歴史から紐解くブランドの本質【アルピーヌ編】

アルピーヌの車名「A110」はどこから来ているのか?【歴史に見るブランドの本質 Vol.9】

フランス北部のノルマンディーにあった往時のディエップ工場。
フランス北部のノルマンディーにあった往時のディエップ工場。
自動車メーカーは単に商品を売るだけではなく、その歴史やブランドをクルマに載せて売っている。しかし、イメージを確固たるものにする道のりは決して容易ではない。本連載では各メーカーの歴史から、そのブランドを考察する。

アルプスでの活躍が名前の由来に

モータースポーツに対する情熱に溢れたジャン・レデレ。2007年に亡くなるも、現行型A110にその名を冠する限定車が登場するなど、その影響力は健在だ。

アルピーヌのストーリーは、フランス北部ノルマンディーのディエップという人口3万人足らずの小さな港町でルノーのディーラーを営んでいた、ジャン・レデレという一人の男から始まる。

レデレはルノー4CVでラリーを始め、いきなり好成績をあげた。レデレは4CVに満足せず、それをベースに樹脂製クーペボディの超軽量スポーツカーを作り上げた。1954年、この車で「クリテリウム・デ・ザルプ」(アルペン・ラリー)でクラス優勝を遂げる。ここで勝利したことがアルプスを意味する「アルピーヌ」の名につながっていく。

チャンピオンになるも買収の憂き目に

1956年、市販モデル第1号のA106が登場する。なぜ1号車なのにA106なのかというと、ベースのルノー4CVのモデルコードがR1060だったからである。1963年に登場したA110もルノー8のモデルコードがR1110であることに由来する。

A106はバックボーンフレームに縦置きリアエンジン、プラスチック製ボディという構成であったが、このフォーマットは基本的にその後アルピーヌA610に至るまで一貫して採用され、アルピーヌの技術的な特徴となっている。

アルピーヌというとラリーを連想するクルマ好きが多いが、アルピーヌは当初スポーツカーレースに力を入れていた。1964、1966、1967年にル・マン24時間でクラス優勝を納め、アルピーヌの名声は一気に高まった。その後、活動の場をラリーに転換し、1971年にモンテカルロラリーでA110が初優勝する。1973年は主要ラリーを統合し、初の世界選手権(WRC)となった年だが、A110は初代チャンピオンに輝いた。しかしながら、その1973年にアルピーヌはルノーに買収されることとなり、アルピーヌ・ルノーとなった。

22年の空白の後に

この時代、2シータースポーツカーの需要は減少しており、2+2のポルシェ911だけがある程度まとまった数を売っていた(ポルシェ自身も1975年に2シーターの914を2+2の924に移行させている)。そのため1971年に登場した新型のA310は2+2レイアウトを採用し、スタイリングもそれまでのアルピーヌとは全く異なるテイストのものとなった。

エンジンは基本的にA110と同じものだったため、大きく重くなった車体により性能は低下してしまった、ルノーも資金に余裕はなく、1977年にA110を廃止しA310のみとし、エンジンも2.7リッターV6に一本化した。その後も911に対抗すべく大型化・高性能化路線を取ることとなった。

モータースポーツでもポルシェに対抗しル・マン24時間レースに復活、1978年に総合優勝を遂げるものの、市販車の販売は少数に留まり、結局1995年にA610を最後にアルピーヌはいったん消滅したのである。しかしディエップの工場は残り、ルノースポール各モデルの生産が行われた。

そして22年間の空白期間ののち2017年、アルピーヌは復活を遂げ、新生A110が発売された。ミッドエンジン、アルミモノコックという構成は従前のアルピーヌとは異なるが、アルピーヌ本来の強みである軽量で俊敏なクルマ作りに回帰し、サーキットよりもワインディングロードに焦点を当て、「アルピーヌ」という名にふさわしいモデルとなっている。

2022年モンテカルロ・イストリーク・ラリーで撮影されたラリー仕様「ルノー5ターボ」。

世界からかけ離れた日本のルノーブランド【歴史に見るブランドの本質 Vol.8】

自動車メーカーは単に商品を売るだけではなく、その歴史やブランドをクルマに載せて売っている。しかし、イメージを確固たるものにする道のりは決して容易ではない。本連載では各メーカーの歴史から、そのブランドを考察する。

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著者プロフィール

山崎 明 近影

山崎 明

1960年、東京・新橋生まれ。1984年慶應義塾大学経済学部卒業、同年電通入社。1989年スイスIMD MBA修了。…