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フィアットの資本で設立され、フランス第4位のメーカーに成長
フランス車といえばルノー、プジョー、シトロエン、DSの4ブランドを思い浮かべる人が多いだろう。しかし、世界初の蒸気自動車を発明し、近代的なFRレイアウトのガソリンエンジン車(システム・パナール)を世界に先駆けて世に送り出した「自動車発祥の国」であるフランスには、過去には様々なメーカーが存在した。合従連衡の末、それらのメーカーの多くは廃業するか、現存するメーカーへ吸収されて消えて行ったが、それらのメーカーには現在でも多くのファンを持つ個性的なメイクスも存在する。
アンリ・テオドル・ピゴッツィによって設立されたシムカもそんな今はなきフランスメーカーのひとつだ。社名の由来はフランス語で「自動車車両車体工業会社」を意味するSociété Industrielle de Mécanique et Carrosserie Automobileの頭文字を取って名付けられた。
このメーカーのユニークなところは隣国・イタリアのフィアットと深いつながりを持つことにある。元々創業者のピゴッツィはトリノ生まれのイタリア人で、彼はフィアットのためにフランスから鋼鉄を輸入する貿易会社を営んでいた。
そんな縁から1926年にフランスにおけるフィアットの販売権を得て、フィアット資本の完全子会社・SAFAF(Société Anonyme Française des Automobiles Fiat)を設立。カタチばかりの社長としてフランス人の元自転車選手エルネスト・ロスティを招き、実質的にはピゴッツィが経営を担った。しかし、当時は2国間の間で貿易協定は存在せず、イタリアからの完成車輸入には高額な関税がかけられていたためSAFAFの事業はあまり振るわなかった。
ところが、これには抜け道があり、イタリアからパーツを輸入し、組立をフランス国内で行えば関税を回避することができたのである。そのことに気づいたピゴッツィは、フィアットからの資金援助を受けてパリ郊外のシュレーヌに工場を建設。1934年に社名をシムカに改めて、フィアットの小型大衆車・フィアット508バリッラのノックダウン生産を始めたのだ。
第二次世界大戦中はドイツ占領軍の庇護下で戦争の影響を最小限にとどめる
しかし、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、政府の命令により民間向けの乗用車生産は凍結を余儀なくされる。さらに1941年の独仏戦でフランスが降伏し、進駐してきたドイツ軍はフランス企業への戦争協力を命じた。これによりシトロエンやルノー、プジョーは乗用車の生産が引き続き禁止されたが、イタリア資本のシムカだけには、ドイツ軍向け車両の生産の側で民間向け乗用車の生産が許され、フランス国内の市場を独占した。
ただし、1942年のスターリングラード攻防戦、1943年の北アフリカ戦線とクルスクの戦いにドイツ軍が相次いで敗北し、戦局が枢軸国不利に傾くとシムカへの優遇政策は撤回され、以後は終戦までドイツ軍向け車両の生産と修理が主な業務となった。
なお、占領軍の庇護下にあったシムカは自動車生産の合理化のため、高級車メーカーのドライエ・ドラージュ、トラックメーカーのウニックとベルナール、老舗商用車メーカーのラフリーとの間で企業統合が行われ、新たに設立されたジェネラル・フランセーズ・オートモービルの一員となる。この企業連合体は戦後も「ポンス計画」(政府の指導のもとで生産カテゴリーごとに自動車メーカーをグループ分けして生産を分担するというもので、廃案となった日本の特進法に近い政策)のもとで戦後もある程度維持されたが、大手自動車メーカーであるシトロエンとルノーの不参加や各メーカーの反発もあり、次第に形骸化して行ったようだ。
1950~1960年代に黄金期を迎えるが
クライスラーの敵対的買収のターゲットに
第二次世界大戦終結後、戦災による被害をまったく受けなかったシムカは、1946年には早くも戦前型乗用車の生産を開始する。戦後もフィアットとの関係も変わりはなかったが、1951年には同社初の独自設計モデル(エンジンのみフィアット製)のアロンドを発表。このクルマがヒットしたことにより、好調に乗ってウニックと農業機械メーカーのソメカ、フォードのフランス拠点だったフォード・フランスを買収(フォードが所有していたポワシー工場も入手)する。続けて1956年には商用車メーカーのザウラー・フランス、1959年には高級車メーカーのタルボを傘下に収めた。
しかし、この買収劇が好調だったシムカの足元を掬うことになる。フォード本社がフランス・フォードを手放した際に株式交換で手にした15%のシムカ株は、ヨーロッパ進出を目論むクライスラーに売却されてしまったのだ。
その後、水面下でシムカの買収を目論むクライスラーは1960年までに水面下でシムカ株を買い漁り、その比率は25%にも達したのである。「親方フィアット」とすっかり安心しきっていたピゴッツィらシムカ首脳陣は、そのことにまったく気づかなかったという。
1962年にイタリアの自動車輸入が自由化されると同国の市場をほぼ独占していたフィアットの経営は急速に悪化。その一方でさらなる増資を要求する子会社であるシムカの存在は、フィアットにとって重荷に感じられるようになる。そして、ついにフィアットは経営立て直しのためにシムカ株を放出を始めたのだ。
このタイミングを虎視淡々と狙っていたクライスラーは敵対的買収に動く。1963年には新聞広告に「時価の25%増しでシムカ株を買い取る」との広告を出した。これに驚いたシムカは買収対策に乗り出すもときすでに遅く、この時点でクライスラーは64%の株式を握っていた。経営の実権をクライスラーに奪われたピゴッツィはここに退任を決意し、1964年に失意の中で心臓発作により亡くなった。
その結果、1969年に発表されたシムカ1100がフィアット系最後の乗用車となる。そして、1970年に同じくクライスラー傘下となった英国ルーツ・グループがクライスラーUKに社名を変更されたタイミングに合わせて、シムカもクライスラー・フランスに改名された。その後はクライスラーが手掛けたフランス向けの欧州戦略車にシムカの名が残されたものの、それも1979年にデビューしたオリゾンが最後となった。
強引な手法でシムカを手にしたクライスラーであったが、1970年代に入ると急激なグローバル戦略が裏目に出て失速。石油ショックの影響で北米事業が傾むいたこともあり、1978年8月にクライスラー・フランスはPSAグループ(プジョー)に売却された。
新たに同社の経営権を入手したPSAグループは、買収からわずか1年足らずでシムカを廃止し、代わり往年の高級車メーカーであったタルボ・ブランドの復活を決定する。これを受けて生産中だった1307/1308やオリゾンは順次タルボへと改名され、ここに半世紀近く続いたシムカはその歴史にピリオドを打ったのである。
純フランスメーカーとは一線を画するシムカの代表的モデル・シムカ1000
個性派揃いのフランス車の中にあってフィアットの影響下にあったシムカのクルマ作りは、良く言えば質実剛健、悪く言えばフランス車らしい個性にやや欠けると言ったところか(あくまでも他のメーカーに比べての話であるが)。
だが、フィアットの流れを組むこともあって、フランス車の中でもスポーティさにおいては屈指のものを持っていた。1950年代にはゴルディーニと組んでF1に参戦していたほか、国際ラリー選手権にも精力的に参戦していた。また、本家フィアットと同じくアバルトとのジョイントによるホットモデルも数多く手掛けている。
そんなシムカを代表する1台が1961~1978年まで生産された1000だ。このクルマは1964年に登場するフィアット850の先行量産車的な役割を与えられたRRレイアウトの小型乗用車で、フィアット600の設計を参考にしつつも、シムカが独自設計した4ドアセダンボディに新開発の944cc空冷直列4気筒OHVエンジンを搭載していた。
ボクシーでシンプルなスタイリングは実用性を重視した結果であり、ボディサイズの割にインテリアは広く、ソファのように柔らかなシートの座り心地も良かった。燃料タンクを後方のエンジンルームに配置したことでラゲッジルームは同クラスでもトップレベルの容積を誇っていた。さらにリアシートの座面を倒せば追加のラゲッジスペースとして用いることもできた。
足まわりはフィアット600のものを流用しており、フロントがウィッシュボーン+横置半楕円リーフスプリング、リヤがセミトレーリングアーム+コイルスプリングの独立懸架式を採用しており、フランスの荒れた舗装でも優れたロードホールディング性能を実現していた。
RRレイアウトのため前後重量配分は35:65とリヤヘビーなことからハンドリングはオーバーステア傾向にあったが、車両特性を理解していれば縦横無尽に操ることができた。実際、優れたファミリーカーとして人気を博しただけでなく、ラリーなどのモータースポーツでも活躍し、モデルライフ後半には手頃なスポーティカーとして若者から支持を集めたという。
貴重なクーペのハイパフォーマンスモデルがエントリー
シムカ1000から派生したスタイリッシュなクーペが『さいたまイタフラミーティング2023』にエントリーしていた。そのクルマの名は1200S。1962年に発表された1000Sから発展し、1967年に誕生した2+2クーペである。
スタイリングは当時ベルトーネに在籍していたジョルジエット・ジウジアーロが担当。彼の初期作品らしい空気の流れを柔らかく受け流すかのような曲面主体の美しいスタイリングにまとめられているが、同時代のアルファロメオ・ジュリアクーペのような大人4人が収まるのに必要な充分なスペースはなく、後部座席は非常用もしくはラゲッジスペースと完全に割り切られてデザインされている。
メカニズムはベース車のものをほぼ流用しているが、ピゴッツィに代わってシムカの社長となったジョルジュ・エレイユの意向により、1301に搭載されていた1294cc水冷直列4気筒OHVエンジンに換装され、高性能化を狙ってツインキャブレター仕様となった。この改良によりフロントエンドにはラジエターが追加され、フロントグリルとボンネット上のルーバーを新設。1000Sのシンプルさは失われたが、男性が好みそうなスポーティと力強さを持つアピアランスとなった。
こうした改良により1200Sは30ps増しの82ps(1968年以降は84ps)に達し、最高速度は170km/h(同179km/h)となった。エンジンの重量増加に伴い前後重量配分はさらにリアヘビーとなり、ブレーキ性能の低さと相まって、乗りこなすには相応の腕が必要なクルマではあったが。
筆者は過去にセダンの1000は何度となく見かける機会があったが、クーペボディの1200Sを実際に見たのは今回が初めてだった。こうした貴重なマシンに出会えるのも『さいたまイタフラミーティング』の魅力のひとつなのだろう。