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■2輪の世界GP制覇に続いてF1最強を目指し初挑戦
1964(昭和39)年8月2日、ホンダのF1マシン「RA271」が西ドイツグランプリで記念すべきデビューを飾った。ホンダは、1961年2輪の最高峰マン島TTレースで世界GP制覇を果たし、次の目標としてF1優勝を掲げ、この日念願のデビューを果たした。
2輪トップメーカーとなったホンダの次なる目標はF1優勝
1948年に本田宗一郎氏によって創立された「本田技研工業」は、自転車補助エンジンの製造に始まり、直後から本格的な2輪車製造に着手。「ドリームD型号(1949年~)」、「カブF型(1952年~)」、「スーパーカブ(1958年~)」などのヒットで実績を上げて、2輪車トップメーカーの階段を上り始めた。
これで自信をつけた本田宗一郎氏は、かねてからの念願でもあった2輪車の国際レースの参戦を決断。1959年に世界GPの最高峰マン島TTレースに参戦して上位入賞を果たし、1961年についに優勝を飾った。これが、ホンダのモータースポーツ活動の原点であり、同時に2輪車で“世界のホンダ”へと飛躍した瞬間でもあった。
この2輪車の成功を基盤にして、ホンダは1963年に軽トラック「T360」、スポーツカー「S500」を発売して、4輪車事業へ参入。そして、1964年1月ついにF1参戦を発表した。
2輪車の技術が存分に生かされたF1マシンRA271
ホンダが本格的にF1プロジェクトに着手したのは1963年、本田宗一郎氏自ら開発の陣頭に立ち、F1用エンジンの開発が進められた。
当初ホンダは、エンジンサプライヤーとしてのF1参戦を計画していた。コーリン・チャップマン率いるロータス・チームへ、RA270Eエンジンを供給することがほぼ決定したのだが、デビュー直前にロータス側の一方的な事情で突然エンジンサプライヤーとしての参戦がご破算になってしまった。
それでもホンダは諦めることなく、マシンも自前で設計するフルコンストラクターとして参戦することを決断し、F1デビューに向けて開発を急ピッチで行った。
完成したホンダオリジナルのRA271マシンは、シャシーに当時としては先進的なアルミ合金モノコックボディとストレスマウント方式で構成。ストレスマウントとは、エンジンをシャシー構造の一部とする方式で、パイプフレームもしくはモノコックの中にエンジンを収めるのが一般的であった時代に画期的なレイアウトだった。
注目のエンジンは、ユニークな横置きの1.5L(F1規格)ながらV12気筒としたNA(無過給)エンジンで、最高出力は220ps超を発揮。排気量が1気筒あたり125ccの小さなボアの4バルブエンジンは、構造上困難というのが常識だったが、バイクエンジンで実績があるホンダは、難なく採用できた。
ついにF1デビュー、翌年に悲願のF1初優勝
1964年のこの日、ホンダの技術の粋を結集したRA271マシンが、ニュルブルクリンク(北コース)で開催された西ドイツグランプリで記念すべきデビューを飾った。ドライバーは、米国人のロニー・バックナム選手、最後尾スタートから9位まで浮上するものの、12周目にクラッシュしてリタイア。しかし、レギュレーションにより完走扱いとなり、デビューレースは13位と記録された。この年の残り2戦も良い成績は残せなかったが、ホンダの開発陣は手ごたえを感じていた。
RA271で優勝を飾ることはできなかったが、その後高速型カウリングの採用やキャブレターから燃料噴射式への変更、オイルクーラーの追加などでブラッシュアップした「RA272」マシンを開発して、2シーズン目にチャレンジした。
そして2シーズン目の翌1965年、ドライバーにはベテランの米国人リッチー・ギンサー選手が加わり、バックナム選手との2名体制でレースに挑戦。歓喜の時は、予想外に早くその年の最終戦メキシコ・グランプリでやって来た。ギンサー選手がスタートからトップに躍り出て、その座を一度も譲ることなく、完全優勝を飾ったのだ。
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創業者の本田宗一郎氏は、F1挑戦を「走る実験室」と呼んでいた。モータースポーツで活躍することはメーカーの技術力をアピールすることになるが、一方で、レースで培った様々な技術やノウハウを市販車にフィードバックするための“実験”と位置付けていたのだ。
毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかもしれない。