目次
PEUGEOT
世界初の量産自動車
プジョーは1810年創業の様々な金属加工製品を作る会社で、今でも胡椒挽きやコーヒーミルのブランドとしても有名である(今では自動車と別会社だが、同じライオンのマークを冠している)。その金属加工技術を生かして1882年に自転車の製造に始めたのが3代目のアルマン・プジョーである。アルマンは1889年に自転車の技術を生かして蒸気自動車の製作に取り組むが、失敗に終わる。
同じ1889年、エミール・ルヴァッソールがダイムラーからガソリンエンジンの製造権を獲得した。ルヴァッソールの会社(パナール・ルヴァッソール。自動車づくりで名声を得るが後にシトロエンに吸収される)ではエンジンの製作で手一杯だったため、金属加工と自転車づくりのノウハウのあるプジョーにエンジンを供給して車体の製造をさせたのである。
このような成り行きから、プジョーは世界初の自動車を量産する会社となった。1891年に11台を製造したのを皮切りに順調に台数を伸ばし、1899年に300台に達した。1896年にはダイムラーのエンジンを使うのをやめ、独自開発したエンジンを使うようになった。
最初のヒットはブガッティの設計
自動車の生産が本格化してきた1897年、アルマンは自動車部門を独立させ別会社とする。自動車会社としてのプジョーの誕生である。20世紀に入るとプジョーは単気筒から4気筒までのあらゆるサイズのエンジンと大小様々な車種を作るようになった。生産台数は1905年には1261台という当時としてはかなりの規模に達した。
1913年、プジョーの最初の大ヒット作、超小型車の「べべ」が誕生する。このべべを設計したのはなんと自らの会社を興す前のエットーレ・ブガッティだった。その後のプジョーは安価な小型大衆車を中心とした車作りを行っていく。
1929年、現在のプジョーにつながる新型車が登場する。201である。このモデル以降、プジョーのモデルは二桁目に0を挟んだ3桁の数字によるモデルネームを持つようになった。
戦後になってもプジョーの車作りは基本的に変わらず、オーソドックスな設計による安価だが地味な車を作り続けていた。このイメージを一新することになるのが1983年に登場した、フェラーリのデザインでも高名なフィオラバンティがデザインした205である。
205によってスポーティイメージを確立
205はそれまでのプジョーのイメージを一新するスタイリッシュなモデルで、高性能版のGTIは数あるホットハッチの中でも快活さでは抜きんでた存在だった。205はWRCのグループB時代を象徴する1台(205ターボ16)としても大活躍し、205自体に留まらずプジョー自体のスポーティイメージを一気に高めたのである。
日本では1980年代初頭までプジョーは極めて少数しか輸入されていないマイナーな存在であり、欧州志向の自動車マニアにしか知られていなかったが、この205で一気に販売が増加、認知も広まった。全国のスズキディーラーで販売された影響も大きかっただろう。
しかも販売の主体はGTIであったため、日本でのプジョーは非常にスポーティなイメージの高いブランドとなった。現在も日本におけるプジョーのイメージはこの1980~90年代に形成されたイメージがベースになっていると思われる。