戦前日本最大の航空機メーカー「中島飛行機」創設者・中島知久平の私邸にスバルのルーツを見た!【マリオ高野がゆく”スバルの聖地”太田紀行 vol.1】

モータージャーナリスト随一の「スバルオタク」として知られるマリオ高野さんは、なんとスバル愛が高じてスバルのお膝元である群馬県太田市に引っ越し! スバル×群馬ライフを満喫している。そんなマリオ高野さんが太田市&群馬県のスバルの聖地を巡る! その始まりは、やはりスバルの始まりにまつわる「旧中島家住宅」だ。
PHOTO/REPORT:マリオ高野(MARIO Takano)

SUBARUの城下町といえる群馬県太田市に転居したライター、マリオ高野です。
太田市にはSUBARU車の国内生産拠点があり、関連サプライヤー企業も多いため、まさにSUBARUのお膝元であることが常に実感できる日々を過ごしています。スバリストとして、筆舌に尽くし難いシアワセに浸れる毎日といえるでしょう。
そんな私が、太田市のSUBARUにゆかりのあるスポットを紹介していきます。
まず第一弾として、SUBARUのルーツといえる前身企業、中島飛行機のスゴさに圧倒される聖地中の聖地「旧中島家住宅」を選びました。

中島家の家紋「下がり藤」をあしらった幟。

中島知久平と中島飛行機と旧中島家住宅

「旧中島家住宅」とは、中島飛行機の創設者である中島知久平さんがご両親のために建てた邸宅です。中島家のプライベートな私宅でありながら、東洋一の航空機メーカーである中島飛行機の迎賓館としても機能させるため、当時の最先端技術を駆使し、最高の素材を選りすぐって建てられました。
今観てもすべてが圧巻の極みにて、スバルファンならずとも、日本人なら感動せずにはいられません。豪華絢爛!という見方もできますが、決して成金趣味のようなものではなく、本物志向を極めた結果の豪華さ、贅沢さに崇高さを感じるのです。

プライベートスペースは伝統的な日本屋敷。

歴史を振り返ると、上棟したのは1930年。苦労をかけたご両親のための2階建ての住居は、伝統的な日本屋敷という雰囲気にて、江戸末期に生まれたご両親は、さぞかし寛げたことでしょう。

一方、中島飛行機の迎賓館としての機能を備えた応接用客室は、一言でいうと和洋折衷の作り。かつ当時としては最先端のハイテクを駆使したモダンな雰囲気にて、現代人が今観ても圧倒されるものがあります。戦後に接収したGHQが将校倶楽部として活用しますが、当時の米軍将校たちは、日本の文化レベルや技術力の高さに驚いたに違いありません。敷地内にダンスホールやテニスコートを増設したのは、この場所に根付こうと考えたからではないでしょうか。

応接室のテーブルと椅子は現代のものを使用していますが、当時モノはもっと重厚で、国会の総理大臣用のような椅子だったようです。

米軍から返還されてからは、中島知久平さんの妹あやさんらが入居するなど、住宅として使われ続けましたが、昭和と平成の中頃に何度か空き家となり、荒廃した時代もあったようです。

太田市と国の重要文化財に指定されるだけの造り

しかし、平成21年から太田市の所有となり、太田市重要文化財に指定。平成26年から「中島知久平地域交流センター」が開設されて一般公開が開始され、国の重要文化財指定も受けています。太田市のみならず、群馬県を代表する近代和風建築として広く知られるようになりました。

旧中島家住宅の外観模型
旧中島家住宅の外観模型

設計したのは、宮内技師として活躍した中里清五郎氏。施工技術者も当時の日本のトップクラスの棟梁が、全国各地から呼ばれたとのこと。
素材へのこだわりも凄まじく、格天井や柱などの材木には、節がまったくない最高級の檜のみを使用。車寄せの柱にも、四方柾という節のない材木を用い、蟇股という宮殿建築でしか使えない技法を用いて造られています。

堂々たる車寄せ。階段や柱の土台は白御影石。柱は四方柾で蟇股という宮殿建築でしか使えない技法で造られている。

全幅5mを超える階段にも、継ぎ目のない白御影石を採用。柱の土台の石は岡山から運び込み、職人たちがここで刻んで造りました。白御影石は茨城から運んだようです。
床も継ぎ目のない寄木造り。門の扉はケヤキの一枚板で、幹の幅が2m以上ないと取れない貴重な木材。今では復元できる技術者がおらず、材料も手に入らないものばかりだとか。

廊下の床張りは寄木造りになっている。
門(写真左)はケヤキの一枚板。写真右が車寄せだ。

さらに驚くことに、この邸宅はなんと昭和7年当時からオール電化!
大理石の暖炉は電気ヒーターで、中に水を入れて蒸気を出して加湿する機能も備えています。中島知久平さんは明治17年生まれながら、現代人と変わらない感覚だったことが想像できますね。もちろんシャンデリアも電気で灯されます。柱にはコンセントがあるし、ブレーカーも装備。

豪奢な暖炉は大理石製。火を焚くのではなく電熱式だ。
電熱ヒーターには加湿機能も備える先進性。
シーリングファンやシャンデリアも電気。
内装の装飾品、家具などは当時のものを修繕。立ち入り禁止になっている客間のペルシャ絨毯は当時ものだそうです。

室内のいたるところに中島家の家紋である「さがり藤」があしらわれているのも印象的です。建設費用は、当時のお金で約100万円。同じ時代の建築物と比べると、大阪城の復元天守閣の費用が約47万円だったようですから、中島家住宅の規格外っぷりは凄まじいばかりですね。

広大な敷地と日本庭園を入場無料で楽しめる

窓からは航空機の離発着が見えたという。
書院造の居間

部屋の窓からは、利根川の河川敷にあった滑走路で中島製の飛行機が離着陸する姿が見えるなど、航空機会社らしい演出にも凝っていました。
ご両親の居間からは、日本庭園の中庭と広大な前庭、滑走路など、この邸宅からの絶景がすべてが見えるように配置されており、ご両親への愛情の強さも伝わってきますね。パブリック的な部屋からは、日本庭園の中庭は見えないので、ご両親だけの特権といえるのです。

日本庭園はプライベートエリアからしか見えない造りに。

建物を外からみると、まさに武家屋敷の佇まい。ステンドグラスの採用により、外から室内の様子は見えないので、中に入ってから雰囲気が一変する洋式の世界観というギャップに、当時の客人たちは度肝を抜かされたことでしょう。

外観は武家屋敷のような佇まい。

ちなみにステンドグラスは、よく見ると1枚ずつ微妙にデザインが異なっています。カーテンがグリーンの部屋は、ガラスをオレンジ色に。ガラスがグリーンの部屋はカーテンがオレンジ色になっているなど、同じモノでも良さそうなところも嗜好を変えるこだわりが凄すぎます。

部屋ごとに異なるコーディネート
窓にはステンドグラスをあしらう。

庭の広さも圧巻。米軍将校がテニスコートを作りたくなった理由がわかる気がします。
庭のヌシという雰囲気の巨木、ヒマラヤ杉は昭和7年当時から植えられており、樹齢は100年近く。当時の庭には椎木も植えられ、食糧難になった時には非常食とする構想だったとか。戦国時代の城の発想ですが、利根川の河川敷側からみると、住宅ではなく城にしか見えません。

庭園に植えられた樹齢100年のヒマラヤ杉をはじめ、いろいろな樹木が植えられている。
広大な庭。
樹齢100年のヒマラヤ杉の堂々とした姿。

見学は無料ですし、常駐する職員さんの解説が聞けることもある(解説VTRも上映されます)ので、スバリストのみならず、是非多くの人に訪れてほしい悶絶スポットです。

■旧中島家住宅(太田市中島知久平邸地域交流センター)
所在地:群馬県太田市押切町1417
営業時間:09:00~17:00(入場は16:30まで)
休館日:月曜日(月曜休日の場合は翌日)・年末年始(12月29日~1月3日)
駐車場:40台

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