【マクラーレン クロニクル】マクラーレン初のロードカーを目指した非運の「M6GT」

マクラーレン初のロードカーを目指して開発された「M6GT」の数奇な運命【マクラーレン クロニクル】

アメリカのCan-Amシリーズに参戦するカスタマーに販売していたレーシングカー「M6B」をベースとしたロードバージョンが「M6GT」だ。
アメリカのCan-Amシリーズに参戦するカスタマーに販売していたレーシングカー「M6B」をベースとしたロードバージョンが「M6GT」だ。
レーシングカーテスト中のクラッシュによって、わずか32歳の若さで、この世を去ったブルース・マクラーレン。レーシングドライバーであり、チームオーナーでもあったマクラーレンの果たせなかった夢こそ、ロードカーの製造である。その初期モデルのプロトタイプ「M6GT」のストーリーを紹介する。

McLaren M6GT

ニュージランドから現れた類まれな才能

最初は年間生産台数で25台を必要とするグループ4への公認も考えていたという「M6GT」。

1952年に、わずか14歳でモータースポーツの世界へと飛び込み、その後さまざまな国内チャンピオンシップを獲得するなど、その才能を広く知らしめたニュージーランド人のブルース・マクラーレン。

1958年にはその戦いの場をヨーロッパに求め、ニュルブルクリンクで行われたドイツGPに参戦。以後1959年から1965年まで、ブルース・マクラーレンはクーパー製のF1マシンを駆り、F1GPへの参戦を続けていった。初優勝は1959年のアメリカGP。翌1960年にはシリーズ2位という成績を収め、誰もが彼の才能には熱い視線を注ぐようになった。

唯一果たせなかった夢

そして1963年、ブルース・マクラーレンは自らの名を掲げたレーシング・チーム、「ブルース・マクラーレン・モーターレーシング」を設立。つまり2023年は、彼らにとっては創業60周年というアニバーサリー・イヤーにあたるのだが、そこにブルース・マクラーレンの姿はなかった。彼は1970年にイギリスのグッドウッド・サーキットで、1970年用のCan-Amマシン、「M8D」のテスト中にクラッシュ。32歳の若さでこの世を去っているからだ。

ブルース・マクラーレンは、レーシング・ドライバーとして、そしてレーシング・チームのオーナーとして、ほぼ順風満帆な人生を歩んだと論じても、それはあながち間違いではないだろう。だが彼には唯一果たすことのできなかった夢があった。それはマクラーレンの名を掲げたロードカーの生産を行うこと。

当時マクラーレン・モーターレーシングが、F1とともに積極的に活動していたアメリカのCan-Amシリーズに参戦するため、カスタマーに販売していた「M6B」をベースに、そのロードバージョンを製作しようというのが、彼が描いた夢のアウトラインである。

製作されたのはプロトタイプ4台のみ

マクラーレンの名を掲げたロードカーを夢見たブルース。その夢が叶うのは1993年の「F1」である。

最初は年間生産台数で25台を必要とするグループ4への公認も考えていたマクラーレンだが、実際にFIAからの公認は得ることはできず、「M6GT」とネーミングされたそのモデルは4台のプロトタイプが製作されたのみで、開発計画そのものは中止された。

その4台は現在でも健在とされ、ボディカラーは1台がレッドであるほかはオレンジであるとされる。実際の製作は同じイギリスのトロージャンによるもの。

ブルースがこの世を去ったのはその後のことになるが、マクラーレンの名を掲げたロードカーを、という強い意志は、その後継者たちによって長い年月を経て受け継がれることになる。1993年に誕生する3シーターのスーパースポーツ、その名も「F1」がそれだ。

1960年代、創設者ブルース・マクラーレン発表したM6GTなど貴重なモデルが多数展示された。

非公開: マクラーレン発足60周年記念「FOREVERFORWARD」が開催「貴重なレーシングカーやロードゴーイングカーを展示」

7月6日、東京・六本木で開催されたマクラーレン発足60周年記念プレスプレビュー「FOREVERFORWARD」。今も色褪せぬ様々なロードゴーイングカーや、貴重なレーシングカーが展示され、その魅力を存分に披露した。車両は7月8〜9日に東京・六本木ヒルズで一般公開される。

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著者プロフィール

山崎元裕 近影

山崎元裕

中学生の時にスーパーカーブームの洗礼を受け、青山学院大学在学中から独自の取材活動を開始。その後、フ…