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すでに最盛期を過ぎた1980年代初頭の「MOONEYES」
1981年に南カリフォルニア大学(S.C.C)を卒業し、日本に帰国したシゲ菅沼氏はウォルト・ディズニー・プロダクション・ジャパンに就職。同社は業務提携を結んだオリエンタルランドとともに東京ディズニーランドの起ち上げに携わることになる。そして、1983年3月に夫人と結婚。10月の新婚旅行に選んだのは心の故郷である南カリフォルニアであった。
当時、シゲ菅沼氏は真っ赤な1980年型トヨタ・ハイラックスを愛用していた。ハイラックスと言えば、当時は背の高い4WDが人気を集めていたのだが、彼は南カリフォルニアで2WDモデルをローダウンしたカスタムを見ていたので、日本でシゲ菅沼氏は愛車の足元を引き締めるべく、新婚旅行を利用して現地で義兄に頼まれた『MOON DISCS(ムーンディスク)』を彼の分と自分の分を購入。帰国後に早速ハイラックスに装着してみるとイメージ通り、マシンがCOOLなルックスに仕上がった。
はじめてサンタフェスプリングのMOONEYSに訪れたときのことを菅沼氏に尋ねてみると、現在では考えられない当時のショップの様子を聞かせてくれた。
「前回もお話しした通り、MOONの最盛期はとうに過ぎており、当時のレースやカスタムシーンからは完全に遠ざかっていました。当時の北米のカーガイの間では半ば忘れられたブランドで、すっかり過去の存在となっていました。しかし特定ジャンルではしっかりとその位置を守っていたのです」
「そもそも当時のMOONには New Carに売るものがないんですね。店に並んでいるパーツと言えば1920~70年代のマシンに適合するものばかりで、STREET RODを作るのには良いかもしれませんが、ボクがS.C.C在学中に愛用していたシボレー・エルカミーノのような1960年代以降のマッスルカーなどに装着できるパーツがラインアップされていなかったのです。レース用のパーツに関してもそうで、年々厳しくなる安全基準には適合せず使うことができません。当然、商品に需要がないので店も流行ってはいませんでした。ただしSalt Lake、El Mirageで走るLand Speed Raceに絶対的な立場を持っていました」
「ちょうど田舎にある雑貨屋などをイメージするとわかりやすいと思うのですが、店に訪れるのはDean Moonと同世代の常連客。彼も今風に商品ラインアップを充実させようという考えはなく、ある物を販売するそれでもDemandはあるのでそれなりの商売はあったのでしょう。なお、1983年10月にボクが訪れた時、Deanはボクをショップ、マシンショップ、オフィスなどのすみずみまで案内してくれました。そのホスピタリティーの良さは今でも忘れません」
『MOON DISCS』購入をきっかけに結ばれたDean Moon氏との縁
しかし、シゲ菅沼氏がMOON DISCSを購入したことで状況は大きく変わる。同パーツを装着して愛車を意気揚々と流していると、クルマにさして興味のない人たちは「一円玉みたい」「ヘンな円盤」と笑ったが、クルマ好きの仲間は全く異なる反応を示したのだ。「どこで売っているんだ?」「オレも欲しい!」そう言ってシゲ菅沼氏に詰め寄ってきたのだ。そこでシゲ菅沼氏は彼らの声に応えるべく、しかたがなく輸入代行を引き受け、12台分をサンタフェスプリングのMOONに注文したのだ。
「だから12台分を輸入して終わりだと考えていたんです。ところが、輸入分がはけたと思ったら、それを見て友達の友達が欲しいと言い、追加で注文しそれもはけたのでこれでもう終わったと思っていたある日、1本の国際電話がボクのもとに掛かってきたんです。電話の相手はDean Moonでした。これには驚きました。それで用件を聞いてみると『安くするからMOON DISCを24台分買わないか』というのです」
「それからが大変でしたよ。商売などするつもりはないから知識も経験もない中で、24台分ものMOON DISCSを売らなくちゃいけない。DMを作って方々に送り、買い手を探してなんとか売り切りました。当時はクレジットカードの入会審査も厳しく、若者に簡単にカードを発行してくれる信販会社もありません。ボクもそんなもの持っていなかったから、クレジットカードを持っている友人に決済してもらい、商品が売れたら借金を返済する。そんな自転車操業を繰り返していました」
遠く海を隔て、Air Mailで結ばれたふたりの絆
日本と遠く離れたカリフォルニアに住むDean Moon氏とのコミュニケーションはどのように図っていたのだろうか?
「もっぱら、やりとりはAir Mailで行っていました。電話は急を要するときだけ。なにせ国際電話が1分300円もする時代ですからね。お互いにそうそう電話を掛けるわけにはいきません。彼の生涯を通じても直接会って話せたのは数えるほどしかありません」
「ただ、今から思えば手紙でのやり取りというのが良かったのでしょうね。直接会ったり、話したりできない分、手紙だとかえって気持ちが通じるというのかな。だから、Dean Moonとの関係は昔風にいうならペンパル、つまりはペンフレンドみたいなものです。彼は写真が好きだったこともあり、ときどき昔の写真を添えてくれることがあって、そういう心のこもったやりとりがすごく嬉しかったのです」
シゲ菅沼氏が感じたDean Moon氏の人柄についても尋ねてみた。
「う~ん、ひとことで言うなら頑固ジジイ(笑)。アメリカの友人や知人からは「よくあの人と付き合えるね?」と言われたこともあります。たしかにクセが強く、気難しいところがある人でした。誰にでも決してフレンドリーというわけではなかったようです。ただ、ボクのことは気に入ってくれたようです。アメリカの評判とは打って変わって、ボクにとっては気の合うオヤジで大好きでしたよ。お互いに通じるものがあったのでしょう。いつしかボクと彼との関係は、父と息子のそれみたいになって行きました」
入院中にベットの上で閃いて、会社を辞めてショップをオープン
取引を重ね、幾度となく手紙で心を通わせてきたシゲ菅沼氏とDean Moon氏。Dean Moon氏もまたシゲ菅沼氏に対して息子同様に思っていたのだろう。ある日、彼は「お前こそMOON OF JAPANだ!」と言った。日本での代理店を任せたいという気持ちもあったのでしょう。
菅沼氏にとってこの言葉は望外の喜びであったに違いない。だが、当時の彼はウォルト・ディズニー・プロダクション・ジャパンで働くサラリーマンだ。しかも、この時期は東京ディズニーランドが開園して間もない時期であった。
「ウォルト・ディズニー・プロダクション・ジャパンは大好きな会社で、仕事は楽しく、仲間もいい人たちばかりで、何とも居心地の良い職場でした。今ボクがやっている仕事の基本、ショップのクリーンネスであるとか、お客様との関係性であるとか、 仕事をする上で必要なエンターテイメント性であるとか、そういう基本的なことはサラリーマン時代に学んだことです。そんな好きな会社を辞めて今のビジネスを始めるには当然迷いはありました」
「それとボクはカービジネスってじつはあまり好きではないんですね。同じ品質、同じ製品を全国同一価格で販売する新車販売はともかく、中古車販売ってハッキリ言ってしまえばミズモノですよね。ビジネスをするに当たって、どうしても客と店の間には腹の探り合いという要素が付きまといます。ボクはそれがにがてで基本的に中古車をメインで扱う仕事はしたくなかったんです」
「1985年12月にある事で入院を余儀なくされそのベットの上である時突然『MOONを日本でやる』とひらめいたのです。もとを辿れば趣味の延長で始めたみたいなMOONEYES製品の輸入代行でしたが、サラリーマンの片手間仕事ではもはや続けられないとは感じていました。成功する確信などないまま会社を辞め、パーツ販売を軸にしたショップをオープンさせる決断をしました」
こうして菅沼氏は1986年5月にMOON EQUIPMENT COMPANY日本代理店として横浜元町に小さなショップをオープンする。
MOONEYES Area-1 所在地:神奈川県横浜市中区本牧宮原2-10 電話:045-623-5959 営業時間:10:00〜19:00 定休日:年中無休 https://mooneyes-area1.com