排ガス規制やオイルショックにも負けない! DEUCE[デュース]とV8エンジンが拓いたアメリカンカスタムカルチャーはHOTROD[ホットロッド]とともにあり!

これまでにHOTROD(ホットロッド)の発生の経緯、フォード・モデルAやモデルBなどのベース車の解説、1932年型モデルBが「DEUCE(デュース)」と呼ばれてアメリカのファンの崇拝の対象になっている理由など、HOTRODにまつわるあれこれを4回に渡って紹介してきた。今回はこのシリーズの最終回として、戦後から現在に至るまでのHOTROD史を解説していこう。これまでの記事と合わせて読んでいただければ、HOTRODをよく知らないという人でもその歴史のあらましを知り楽しんでもらえると思う。

第二次世界大戦後にHOTRODのベース車として
フォード・モデルBが再び脚光を集める

1932年に誕生したフォード ・モデルB (正確には直4搭載車をモデルB、V8搭載車はモデル18の名称が与えられているが、今日では一般的に両車をひとまとめにしてモデルBと呼称することが多い)が、その後のアメリカ車に与えたインパクトは大きかった。

1932年型フォード・モデルB 2ドアセダン

二世社長のエドセル・フォード好みの精錬されたスタイリング、低床化された新開発のシャシーに加え、大衆車として初めてパワフルなV型8気筒エンジンが搭載されたのだ。同車の心臓部として与えられたのは、その独特の形状から「フラットヘッド」の異名がつけられた3.6L V8サイドバルブエンジンだった。これは合理的かつ簡素化な設計により、エンジン単体のブロック製造コストは従来の直4よりも安価に収まったのである。

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アメリカ人のV8信仰を生み出す契機となったフォード・モデルBは1932年に誕生した。しかし、…

モデルBは商業的にはモデルTほどの成功は望めなかったが、そのパワフルかつスムーズに回るエンジンは、従来のクルマに飽きたらない多くのユーザーから熱い支持を受けた。その結果、このクルマの登場が契機となってアメリカのカーマニアの間でV8信仰を根付かせる結果となった。そして、大衆車用のV8エンジンはフォードのお家芸となり、以後16年間もデルBのエンジンやシャシーを適時改良を加えながら使用し続けたのだ。

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「フラットヘッド」の愛称で呼ばれるフォード製3.6L V8サイドバルブエンジン。

しかし、世界に先駆けて大量消費社会に突入したアメリカのことだ。本来ならば日々繰り返されるスクラップ&ビルドのなかで、次々に登場する新型車を前にして傑作車・モデルBも歴史のなかに埋没し、人々から忘れ去られる運命にあったはずだ。
だが、現実にはそうはならなかった。第二次世界大戦後、若者たちはアーリーフォードとフラットヘッドV8エンジンの魅力に改めて気がつき、自分たちなりの楽しみ方を見つける。それがモデルBないしその心臓を使用したHOTROD(ホットロッド)であった。

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平和な時代の訪れとともに若者たちは
再びHOTRODへの情熱を燃やすようになる

アメリカ社会は第二次世界大戦の勃発とともに、民需から軍需へと工場生産の切り替え、民間向け乗用車の生産休止、モータースポーツの禁止、ガソリンやタイヤが配給制になるなどの戦時体制に移行した。しかし、こうした施策は戦況の好転とともに徐々に緩和されてゆき、大戦終結の翌年にはほぼ平時体制への切り替えを完了した。それに合わせて徴兵に応じて戦地で戦っていた大勢の若者が復員し、それぞれ地域社会へと戻って行なった。

1945年8月15日、日本の無条件降伏により第二次世界大戦は終結。翌1946年頃からアメリカ社会は戦時体制から平時体制へと移行していく。写真はニューヨーク・タイムズスクウェアで対日戦勝利に喜び女性にキスする水兵。

ヨーロッパ戦線に従軍していた比較的裕福な家庭の子弟は、赴任先のイギリスで存在を知ったMGやトライアンフなどのスポーツカーを土産として故郷に持ち帰る者もいた。だが、大多数の若者たちは自分たちができうる手段でスピードへの情熱を燃やすことになる。それがHOTRODであった。

1938年型MG T-type。戦後、ヨーロッパから現地で乗っていたスポーツカーをアメリカに持ち帰る復員兵もいた。
1946年型トライアンフ1800ロードスター。アメリカ軍のヨーロッパでの前進基地であるイギリスのスポーツカーが人気を集めた。

平和の訪れとともに活況を取り戻したアメリカの自動車産業は、ニューモデルを求める大衆の旺盛な消費欲求に応えるように次々に新車をリリースしていく。こうした状況にモデルBなどの戦前の車両は急速に陳腐化していき、まだまだ使える車両でも“型遅れになった”という理由で廃車され、郊外のスクラップヤードや片田舎の空き地に放置された。

フォードの戦後型乗用車第1弾となった1949年型フォード・カスタム4ドアセダン。ランニングボード(ドア外側にあったステップボード)を廃し、ボディとフェンダーが一体化された近代的なスタイルで人気となった。その形状から「シューボックス」の異名を持つ。

懐事情の寂しい若者たちはそれに目をつけ、ボロボロの車両を拾ってきては自宅のガレージや納屋でDIYで修理し、エンジンをチューニングして最新モデルに負けないマシンとして再生したのだ。

2023年5月14日(日)にお台場・青海駐車場で開催された『SCN 2023(35th Anniversary MOONEYES Street Car Nationals®)』にエントリーしていたアメリカン・バンタムのSTREETROD。

戦前からモータリゼーションの進んでいたアメリカでは、庶民にとってクルマは身近な存在であり、現在のクルマに比べれば構造も単純であったことから、ある程度のメカに対する素養や知識があれば素人でも容易に修理や改造が可能だった。おまけに従軍経験のある若者は軍隊で専門的な整備や修理技術を教育された者も少なくはなく、つい最近まで戦車や軍用トラック、航空機などを取り扱ってきた人間にとってクルマの改造などは朝飯前のことだった。

同じく『SCN2023』にエントリーしていたウィリス・クーペのSTREET ROD。

モデルBのほか、モデルT(いわゆるT型フォード)やモデルA、ウィリス・クーペなどが改造ベースとして好まれたが、なかにはクロスレイやアメリカン・バンタムなどを選ぶ者もいた。
これらの車両は豪華さや贅沢さを求める市場の要求に従ってボディサイズを肥大化させつつあった戦後型モデルに対し、小型・軽量であったことからチューンナップしたフォード製の「フラットヘッド」V8を搭載すれば、否が応でも速くなった。

1958年型フューエル・ドラッグスター。公道走行ができないドラッグレーサーの一例。

彼らは手製のHOTRODをウィークデーには仕事や日常の足に使い、週末になるとドライレイクのスピードトライアルやストリートのドラッグレースに持ち出して存分に腕を振るった。ただし、街乗りできるレースカーとしてHOTRODが現役であった期間は意外と短く、1950年代に入るとレースマシンの高性能化に伴って、ほとんどのレース参加者は公道走行ができない専用のマシンを製作するようになる。

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アメリカのモーターカルチャーの中で重要な位置を占める「HOTROD(ホットロッド)」。しかし…

その一方で、クールなカスタムマシンで街道をぶっ飛ばしたいという需要もいささかの衰えを見せることはなく、ここにレース専用と公道走行用に分岐して行くことになる。すなわち「STREET ROD(ストリートロッド)」の発生である。

STREET RODは速さや走りだけでなく“魅せる”要素も重視されるようになる

当初のSTREET RODは競技に勝つために作られたレースカーとほとんど差がないスタイルをしていたが、やがてカッコ良く“魅せる”ことも重視されるようになった。

VWタイプIのチョップド・トップの製作過程。ルーフの前側と後側の高さの違いに注目。右ピラーには切断・溶接の跡が見える。

そこでボディワークにも力が注がれるようになり、戦前からのチョップドルーフ(ピラーを切り詰めルーフを低くしたカスタム技法)に加えて、チャネリング(車体のフロアパネルを1度切り離し、高さを調整した上で再溶接することで、足回りに変更を加えることなく車高を低く下げるカスタム技法)やセクショニング(車体下部より水平にボディを切り取り、残った上部と下部を再溶接することでボディを薄くし、車高を下げるカスタム技法)などのボディメイクを施し、視覚的にも速さを強調されるようになった。

チャネリングとセクショニングの技法を用いて製作されたRATROD (ラットロッド)。

初期のHOTRODの多くが軽量化のためにフェンダーを取り外した「Hi-BOY(ハイボーイ)」スタイルが主流であったが、多くの州で法執行機関が危険な車両を路上から排除する目的で「フェンダー法」を施行したことから、1950年代のSTREET RODは警察からの違反切符を避けるためフェンダーの装着を余儀なくされた。

Hi-BOYスタイルのモデルBロードスター 。

しかし、その場合でも軽量化の目的と美しいスタイルを崩さないように、オートバイ用のものに似た「サイクルフェンダー」を使用することで、官憲に対してささやかな抵抗の意思を示したのである(現在では多くの州で1949年以前に製造された車両はフェンダーの装着が任意となっている)。

MOONEYES創業者のディーン・ムーン氏(写真:MOONEYES)

この頃になると「Edelbrock」創業者のヴィック・エーデルブロック・シニアや「MOONEYES」創業者のディーン・ムーンのように、HOTRODERの中でも商才のある者は、スピードを求めて愛車を改造するだけでなく、レースを自身が制作したカスタムパーツのプロモーションに使い、活躍を見聞きしたスピードフリークに販売するビジネスを展開するようになった。また、顧客の依頼を受けてゼロからマシンを製作するカスタムビルダーもこの頃に登場している。

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5月14日(日曜日)にお台場・青海駐車場で開催された『35th Anniversary MO…

先ほどはSTREET RODは“魅せる”要素も重視されるようなったと書いたが、STREET RODのエクステリアの重要性が高まるにつれ、ボディカラーの選択肢は定番だったブラックやレッド、ブルー、グリーン以外にも広がり、イエローやライトブルー、ホワイトなどのこれまで見られなかった色のマシンも徐々に数を増やしていった。それとともに自動車塗料も進化し、キャンディーカラーやメタルフレーク、パール塗装などが誕生することになる。

カスタムビルダーにしてカスタムペインター、ピンストライパーのエド・ロス(1932年生~2001年没)。ラット・フィンクの海の祖としても知られる。

50年代も中頃を過ぎるとフレームス(ファイヤーパターン)やスキャロップ(ホタテ貝をモチーフにしたペイントデザイン)、トライバル(ネイティブアメリカンの民族模様を模したペイントデザイン)、ピンストライプ(ソードブラシとエナメル塗装で極細の線で描くペイント手法)などのボディに描くグラフィックがブームとなる。こうしたカスタムペイントの世界では、エド・ロスやディーン・ジェフリーズ、ラリー・ワトソンがスター・ペインターとなり、彼らがペイントしたマシンは『HOTROD magazine』や『ROD & Custom』などの専門誌の表紙を飾りますますます人気を加熱させていった。

オールズモビルのシャシーを使用してエド・ロスが製作したビートニック・バンディット。ボディはグラスファイバー製でバブルキャノピーを載せるなど彼らしい個性的なカスタムマシンに仕立てられている。

クライスラーの「Hemi」ユニットの搭載が一大ブームに!
アップグレードすることで最新モデルに負けないマシンへと進化

長らくHOTORODの心臓部として人気を集めていたフォード製「フラットヘッド」V8であったが、1950年代後半になると使い潰されて徐々に数を減らし、それにともない価格が徐々に値上がり。誰でも気軽に買える代物ではなくなってしまった。そのような状況で代替のエンジンとして人気を掴んだのが、クライスラー製の「ファイアーパワー」V8エンジンであった。

1952年のロサンゼルス国際モーターショーのデソートブースで展示されるクライスラー製「ファイアーパワー」V8エンジン。Hemiユニットの第一世代だ。

これはV字型の吸排気バルブ配置とセンターにスパークプラグを配した半球型燃焼室を持つ5.4L V8OHVエンジンで、ストックの状態で180hpを叩き出すハイパフォーマンスエンジンであった。現在でも「Hemi」の愛称で知られるヘミスフェリカル・ユニットの登場である。

これによりHOTRODは一段と高性能になり、ドラッグレースでのタイムアップはもちろんトップスピードも大きく向上した。だが、エンジンがハイパワー化したことで従来の機械式ブレーキでは充分な制動力を得られなくなった。そこで大型車のビュイックなどの油圧式ドラムブレーキをスワップするとともに、ヘッドランプを電球式からシールドビームにアップグレードするなど、STREET RODは見た目はクラシカルでもビッグ3が送り出すニューモデルにも引けを取らない性能を持つにまでに至った。

1960年代のマッスルカーブームで、ついに主役交代かに思われたが……

だが、1964年に元祖マッスルカーのポンティアックGTOが登場すると事態は一変する。GTOの登場が呼び水になり、アメリカの自動車メーカーはパワーウォーズに突入し、7.0L級の巨大なV8を積んだハイパフォーマンスカーが相次いで登場。わざわざ改造しなくても工場出荷の段階で充分すぎるほどの高性能を持ったニューマシンが続々と登場するようになる。しかも、これらのマシンはオプションさえ選ばなければ、若者でもちょっと無理すれば手が届くという価格で販売されたのだ。

元祖マッスルカーとなった1964年型ポンティアックGTO。

こうなると戦前の車両をベースにアマチュアが手作りしたマシンでは性能的に太刀打ちできなくなり、わざわざ手間や時間をかけて愛車をカスタムする必要性が薄れてくる。このまま時代の波に飲まれてSTREET RODも終焉を迎えるかに思われたが、意外なことに先に姿を消したのはマッスルカーの方であった。

それというのも、現代のようにABSやトラクションコントロールなどの車両制御技術がない時代に、レーシングカー顔負けの高性能車を誰もが気軽に買え、それが大ヒットする状況というのは社会に混乱をもたらすことになる。今も昔もこの種のクルマを好むのは若者であり、運転技術が未熟な彼らが公道で無謀運転や暴走行為を繰り返した結果、死亡事故が急増したのだ。これに対して製造元のビッグ3が批判の対象となり、アメリカを揺さぶる社会問題となったのだ。

さらには排気ガスがもたらす大気汚染が社会問題化するようになり、1970年には有害な排気ガス排出を規制する「マスキー法」が議会を通過してしまう。この法律はビッグ3の強固な反発もあり、実施の延期や規制値の修正が繰り返されて実質的には廃案とされたのだが、それでもメーカーは新車の排気ガス低減を余儀なくされた。その結果、1970年代に入るとビッグ3は排出ガス量の多いマッスルカーに対し、搭載するエンジンの圧縮比を下げ、キャブレターの数を減らすなどの対策を施すようになったのだ。

1967年11月、ホワイトハウスで「1967年大気汚染防止法(マスキー法)」に署名するリンドン・ジョンソン大統領。

これとほぼ時を同じくして政府は増え続ける交通事故に歯止めをかける目的で安全基準の引き上げを行い、大きくて重い「5マイルバンパー」の装着を義務化した。これらも要因となってマッスルカーの性能は大幅に低下し、商品として精彩さを欠くようになる。

そして、追い討ちをかけたのが1973年のオイルショックであった。ガソリン価格が急激に高騰したことで、消費者のマインドをパワーよりも燃費志向に変えたことがトドメとなり、1970年代中頃にはマッスルカーブームは完全に沈静化を迎えた。

スエズ運河を渡るイスラエル軍のM48A5パットン戦車。第4次中東戦争が勃発するとアラブの産油国は親イスラエル国に対し、石油禁輸措置とそれに伴う原油価格の引き上げを行った。これにより第一次石油危機(オイルショック)が発生し、西側諸国は石油不足と経済の大混乱に陥った。

STREET RODが再び自動車趣味の王道へ返り咲く

しかしながら、どんな時代になろうともクルマに運転する楽しさやパフォーマンスを求める層は一定数が存在する。そんな彼らが再び注目したのが、時代遅れになりつつあったSTREET RODであった。
法治国家には“法の不遡及”という原則がある以上、過去に作られたマシンには厳しさを増す排気ガス規制も安全基準は関係なかった。しかも、大衆車として大量生産された車種ということもあり、製造から年月が経過してもなお、改造車のベースを選ぶのに事欠くことはなかったのだ。

一度はSTREETRODの命脈を断つかに思われたマッスルカーが、牙を抜かれ、魅力を失って絶滅したのにとって代わり、戦前車をベースにしたSTREET RODが自動車趣味の王道へと返り咲いたのはなんとも皮肉な話である。

シボレー製「スモールブロック」V8 OHVエンジン。1954~2003年まで製造が続けられた息の長いパワーユニットだった。

1970年代に入るとSTREET RODに搭載される心臓部は、価格の安さと入手性の良さからシボレー製5.7L「スモールブロック」V8 OHVエンジンが主に選ばれるようになった。これはビッグ3が「ビッグブロック」などの7.0Lオーバーの大排気量エンジンの生産数を減らしたことが影響しているのだが、スモールブロックはは素性が良く、チューニングパーツも揃っていたことも人気を集めた理由であった。

また、現代の交通環境でも過不足なく使用できるように、他車から流用したディスクブレーキやインディペンデント・サスペンション(独立懸架式サスペンション)などを使用することが一般的になった。

ショーカーとしての魅力を増し
優れた才能を持つカスタムビルダーたちが腕を振るう

しかし、公害対策や自動車に対する安全性、省エネなどを社会が重視するようになると、HOTRODのあり方にも変化を及ぼすようになり、1970年代からSTREET RODは走行性能よりも、よりカッコ良く、より美しく、より奇抜に目立つようにと、ショーカーとして魅せる要素が一層重視されるようになる。これには毎週のように全米の各地で開催されるHOTRODショーの人気が影響していた。

美しく仕上げられた1933年型フォード・モデルB3ウインドウクーペ。

こうした状況にあって注目を集めるようになったのが、1980~1990年代にかけて活躍したカスタムビルダーのボイド・カディントンだ。彼の手掛けたマシンは伝統的なSTREET RODでありながら、彼独特の感性を組み込むことで「ボイド・ルック」と呼ばれるスタイルを確立。HOTRODファンを大いに魅了することになる。

HOTRODビルダーとして一世を風靡したボイド・カディントン(1944年生~2008年没)。日本でも「ディスカバリーチャンネル」のリアリティ番組『アメリカン・ホットロッド』のホストを務めたことで知られている。彼の手掛けたマシンはクリーンでエレガントで人気があり、ビレット加工(アルミ削り出し)のパーツを多用したところに特徴があった。

彼は生涯でグランド ナショナル・ロードスター・ショーの「アメリカで最も美しいロードスター (AMBR)」賞を7回受賞し、他にも多くのショーでアワードを獲得した。その功績から1997年にHOTRODの殿堂にその名が刻まれている。

ボイド・カディントンの代表作のひとつ「CadZZilla」。「ZZ Top」のボーカリストであるビリー・ボンズの依頼で1949年型キャデラックをベースに製造された。非常に美しく、ファンの評価も高いマシンで数々のアワードを受賞した。

そして、ボイドの死後にカリスマ・ビルダーとしての地位を引き継いだのがチップ・フースだ。日本でも彼の名はディスカバリーチャンネルでオンエアされていた『オーバーホール 改造車の世界』のホストを務めたことで知られているが、フースの作り上げたマシンは例外なく精錬された美しい仕上がりであり、そのクオリティの高さからファンの間で評価が高い。

現在人気のカリスマHOTRODビルダーのチップ・フース(1963年生~)。アートセンター・カレッジ・オブ・デザインを卒業後、ボイド・カディントンの元で働き、 その後に独立。映画『60セカンズ』のシェルビー・マスタングGT500「エレノア」をはじめ、多くのマシンを製作し、ショーイベントでは数々のアワードを手にしている。

その実力のほどは、彼がアメリカ最大のHOTRODショーである「デトロイト・オートラマ」で4回のリドラー賞を受賞したほか、グッドガイズ・ストリート・ロッド・オブ・ザ・イヤー賞を7回、AMBRはボイドを上回る8回を獲得したことからも証明されている。

2006年にフースが製作したHemi(s)fear。

ほかにもモダンなHOTRODを得意とするマイクとジムのリングブラザーズや、HOTROD magazineの50周年記念車を製作したロイ・ブリッツォ、HOTRODに欧州風のテイストを加えたエレガントで美しいマシンを次々に発表し続けるスティーブ・モールなど、アメリカにはHOTRODの世界を牽引するユニークな個性を持ったカスタムビルダーが数多く存在し、彼らはショーイベントやメディアでニューマシンを発表しては、ファンの話題をさらい続けている。

時代とともに代わるカスタムスタイル
だが、STREET RODは永遠に不滅だ!

近年のアメリカではHOTRODのベース車は、若い世代を中心にSTREET RODからマッスルカーへと徐々に人気が移り変わりつつあるが、それでもHOTRODの世界ではSTREET RODが大きなウェイトを占めていることに変わりはない。
STREET RODのスタイルを大別すると、1950年代の「FIFTIES(フィフティーズ)」、1960年代の「TRADITIONALS(トラディショナル)」、そして最新のテクノロジーを惜しみなく注ぎ込んでマシンを製作する「HiGH TECH(ハイテック)」が存在する。

V8ツインターボエンジンを搭載したHiGH TECHスタイルの1928年型フォード・モデルA。

FIFTIESやTRADITIONALSに比べて製作するのに高い技術とコストが嵩むことから、日本ではHiGH TECHスタイルのSTREET RODは滅多にお目にかかることはないが、これはベース車は古いモデルだが、中身は現代の最新モデルと遜色ないメカニズムとなっており、心臓部にはGM製V8 DOHC「ノーススター」やフォード製V8 SOHC「コヨーテ」などの現代車のエンジンを搭載し、燃料噴射は電子制御インジェクション、エアコンやオーディオ、カーナビなどの快適装備を備える車両も珍しくはない。足回りも近代化されており、前後にインディペンデンス(独立懸架式)・サスペンションを備え、最新型のディスクブレーキに大径のビレットホイール&扁平タイヤを組み合わせるのが定番のスタイルとなっている。

使い古された、あるいは未完成の状態を再現するため、錆びた内外装、錆止めやプライマー処理のみのボディパネル、適当に拾ってきたパーツを組み付けたような粗雑さと、意図的に外観をボロく仕上げたRAT ROD。美しく仕上げたSTREET RODに対するカウンターカルチャーとして誕生した。日本でも15年ほど前にちょっとしたブームがあった。

また、最近ではハイブリッド・ユニットやEV化したSTREETRODなども製作されているようで、ベース車はアーリーフォードなど古いクルマであることに変わりはないが、カスタムの内容は時代とともに着実に変化し続けている。しかしながら、時代や用いられるテクノロジーは変われども、STREETRODはアメリカのモーターカルチャーの象徴であり、カスタムカルチャーの王道であることは今後も変わりはないだろう。

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山崎 龍 近影

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