え!! 大衆車にV8を搭載するだって!? できらぁっ! アメリカンV8信仰を生んだモデルB「DUECE[デュース]」誕生!【よくわかる!フォードの歴史・後編】

『SCN2023』にエントリーしていたフォード・モデルAの2台。手前の車両はルーフをチョップし、オールドスクールなホットロッドに仕上げられている。
アメリカ人のV8信仰を生み出す契機となったフォード・モデルBは1932年に誕生した。しかし、同車の登場に至る道のりは決して平坦なものではなかった。モデルTの爆発的な成功はアメリカおけるモータリゼーションの原動力となったが、同時にこの成功体験がヘンリー・フォードの心を冥頑不霊なものとし、息子エドセルに対する醜い嫉妬心もあって後継車開発を頑なに拒んだのだ。結果、フォードは並の会社なら倒産してもおかしくない苦境に陥ることになる。そこからフォードはどのように復活し、モデルBを開発したのだろうか? ヘンリーとエドセルを中心にアーリー・フォードの物語を前・後編に分けて紹介する。今回はその後編である。

販売不振に陥ったモデルTをついに生産終了!だが、後継車種がなかった⁉︎

1927年5月、フォードは販売不振から後継車の用意もないまま主力となる大衆車「モデルT」の生産を終了した。それというのも社主であるヘンリー・フォードがモデルTに固執し、息子であり、社長のエドセルらが後継車の必要性を力説しても聴く耳を持たなかったからである。
だが、シボレーやダッジなどのライバル車との性能差が歴然となり、急落するモデルTの販売を前にしてヘンリーは息子の言葉を渋々受け入れたのだ。だが、この判断はあまりにも遅きに失した。

立志伝の創業者ヘンリー vs 二代目若社長エドセル! 歴史的革命自動車「T型フォード」苦難のモデルチェンジ!!【よくわかる!フォードの歴史・前編】

アメリカ人のV8信仰を生み出す契機となったフォード・モデルBは1932年に誕生した。しかし、同車の登場に至る道のりは決して平坦なものではなかった。モデルTの爆発的な成功はアメリカおけるモータリゼーションの原動力となったが、同時にこの成功体験がヘンリー・フォードの心を冥頑不霊なものとし、息子エドセルに対する醜い嫉妬心もあって後継車開発を頑なに拒んだのだ。結果、フォードは並の会社なら倒産してもおかしくない苦境に陥ることになる。そこからフォードはどのように復活し、モデルBを開発したのだろうか? ヘンリーとエドセルを中心にアーリー・フォードの物語を前・後編に分けて紹介する。今回はその前編である。

通常なら生産ラインは直ちに後継車種の生産へとシフトすべきところなのだが、ヘンリーはモデルTの代替をまったく考えておらず、一切の準備がされていなかったことから、リバー・ルージュ工場は生産すべきクルマがなくなってしまう。工場は直ちに閉鎖され、6万人に及ぶフォード社の工員はレイオフ(解雇)を宣言された。

フォードのリバー・ルージュ工場のモデルT生産ライン。

並のメーカーなら倒産してもおかしくない致命的な経営判断の誤りである。今も昔もゼロから新型車を開発する苦労は並大抵のものではない。しかも、今回は完全に旧態化したモデルTのモデルチェンジということで、使用するパーツはほぼすべて新規に開発する必要があった。加えて、ヘンリーが精密工作機械や新技術への投資を長年拒み続けてきたこともあって、新型車開発と並行してパーツ製造に必要な工作機械も一新することになったのだ。それも工場の早期再開のために可能な限り短期間にである。

ヘンリー・フォードの頑迷が新型車の開発作業を難航させる

新型車開発の指揮に当たった社長のエドセルと主任設計技師だったローレンス・シェルドリック、そして生産責任者のチャーリー・ソレンセンは、この難局を打破するために寝食を忘れて仕事に打ち込んだ。だが、ここでもヘンリーが足を引っ張り続けた。
ヘンリーは他社では当たり前だった薄い鋼板を用いたプレス加工に耐久性の面で疑義を抱いており、モデルT以上に鍛造部品の割合を増やすように指示した。しかし、それでは予定販売価格をオーバーしてしまうため、エドセルとシェルドリックはヘンリーから罵声を受けながらも懸命に説き伏せたのであった。

また、ヘンリーは外部の専門家を徹底的に嫌っていた。彼にとって専門家とは「小難しい専門用語を並べ立てて相手を煙に巻き、企業から小金をせしめるコソ泥」のことだった。それ故にフォードは設計工学や工業技術の高度な知識を持つ外部専門家を雇うことなく、独力で新型車を開発することになったのだ。フォード社内をくまなく探してもそのような知見を持つ社員がいないにもかかわらずに、だ。

モデルTのシャシー。前輪にブレーキを備えず、制動は変速機に一体化されたドラム締め付け式のセンター・ブレーキを用いる独特の構造がわかる。なお、後輪に備わるドラムブレーキは主にパーキングブレーキとして用いるものだ。

とくに問題になったのがブレーキである。長年モデルTは専門家やマスコミ、ユーザーからブレーキの効きの悪さを指摘され続けていた。そこでシェルドリックは安全性向上のため、新型車の設計は油圧式の四輪ドラムブレーキの採用を前提に進めていた。ところが、モデルTへの指摘を外部からの言われなき干渉と受け取っていたヘンリーは「他人の言いなりになるなどフォードにおいてはあってはならないことだ! ブレーキはモデルTのもので充分である!」と激しく反発。従来の変速機に一体化されたドラム締め付け式のセンター・ブレーキに固執し続けた。エドセルらがこれを説得するのに1カ月以上を費やすことになり、貴重な時間を徒らに浪費する結果となった。

さらに悪いことに主任テストドライバーのレイ・ダーリンガーは、クルマのことを知り尽くしたスペシャリストではあったが、異常なまでに無口な男で、コミュニケーション能力が足りなかった。何を聞いても返ってくる返事は「良い」か「悪い」のふたつだけ。何が悪いのか、どこを改善すれば良いのかを尋ねても、詳細を聞き出すことは誰にもできなかったのだ。限られた時間の中での開発作業においてこれは障害のひとつになった。

吶喊(とっかん)作業により完成した新型車・モデルAは当時の水準を超えた高性能大衆車に

こうした紆余曲折を経て新型車・モデルAは1927年10月21日に試作車が完成し、同年12月2日にマスコミを前にして正式発表が行なわれた。発表の日にフォードは全国2000紙の新聞に全面広告を出したこともあり、人々はモデルTの後継車をひと目見ようとフォードのショールームに押しかけた。

1927年10月の発表会でモデルAの前に並び立つヘンリー(左)とエドセル(右)。なお、モデルTの後継ということで、本来ならモデルUなどの名称になるはずだが、心機一転の再スタートということでアルファベッドの最初の文字からモデルAの名前が付けられることになった。

控えめに言ってもモデルAは傑作車だった。エドセル好みの精錬されたスタイリングは上級モデルのリンカーンのイメージが盛り込まれており、大衆車と思えない見栄えの良いクルマに仕立てられていた。また、前任のモデルTとは違ってデビュー時から複数の魅力的なボディカラーを用意していることも特徴であった。

心臓部はモデルTと同じく水冷直列4気筒サイドバルブ方式を採用していたが、排気量は2.9Lから3.3Lへと拡大され、最高出力は2倍の40馬力を発揮。最高速度は105km/hに達した。この新開発されたエンジンはモデルTのものとは、比べものにならないほどパワフルでスムーズに回った。
操作系はクセの強いモデルTのペダル操作式の遊星トランスミッションは廃止され、近代的なH型パターンの3速MTと一般的な3ペダルの操作系の組み合わせがフォード車として初めて採用された。

「フラットヘッド」とも呼ばれるモデルAに搭載された水冷3.3L直列4気筒サイドバルブエンジン。最高出力は40馬力、最高速度は105km/hという当時としては優れた性能を発揮した。

新開発されたシャシーはホイールベースが延長され、脚周りは新型の横置きリーフスプリングに油圧式ショックアブソーバーを組み合わせており、乗り心地は当時の水準でも良好なものであった。また、ヘンリーの反対を押し切って採用された油圧式の四輪ドラムブレーキの効きは抜群であった。さらにフロントスクリーンの安全ガラス、セルフスターター、燃料計、バックミラー(オプション)などの装備も充実していた。

モデルAはライバルの牙城を崩せず、後継車にV8搭載を決定!

モデルAは発表から2週間で40万台の受注を獲得し、販売の滑り出しは上々だった。しかし、生産設備の立ち上げの遅れから当初は100台/日しか生産できず、工場のフル稼働は1929年半ばまで待たなければならなかった。モデルAを待ちきれないユーザーのなかには他メーカーで車を購入したものも少なくはなく、フォードはせっかくの商機を失うことになった。

1928年型フォード・モデルAビジネスクーペ。モデルT同様にモデルAにも車体のバリエーション多く、2ドア/4ドアセダン、フェートン、ロードスター、クーペ、セダンデリバリー(リヤサイドガラスを塞いだライトバン)、ピックアップトラックなどが用意された。

とはいえ、最終的にモデルAは4年間で500万台以上を生産し、商業的には成功を収めたと言って良いだろう。1929年にモデルAは販売台数首位の座に返り咲いた。だが、ライバルメーカーを圧倒的なシェアで引き離すまでには至らず、初動の躓きもあってこの期間のフォード車の売り上げはシボレーの半分、クライスラーにも後れを取るありさまだった。

モデルTのライバルであったシボレー「シリーズACインターナショナル」。写真は1929年型クーペ。

当時、モデルAの最大のライバルとなったのが「シボレー・シリーズACインターナショナル」だ。このクルマの心臓部に収められたのは3.18L直列6気筒OHV「ストーブボルト」エンジンだった。このエンジンはモデルAの直4エンジンよりもパワフルかつスムーズと評判で、最高出力も6馬力上回る46馬力を発揮。しかも「4気筒の価格で6気筒を!」の広告キャッチの通り、価格はモデルAとさほど変わりはなく、商業的な成功は必然であった。

シボレー・シリーズACインターナショナルの最大の武器は近代的な3.18L直列6気筒OHVエンジンだった。直6 OHVエンジンはフォードの直4サイドバルブエンジンに比べて燃焼効率が高く、パワフルで回転もスムーズであった。広告キャッチの通り、シリーズACの販売価格は高性能ながら比較的安価であった。

こうした状況をエドセルは忸怩たる思いで見ていたに違いない。だが、彼には秘策があった。じつはモデルAへの搭載を一度は検討しながらも、時間と開発リソースに余裕がないことから搭載を諦めざる得なかったエンジンがあった。それがV8だった。

「すでに高級車リンカーンに採用実績のあるV8をフォードの大衆車に搭載すれば、シボレーの直6エンジンを遥かに凌ぐ高性能を実現できる。徹底的なコスト管理と効率的な設計により、安価に製造・販売できればユーザーは間違いなく支持してくれるはずだ。フォードの苦境を覆し、ライバルとの販売競争に打ち勝つ切り札には、V8以外の選択肢はあり得ない」

このような当時としては途方もない発想から彼はモデルAの改良型にV8エンジン搭載車の設定を決断する。

その結果、1932年に誕生したのがフォード「モデルB」 (正確には直4搭載車をモデルB、V8搭載車はモデル18の名称が与えられているが、今日では一般的に両車をひとまとめにしてモデルBと呼称することが多い)であった。のちに「DEUCE (デュース)」の愛称が付けられるこのクルマは、アメリカ車のマイルストーンとなったクルマであり、アメリカ車のスタンダードとしてV8を広く普及させる原動力となるのである。

シボレーらライバル車に対する切り札として1932年型フォード・モデルBには新開発の3.6L V型8気筒サイドバルブエンジンが搭載された。その高性能から大衆の人気を掴み、アメリカ人の“V8信仰”が生まれる契機となった。

アメ車といえばV8! アメリカンカスタムの源流は「HOTOROD[ホットロッド]」にあり! 『アメリカン・グラフィティ』のあのクルマ「DEUCE[デュース]」に注目!

アメリカのモーターカルチャーの中で重要な位置を占める「HOTROD(ホットロッド)」。しかし、日本のクルマ好きにとっては「巨大なV8エンジンを搭載したド派手なカスタムマシン」というような漠然としたイメージしか持っていなのではないだろうか? そこで今回はHOTRODの歴史を振り返り、その起源であり、アメリカ人のV8信仰を生み出した「DEUCE(デュース)」こと1932年型フォード・モデルBについて解説することにした。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…