現代のSUVブームの源流は三菱・ジープJ3の完全国産化にある?【映画の中のクロカン四駆たち】

人々を魅了するエンターテイメントの王道である映画、感動のストーリーもさることならば、クルマ好きは劇中に登場するクルマにも目が行ってしまうに違いないだろう。そんな劇中の車を紹介してく当企画「映画の中のクロカン四駆たち」では、クロカン四駆にフォーカスしてご紹介していこう。第4回目は「三菱 Jeep J3 + 憎いあンちくしょう(日活1962年)」だ。

TEXT:山崎友貴(YAMAZAKI Tomotaka) PHOTO:山崎友貴、三菱自動車、日活

20世紀を大きく変えた“Jeep”というクルマ

戦後日本の自動車産業の復活、そしてモータリゼイションの足がかりは「ジープ」にあったといいのではないだろうか。ジープ、ここでは敢えて“Jeep”と表記するが、このクルマは20世紀を大きく変えた自動車だった。

Jeepは周知の通り、本来は軍用であり、第二次世界大戦を通して世界中に広がっていった。バンタム社が造ったこの小さな四輪駆動車は、大量生産をするためにウイリスオーバーランド社とフォード社にも設計図が公開され、結果的にバンタム製は「40BRC」、ウイリスモデルを「MA」、フォード社製は「GP」といった。

三菱・ジープJ3

だが、最終トライアルで残ったのは、なんとバンタムではなく、ウイリスとフォードだった。そして基本構造はウイリス、フロントマスクのデザイン(特にヘッドライトの意匠処理)はフォードのものが採用され、ウイリス「MB」とフォード「GPW」に昇華した。フォードは実質的にはトライアルで不採用となったのだが、その生産能力の高さゆえにGPWといういわば“OEM”モデルを造ったのである。

ちなみにバンタム社の40BRCもしっかり戦場に出ており、特に太平洋戦線に投入された。これを南方で鹵獲した日本陸軍が大層気に入り、これを模倣した試作車「AK10型」をトヨタに造らせた。トヨタは戦後、警察予備隊(現陸上自衛隊)の制式車両向けに「トヨタジープBJ型」を造ったが、いゆわるランドクルーザーの源流であるこのクルマの原点は、バンタムJeepにあったと言えるかもしれない。

三菱のJ3は完全国産化したJeep

さて、敗戦後の日本を象徴する存在となったのは、進駐軍のJeepだった。アメリカ兵、いゆわる“ヤンキー”が乗ったJeepに菓子を求めて群がる子どもたち…というイメージは、戦後を描いた映画やドラマでお馴染みだ。多くの日本人はこの高性能な小型車を見て、日本が戦争に勝てなかった理由を理解したなんてエピソードもある。

ちなみに、多く人が知っているJeepの顔のデザインは前述の通り、フォードの意匠だった。しかし、フォードが戦後に小型四輪駆動車の生産から撤退したため、ウイリス社がちゃっかり意匠登録してしまったという話である。いずれにせよ、現代のステランティスグループが生産する「Jeepラングラー JL」シリーズに至るまで、Jeepと言えばこの顔になったわけである。

さて、戦後の日本はアメリカにとって重要な意味を持つ場所となった。防共のための最前線拠点である。しかし焦土化した日本にはいかんせん、物資も生産能力もない。そこでアメリカは日本への武器供与を認めただけなく、日本工業の再生の道筋を考えた。この代表的な工業製品が、Jeepだったのである。

三菱・ジープJ3

当時のアメリカでは、民生用Jeepである「CJ型」が登場したばかりで、これを戦勝国のみならず日本にも販売したいという思惑があった。さらに朝鮮戦争の補給基地となる日本において、ジープを安価に生産、入手したかったことから、中日本工業(三菱重工業)にノックダウン生産をさせて、倉敷フレーザーモータースに販売させるというラインを実現させたのである。

かくして、日本製Jeep「J1」が誕生したわけだが、これは「CJ3A」というアメリカのモデルだった。J1は林野庁に納入され、後には保安隊(警察予備隊の前身)向けのモデル「J2」も生産された。

その後、ハリケーンエンジンが搭載された「CJ3B」がアメリカで登場すると、日本でもモデルチェンジ。これが1956年に登場した、いわゆる「J3」である。J1/2とJ3の簡単な見分け方は、ボンネットの高さだ。グリルからボンネットまでの隙間が多いのがJ3。そしてJ3の方が、フロントパネルが四角い。

J3は完全国産化したJeepであり、三菱Jeepの歴史は実質的にここから始まったと言っていい。2001年3月にライセンス切れから販売が終了するまで、何度もモデルチェンジとバリエーション追加を繰り返し、官民において日本の高度成長を支えた。今は好事家の元でわずかな台数が現存するのみとなっているが、Jeepラングラーの販売台数が世界2番目に多いという日本の土壌を築いたのは、三菱Jeepの存在があったからなのではないだろうか。

石原裕次郎のジープをテーマにした映画

そんなJ3がイヤというほど登場するのが、石原裕次郎、浅丘ルリ子主演のロードムービー「憎いあンちくしょう」だ。ストーリーは、石原裕次郎演じる主人公が僻地医療に使うためのJ3を、東京から九州まで届けるという話だ。一見すると美しい話のようにも聞こえるが、実はそれにはいろいろなウラがある。

映画「憎いあンちくしょう」 画像:日活

ちなみに作品中では“ボロボロのジープ”という設定になっているが、J3の登場年が‘56年、映画の公開が’62年なので、いくら酷使してもそこまでボロくなるとは思えない。本当はJ1あたりを使いたかったのが、もしかすると車両が手に入らず、仕方がなくJ3を使ったのかもしれない。

劇中車は左ハンドルだが、「J3R」という右ハンドル仕様車もあった。これは想像だが、左側通行である日本での撮影(カメラ位置)を考えて、敢えて左ハンドルを使っているのかもしれない。その証拠に、裕次郎本来の愛車という設定の「ジャガーXK120」もオープンカーで左ハンドル。まあXK120に関していえば、むしろ右ハンドルを見つける方が困難かもしれないが。

映画「憎いあンちくしょう」 画像:日活

話を戻すが、J3はわざとボロく見せるためか、幌は外され、しかもリアゲートも取り払われている。当時の日本であれば、どちらも容易に中古パーツが手に入ったはずだ。おかげで裕次郎は埃と雨にまみれることになり、それがまたワイルドな裕次郎を演出していると言える。

ウインカーはまだ「アポロ式」が付いているのが、これを知っている人は現代には少ないと思う。黎明期の自動車にはウインカーというものが無かった。だが、走行する台数が増えてくると、他車に右左折の意思を示さなければいけない。そこで手信号を使うようになるのだが、これも分かりづらかったり見にくかったりする場合がある。そこで考えられたのが「矢羽根式方向指示器」だ。

アメリカで考えられた装置で、それを日本のアポロ工業がライセンス生産したことから、アポロ式などと呼ばれるようになった。

この装置はレバーを曲がる方向に倒すと、電気信号が流れてピラーに付いた装置から棒が立ち上がる。それだけ。後期型では電灯の点滅も併用となるが、1973年までは日本の道交法でもこれが認められていた。そんな装置も、劇中で楽しんでいただきたい。

映画は大した内容でもないが、J3をずっと観られるのは楽しい。ファンはこの頃のJeepを、そのトレッドの狭さゆえに「ナロージープ」と呼ぶのだが、これがまた何ともキュートなスタイルでいいのだ。グリル上に刻印された「WILLIS」の文字も、まさにJ3ならではと言える。

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著者プロフィール

山崎友貴 近影

山崎友貴

SUV生活研究家、フリーエディター。スキー専門誌、四輪駆動車誌編集部を経て独立し、多ジャンルの雑誌・書…