目次
コーリンの片腕としてロータスの発展に尽力
20世紀後半、モータースポーツと自動車産業に対するヘイゼル・チャップマンの貢献は非常に大きかった。彼女自身も成功したレーシングドライバーであり、才覚に富んだビジネスウーマンでもあった。
1948年、最初のロータスモデルが開発されて以来、ヘイゼル自身がロータスの中枢で活躍してきた。ロータスの黎明期において彼女が果たした役割は大きく、女性が夫の後ろに隠れがちな時代にあって、非常に稀有な存在だったと言えるだろう。
ロータス・カーズのマネージングディレクター、マット・ウィンデルは、ヘイゼルへ哀悼の意を表した。
「ロータスに関わる世界中のすべての人にとって、とても悲しい日になりました。ヘイゼル・チャップマンがいなければ、ロータスは存在しなかったのです。ヘセルのチーム全体、そして世界中の施設で働くロータスのスタッフは、チャップマンのご家族に心からの哀悼を送り、ご冥福をお祈りします」
16歳で出会ったヘイゼルとコーリン
1927年5月21日にノースロンドンで生まれたヘイゼル・チャップマンは、コーリン・チャップマンが16歳の時、ダンスパーティで出会った。ふたりの関係が深まると、ヘイゼルの両親はホーンジーにある自宅裏ガレージで、ロータスの初代モデルである「マーク1」を製作することをコーリンに許したという。
その後、コーリンが英国空軍に入隊したため、ヘイゼルがロータス マーク1、そしてマーク2の開発を引き継いだ。ヘイゼルとコーリンは出場したレースで成功を収めたことで、彼らの元に新たな仕事の依頼が舞い込むことになる。ヘイゼルのビジネスに関する嗅覚は抜群で、1952年1月1日にロータス社を設立。この年の暮れには、ヘイゼル自身が支払った25ポンドを資本金に、有限会社を立ち上げている。
ヘイゼルとコーリンは1954年に結婚。ビジネスの成長とともに、ヘイゼルはロータス・カーズ、チーム・ロータス、ロータス・コンポーネントなど、多くの会社の役員にも就任した。
生前は発表前に最新モデルと対面
彼女は敏腕なビジネスウーマンであるだけでなく、ロータスの組織内で母親としての役割も担っていた。それは、「強い男の陰には、強い女がいる」という言葉を体現しているようなものだったという。
ジム・クラーク、グラハム・ヒル、ヨッヘン・リント、エマーソン・フィッティパルディ、マリオ・アンドレッティ、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナなど、モータースポーツの世界を代表するF1ドライバーのほとんどと親交があった。また、女性モータースポーツクラブ「ドッグハウス(Dog House)」も彼女によって創設されている。
1982年、コーリンが亡くなり、未亡人となったヘイゼルは、ロータス・カーズの将来を確実なものにするためにも、新しい経営陣が必要だと考えた。そして、ファミリービジネスから脱却するために経営から退いている。その後、チャップマン家が運営する「クラシック・チーム・ロータス(Classic Team Lotus)」のディレクターに就任した。
第一線を退いた後も、ヘイゼルは2018年に10万台目のロータス製ロードカーに「サイン」するなど、様々な場面で活躍を続けた。伝統的に、ヘイゼルは常にロータスの最新ロードカーを一般公開前に見学することになっていた。その素晴らしい習慣は現代も続き、彼女は2019年7月のデビューの2週間前に、息子のクライブ・チャップマンと共に「エヴァイヤ」とも対面している。