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三つ叉の鉾の由来
マセラティというと、どの車種を思い浮かべるだろうか。スーパーカー世代であればボーラやメラクといったスポーツカーを思い浮かべるだろう。バブル期にクルマに親しんだ人であればビトゥルボ系のモデルを思い浮かべるかもしれない。
比較的最近になってマセラティに親しんだ人であればフェラーリエンジンを搭載したクワトロポルテやクーペ/スパイダーだろうか。このように時代によって大きくキャラクターが異なるモデルを生みだしてきた背景には、マセラティの複雑な歴史がある。
マセラティはアルフィエーリ、エットーレ、エルネストのマセラティ3兄弟によって1914年にボローニャで設立した小さな自動車工房から始まる。そこで製作したレーシングカーが好成績を収め、ディアット社からレーシングカーの製作を依頼される。ディアット社は経営難に陥ってしまうが、そのプロジェクトをマセラティが継承することとなった。そして1926年にマセラティの名を冠したレーシングカー、ティーポ26(1926年が由来)が登場することとなる。このマシンに付けられたマークが、ボローニャにあるネプチューン像が持つ三叉の銛をモチーフにしたものだった。
戦前はレーシングコンストラクター
ティーポ26は好成績を収め、プライベートドライバーからの需要もありそれなりの台数が製作され、バリエーションも増えていった。その後もマセラティは自らレースに参加するだけでなくレーシングカーを販売することによって成長し、1930年に登場した8C-2500はグランプリレースでアルファロメオやブガッティを凌ぐ性能を持つレベルにまでなった。
このように戦前のマセラティはレーシングカーコンストラクターであり、ロードカーは生産していなかったのである。しかしマセラティが変化するきっかけとなったのが1938年に資本家のアドルフ・オルシの出資である。経営の主体はオルシの手に渡り、拠点もモデナに移る。
第2次世界大戦後、マセラティ兄弟はマセラティを離れた。オルシはGTカーの販売にも乗りだし、ピニンファリーナ・デザインのA6-1500が登場する。レース活動も続けられ、250Fをはじめとした名レーシングカーが数々誕生する。しかしマセラティのレース活動は1965年で終わり、その後は3500GT、ミストラル、ギブリといった高級高性能GTカーを作るメーカーとなった。しかしその生産台数は限定的で経営は苦しく、1968年にシトロエンの資本を受け入れる。このシトロエンの時代に生まれたのがミッドシップスポーツカーのボーラとメラクである。
シトロエンからデ・トマソ、そしてフィアットへ
しかしシトロエン自体の経営が悪化し、1976年にマセラティを引き継いだのがデ・トマソである。デ・トマソはそれまでのマセラティとは異なる市場を狙う戦略に出て、1981年にマセラティとしてはコンパクトで廉価なビトゥルボを発売する。この戦略は成功し、生産台数は一気に拡大、その後のマセラティのほとんどはビトゥルボをベースとしたモデルとなった。
しかしながら、その信頼性の低さから、次第に販売は低調となり、1993年にフィアット傘下となる。フィアット傘下となったことで同じフィアット傘下(当時)だったフェラーリエンジン搭載モデルなどが誕生することとなったわけだ。