプリ島までの28kmを水上航行を行うデモンストレーションを実施した。このツアーは大きな問題もなく無事成功したが、イタリアへの売り込みは不首尾のまま終わった。

また、水陸両用車に可能性を感じた陸軍では、SG.6アンフィビウムの設計をそっくりそのまま拡大した16人乗りの貨客両用車の開発にも着手。完成した車両はSG.6パイオニアとしてごく少数が製造されたが、乗員分の座席はなく、水路や幅の狭い河川の渡河などの限定的な環境においてのみ運用が可能という性能しか持ち合わせていなかったことから、ごく少数の生産に留まっている。

軍用車として開発されたSG.6アンフィビウムとは別に、低率量産車の6号車は富裕層やKdf(歓喜力公団:ドイツ国民に国民に多様な余暇活動を提供した組織)へのレジャー用として民生仕様に仕立てられた。この車両は1939年2月に開幕したベルリンモーターショーにSK-8コロニアル・パイオニアの名称で出展された。スポーツカーとプレジャーボートを融合した同車は市販化を前手に開発され、モーターショーで注目を集めたが、第二次世界大戦の勃発により販売計画は白紙となった。

イタリアツアーで手応えを感じたトリッペルは、自己資金にてSG.6アンフィビウムの民生仕様の開発を継続した。高性能スポーツカーと豪華なプレジャーボートの融合をコンセプトにした同車は、華やかな流線型のボディに高級車の快適性と豪華な装備が奢られたコンバーチブルとして完成。心臓部には58psを発揮するアドラー製水冷2.5L直列6気筒サイドバルブエンジンが搭載されていた。これにより走行性能は大幅に向上した。

このクルマはSK-8コロニアル・パイオニアの名称で1939年2月に開幕したベルリンモーターショーに出品され、会場で大いに注目されたものの、同年9月に第二次世界大戦が勃発したことで生産は見送られている(続く)。