立志伝の創業者ヘンリー vs 二代目若社長エドセル! 歴史的革命自動車「T型フォード」苦難のモデルチェンジ!!【よくわかる!フォードの歴史・前編】

アメリカ人のV8信仰を生み出す契機となったフォード・モデルBは1932年に誕生した。しかし、同車の登場に至る道のりは決して平坦なものではなかった。モデルTの爆発的な成功はアメリカおけるモータリゼーションの原動力となったが、同時にこの成功体験がヘンリー・フォードの心を冥頑不霊なものとし、息子エドセルに対する醜い嫉妬心もあって後継車開発を頑なに拒んだのだ。結果、フォードは並の会社なら倒産してもおかしくない苦境に陥ることになる。そこからフォードはどのように復活し、モデルBを開発したのだろうか? ヘンリーとエドセルを中心にアーリー・フォードの物語を前・後編に分けて紹介する。今回はその前編である。

アメリカ人に今も愛され続けるフォード・モデルB誕生までの物語

アメリカの禁酒法時代(1920~33年)に密造酒の運び屋たちが、仲間うちで誰が速いかを決める腕自慢がアメリカのモータースポーツの原点となり、官憲の追跡を振り切るための愛車の改造が「HOTROD (ホットロッド)」カルチャー誕生の呼び水となったというヒストリー、そして、1932年に登場したフォード・モデルBが安価な大衆車にも関わらず、V8エンジンを搭載した高性能車だったことから瞬く間に運び屋の間で人気車種になったことが、今日に至るアメリカ人のV8信仰の始まりとなった。

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アメリカのモーターカルチャーの中で重要な位置を占める「HOTROD(ホットロッド)」。しかし…

故にアメリカではモデルBが神格化され、同車をベースにしたSTREET ROD(ストリートロッド:公道走行を前提にした1949年以前のHOTRODのこと)は、現在でも高い人気を誇る。そこで今回は創業間もない頃から1920年代までのフォード社の足跡を辿りつつ、モデルB誕生までの経緯を前・後編で語っていくことにしよう。

大衆車の夢と情熱を武器に一介の機械工から
フォード帝国を築き上げたヘンリー・フォード

機械工から一代でフォード社を起こし、世界初の大衆車・モデルTでアメリカだけでなく世界に“モータリゼーション”を起こしたヘンリー・フォード(1863年~1947年)。モデルT完成までの前半生はまさしく偉人であった。だが、後半生は老化によるものなのか頑迷固陋な態度が顕著になり、息子エドセルに対する醜い嫉妬心から経営判断を大きく誤る。役職こそ離れたが会社の経営権は掴んで離さず、社長のエドセルやフォードのスタッフにとっては厄介な存在となり「晩節を汚した」と評されることに。

中卒の機械工から身を起こしたヘンリーが初めて自動車を製作したのは、「エジソン照明会社」の技術者として働いていた1896年のことだ。3年後の1899年に実業家のウィリアム・H・マーフィーの支援を受けて「デトロイト自動車会社」を起業する。しかし、完成車が高コストかつ低品質だったことから事業に失敗。この会社は解散した。

エジソン照明会社の技術者だったヘンリー・フォードが1896年に初めて製作した自動車・クァッドサイクル。

1901年、彼はあらためて出資者を募って「ヘンリー・フォード・カンパニー」を創業し、チーフエンジニアに就任する。しかし、同社のコンサルタントだったヘンリー・リーランドとの間で経営方針を巡って対立し、翌年に自身の名前のついた会社を辞することになった(この会社はのちにリーランドをチーフエンジニアに据えて「キャデラック社」に改組される)。

ヘンリー・フォード・カンパニーのコンサルタントだったヘンリー・リーランド(1843年~1932年)。1870年に友人と精密工作機械のメーカーを設立し、その後「オールズモビル」にて自動車開発に参入。ヘンリー・フォード・カンパニーから改組されたキャデラックの主任設計技師となる。その後、会社を「GM」に売却してキャデラック部門の責任者となるが、ウィリアム・C・デュラントらGM首脳部と対立。GMを退社し、「リンカーン・モーター社」を起こす(のちにフォードに買収される)。精密加工による自動車部品の互換化をいち早く重視したエンジニアであり、キャデラックが世界で初めて部品の完全互換を実現したのは彼の功績によるものだ。
リーランドが手掛けた1904年型キャデラック6 1/2HP。リーランドはキャデラックとリンカーンという2大高級車ブランドの開祖となった人物でもある。

フリーランスの技術者となったヘンリーは、レースカー「999」を製作。このマシンがレースに優勝したことで世間の注目が集まると、友人であり石炭販売会社のオーナーだったアレキサンダー・マルコムソンの資金援助と働きかけもあり「フォード&マルコム社」が設立された。しかし、同社の販売は低調で、取引先であった自動車部品メーカーの「ダッジブラザース・バイシクル&モーターファクトリー」への支払いにも苦慮するようになる。

1902年にヘンリー・フォードが製作したレーシングカー「999」。このクルマはバーニー・オールドフィールドのドライブでレースに優勝し、フォードの名を一躍有名にした。しかし、彼自身はレース活動に消極的で「自動車技術には関係のないムダなもの」とのちに自伝に記している。

マルコムソンの働きかけもあり、ダッジ社のオーナーであるジョンとホレスのダッジ兄弟は、株式の一部譲渡を条件にフォードに出資。これを機に現在の「フォード・モーター・カンパニー」へと改名される。なお、ダッジ兄弟は1914年にフォードと袂を分かち独立。兄弟の死後「クライスラー社」に買収され、現在はステランティス内で「ダッジ」としてブランド名を残している。

フォード・モーター初の乗用車として1903年に登場したモデルA(初代)。

フォードは創業から5年の間に20車種以上を設計し、そのうちモデルA (初代)、B (初代)、C、F、K、R、Sの7車種の乗用車が量産されている。その中には当時の市場規模で考えれば商業的に充分成功と言っていいものもあったが、ヘンリーが理想として掲げる「農民や労働者でも買える安価な大衆車」には、性能面においても価格的においても彼が満足できる水準にはなかった。

モデルAの後継として1904年から生産されたモデルC。カナダ工場でも生産された。
1906年から生産されたモデルN。当時の販売価格は500ドル。手頃な自動車として人気を博し、7000台が生産された。

モータリゼーションの原動力となった史上初の大衆車「モデルT」の誕生

1908年、フォードはついにこれまでの集大成とも言える、ヘンリーの理想を具現化した革新的な大衆車・モデルT(いわゆる「T型フォード」)を発表する。

このクルマについては今さら説明の必要はないだろう。多くのクルマが2000ドル以上の価格で販売されていた当時、労働者の平均年収(およそ600ドル)よりわずかに高い850ドルという低価格で売り出されたモデルTは、発表と同時に瞬く間に爆発的なヒットとなった。
そして、その旺盛な需要に応えるために、1913年には画期的なベルトコンベアを使った流れ作業の大量生産工程を採用したのである。これにより作業効率が劇的に向上し、量産効果によってモデルTの販売価格は年々値下げされていったのだ。

1908年から量産を開始したモデルT(写真は1909年型ツアーアバウト)。このクルマについては多くを語る必要はないだろう。世界初の“大衆車”であり、19年間に1500万台以上が生産された史上稀に見る成功作だ。画期的なベルトコンベアー式生産工程はまさしく革命的なことであり、量産効果もあって極めて安価に販売された。このクルマの登場によりモータリゼーションが発生し、社会のあり方を根底から覆すことになった。

この結果、アメリカ中の街角や街道はモデルTで溢れかえった。それに合わせて道路やガソリンスタンド、整備工場などの自動車インフラが整備され、それにともない郊外の開発も始まり人々の生活圏は大幅に広がっていった。自動車の普及によって新たな産業と雇用が創出され、工業製品や農作物の輸送効率も向上。いわゆる“モータリゼーション”の始まりである。
モデルTの大衆への普及により、アメリカは短期間でクルマを中心にした社会へと変貌したのである。それはまさしく革命的な出来事であった。

1913年のリバー・ルージュ工場でモデルTの組み立て作業を写した一葉。流れ作業による生産は工員にとってはストレスだったようで、のちにフォードは日給5ドル(勤務開始から半年間は2.5ドルでその後に昇給)という当時としては破格な条件で求人した。短期で辞める人間が多かったが、日給に惹かれて応募者が殺到したことから問題にはならなかった。

この革命の中心にあったモデルTは、歴史に比類ないほどの成功作となった。1927年5月の生産終了までに、19年間でラインオフしたモデルTの台数はじつに1500万7033台。44年9カ月後にVWタイプI(ビートル)に抜かれるまで史上最多量産車の記録を保持し続けた。しかし、この成功がフォードにとってのちに仇となる。

時代の変化により旧式化し、陳腐化したモデルT
それでもヘンリー・フォードがモデルチェンジを拒んだワケとは?

1923年に年間生産台数203万5300台以上を数えたモデルTであったが、この年をピークとして徐々に販売は下降していった。この頃になるとアメリカ社会はモータリゼーションがさらに進んで舗装路が普及し、州内の都市間を結ぶ長距離高速道路も整備されつつあった。その結果、自動車の高速化が進むと同時に大衆の好みも変化して、クルマは単なる移動の手段からスタイリングやボディカラーなどのファッション性やエンジン出力などの性能、乗り心地や操作性などの快適性が重視されるようになり、かつての高級車にも匹敵する装備やメカニズム、質感を大衆車にも求めるようになっていたのだ。

1925年型モデルTツーリング。生産期間の後半になると相次ぐライバル社の新型車に対抗すべくモデルTも改良を施したが、設計の古さは否めず、販売面で苦戦することになる。また、改良によって増えた車重はパワーの乏しいエンジンに負担を強いることになり、他車との性能差はますます開いていった。

だが、未舗装路が当たり前だった時代に誕生したモデルTの取り柄は、この時代になると価格しかなくなっていた。モデルTはロードクリアランス確保のためにボディは腰高で、どんなに改良しても流行のスタイルにはできなかった。おまけに旧態然としたメカニズムでエンジン出力が低く、操作性、乗り心地がともに劣悪な上に、装備面でも大きく見劣りしたことから、性能面でも販売面でもシボレーやダッジなどのライバル車の後塵を浴びるようになっていた。

モデルTをベースにトラック/バスモデルのモデルTTも生産されている。1923(大正14)年の関東大震災では、被災した路面電車網を補佐する公共交通として東京市が急遽100台のモデルTTシャシーを輸入。バスに架装して運用した。明治時代の乗合馬車である「円太郎馬車」にちなんで「円太郎バス」の名で庶民に親しまれた。これが今日の都バスの始まりとなった。

時代遅れのモデルTのモデルチェンジはもはや必然だった。しかし、ヘンリーにとってモデルTは自らの理想を具現化したクルマであり、モデルチェンジの必要のない完全な存在であったのだ。彼の関心はモデルTの大量生産と量産効果による価格の引き下げにしかなく、周囲の説得にも関わらずモデルTの代替を頑なに拒否し続けた。
だが、このヘンリーの頑迷固陋な態度はエンジニアや経営者としてのポリシーからだけではなかった。その背後には息子・エドセルに対する仄暗い嫉妬心が潜んでいたのだ。

息子・エドセルへの嫉妬心が経営判断を狂わせたヘンリー・フォード

前述したとおり、ヘンリーは一介の機械工からフォード社を起こした立志伝の人である。しかし、同時に学歴がないことにコンプレックスを抱いており、自身の限界もよくわかっていた。そこで後継者たる息子・エドセルには巨大企業・フォードを率いる企業家としての帝王学を幼少期から施したのである。
果たせるかな、名門校を卒業したエドセルは上流階級でも通ずる立ち居振る舞いや豊かな教養、精錬されたセンスを身につけ、大学で当時最新の学問を学んだインテリとして成長した。だが、実際にエドセルがそのような人間に育つと、学がなく、粗野で無教養、洗練さのカケラも持たないヘンリーは息子の存在を疎ましく思うようになる。

1919年にエドセルがフォード社社長に就任したあとも、ヘンリーは社主として絶大な権力を保持し続けた。息子からの改善案のほとんどを拒否し、一度決定したことでもあとから平然と覆した。ときには社員がいる前でエドセルを罵倒することもあったという。

エドセル・フォード(1893年~1943年)。ヘンリー・フォードと息子として生まれた彼は幼い頃から自動車に親しみ、フォード社の後継者になるべく育てられた。父親と違って学識・教養・上流階級で通じる振る舞い・都会的で洗練されたセンスの持ち主となった。彼自身は非常に優秀な実業家であり、モデルAの開発、ゼファーとコンチネンタルの開発によるリンカーン部門の強化などに実績を残す。しかし、社長を退いた後も経営権を手放さない父との溝は深く、説得に苦労し、ストレスを溜めることになった。その挙句、胃癌を患い、将来を嘱望されながら49歳の若さで他界した。

そして、この頃からヘンリーは次第に精神に変調をきたしていく。猜疑心が強くなって他人を信用しなくなり、息子を辱め、陰湿にいびることに無情の喜びを感じるような人格破綻者に成り果てていたのだ。
エドセルが大衆車を生産するリバー・ルージュ工場に新たなコークス炉一式を設置したときなどは、自ら承認したにも関わらず、わざわざ完成を待ってから解体を命じたほどであった。

ユダヤ人に対する差別感情が増し、陰謀論に捉われたヘンリー・フォードが1922年に刊行したヘイト本が『国際ユダヤ人(原題:The International Jew, the World’s Foremost Problem)』だ。この本は日本を含む16カ国で翻訳版が出版され、ドイツ国内版はナチスの台頭にも影響を及ぼした。アドルフ・ヒトラーも自著『我が闘争』のなかで著者であるヘンリーを称揚している。

また、もともと持っていたユダヤ人への差別感情はますます悪化し、労働組合を共産主義の手先として考えて徹底的に弾圧した。前者に関しては地元新聞社を買収し、反ユダヤ主義の記事にあふれた新聞へと内容を変更し、全国のフォードディーラーへ講読を義務付けた。
さらに、全4巻のヘイト本である『国際ユダヤ人』を執筆・刊行し、ドイツ国内ではこの本の翻訳版がナチス台頭にひと役買った(その功績が認められて1937年にはナチスより勲章を授与されている)。後者に関しては元ボクサーのゴロツキであるハリー・ベネットを総務部のトップに据え、暴力を使って組合潰しを行なった。

1937年5月26日、のちに「高架橋の戦い」と呼ばれるフォード社の労働争議において、ヘンリー・フォードは一切の交渉を拒否し、部下のハリー・ベネットを使って暴力で組合を弾圧。UAW(全米自動車労働組合)のウォルター・ロイターら労働組合幹部が重軽症を負う騒ぎとなった。この事件によりフォードは社会から厳しく批難された。

こうした常軌を逸した父親に対しエドセルは懸命に説得を続けたが、ヘンリーがそれを素直に聞き入れることはほとんどなかったという。しかし、急落するモデルTの販売を前にしてヘンリーは息子の提言を受け入れざるを得なくなり、1927年5月に渋々ながらモデルTの生産終了を決断する。
だが、普通なら生産ラインは直ちに後継車種生産へとシフトすべきところなのだが、ヘンリーはモデルTの代替をまったく考えておらず一切の準備がされていなかったことから、リバー・ルージュ工場は生産すべきクルマがなくなってしまったのだ。工場は直ちに閉鎖され、6万人に及ぶフォード社の工員はレイオフ(解雇)を宣言された。

これ以降、新型車・モデルAが登場するまでの半年間、フォードは主力である大衆車の生産が途絶することになる。売るクルマがなくなったティーラー、とくに地代の高い都市部の販社は窮地に立たされ、フォードとの契約を解除して他メーカーの代理店になるケースが続出。
最大の競合相手であるフォードの失策によってライバル各社は販売を大きく伸ばした。この間隙をついたGMはシェアを拡大し、自動車業界1位の座を奪い取ることに成功する。反面、フォードは創業以来最大の危機に直面することになった。

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