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DB7 Zagato / DB AR1(1999-2003)
V8ヴァンテージ・ザガート以来のコラボ
「より多くの人々にアストンマーティンを」というゴーントレットの意思を受け継ぎ、1994年に誕生した「DB7」は好評をもって受け入れられ、1999年に新設計のV12エンジンを搭載した「DB7ヴァンテージ」に進化することで、新生アストンマーティンの基礎を築き上げることに成功した。しかしながら、一方でそのモデルライフが末期に近づくにつれ新鮮味、話題性に翳りが見えているのもまた事実であった。
そんな折、2000年にアストンマーティンのCEO兼会長に就任したDr.ウルリッヒ・ベッツは、2001年に行われたペブルビーチ・コンクール・デレガンスの会場で会った、ザガートのアンドレア・ザガートに対し、V8ヴァンテージ・ザガート以来となる両社のコラボレーションを打診。それを受けザガートではチーフデザイナーの原田則彦が、DB7ヴァンテージ・ヴォランテのホイールベースを詰めたシャシーをベースにデザイン。ザガート伝統のダブルバブル・ルーフと繋がる凝ったダブルバブルのリヤガラスを持つDB7より短く、ワイドでグラマラスなボディをデザインした。一方、インテリアに関してはザガート・エンボス加工が施されたアニリン・レザーシート、そしてリヤにラゲッジシェルフを備え、完全2シーターとした以外は、基本的にDB7を踏襲している。
アストンマーティンでは、ザガートのデザインをベースにヘンリック・フィスカーが生産用にリファインし、“ジョージア”と呼ばれるプロトタイプを製作。メカニズム面ではDB7ヴァンテージ譲りのV12エンジンが441PSへとパワーアップされたほか、6速MTの採用、ファイナルギヤの変更のほか、アルミ製ウイッシュボーンや専用ショックアブソーバーの採用など、各部に改良が加えられた。
こうして「DB7ザガート」は2002年6月にロンドン・サヴィルロウにあるギーブス&ホークスで正式発表。その後ペブルビーチやパリ・ショーでも公開され、販売に移された。
販売された車両は99台
DB7ザガートの生産は、まずイギリスで作られたローリングシャシーがイタリアへと送られ、ミラノのザガートのファクトリーにおいてイタリアOPAC社でプレスされたアルミパネルを架装。塗装が施されたのちに再びブロッサムの工場に戻され、機関、内装などのアッセンブリーが行われるという工程で、1台あたり250時間をかけ製造された。ボディカラーはアクア・ヴェルデ、ザガート・ネロ、マーキュリー・グレーの3色が標準で用意されたが、多くがビスポークでオーダーされたという。
当初は200台の限定生産と発表されたDB7ザガートだが、実際に販売された車両は99台(そのほかに1台がアストンマーティンで保管されている)。しかしながら専用のショートホイールベースシャシーのホモロゲーションが取得できず、北米市場での販売は見送られた。その対策としてアストンマーティンでは、スタンダートの「DB7ヴァンテージ・ヴォランテ」をベースとした「DB AR1(DB American Roadster 1)」と呼ばれるDB7ザガートのオープントップバージョンを企画する。
簡易的なインテリアのレインカバーを装備
エンジンはDB7ヴァンテージ・ヴォランテと同じ426PSの5.9リッターV12ユニットで、5速タッチトロニックATを搭載。そのほかのメカニカルパートもベース車を踏襲していた。一方のボディは、ザガートの手によってオープン用にリデザインされたものであったが、幌やハードトップの設定はなく、簡易的なインテリアのレインカバーがあるのみであった。
DB AR1は2003年のロサンゼルス・ショーで発表。当初は、他のDB7シリーズと同様にブロッサムの工場で生産される予定だったが、ブロッサム工場が予定より早く閉鎖されたために、新たに設立されたゲイドン工場でDB9とともに2003年から生産がスタート。99台が販売されたが、アメリカだけでなく、8台がヨーロッパで、1台(唯一の右ハンドル仕様)がイギリスで販売されている。