日米共同開発されたF-2戦闘機は、1987年に日本側メーカーの三菱重工が製造、納入が開始された。機体の源流は米ロッキード・マーチン(旧ジェネラル・ダイナミクス)社が製造したF-16戦闘機、これをベースに開発した戦闘機である。
この共同開発という体制は、日本の戦闘機開発に関してアメリカから横槍が入った結果だった。当時の防衛産業・自衛隊界隈では賛否をめぐって喧々諤々の議論が行なわれた。航空機、とくに戦闘機に関しては国産を目指し、防衛産業の発展と技術の向上・継承などを重視するという国産派の意見は納得できるものだったが、高信頼性の機体を基に改造開発することの合理性や信頼性などを推す意見もまた理解はできた。結果はいわゆる政治判断で共同開発が実行された。
日本側の新支援戦闘機国内開発計画(FS-X)での運用要求を満たす設計により、機体サイズはF-16よりも一回り以上大きくされた。ここでいう日本側の運用要求とは「対艦攻撃」である。対艦攻撃とは海上の艦艇などに対する航空機による空からの攻勢を指す。陸上目標を攻撃する対地航空攻撃と様相はおおむね同様だ。
要求する性能・仕様は次のとおり。空対艦ミサイルを4発搭載する、戦闘行動半径は450海里(約830km)とする、自衛用空対空ミサイルを2~4発搭載する、全天候作戦能力と高度な電子戦能力を持たせる、などの内容だった。
これらの性能要求を満たすにはF-16の小柄なボディでは足りなかった。そこで胴体長を49cm延長、主翼形状と素材を変更、ミサイル等兵装の懸架場所の増加、燃料搭載量増加、機首レドームの大型化、アクティブ・フェイズド・アレイ・レーダーや統合電子戦システムの搭載など、変更点は多岐に渡った。
たとえば、主翼は炭素繊維複合材料で作られており、その主翼と胴体をつなぐ接合部分の材料や取り付け技術には独自高度なものがあると、ある下請けメーカーのエンジニアは言う。外観は「大きなF-16」だが、中身は別物だというのだ。
完成したF-2初号機は1995年10月に初飛行し、翌96年に当時の防衛庁へ引き渡された。その後、飛行開発実験団(岐阜基地)での試験飛行中に少数の問題が発見され、試験期間の延長や現場部隊での使用承認が2000年に延期されるなどの変更があり、配備は遅れた。
当初F-2は計141機を調達予定だった。しかし機体の製造コスト調整が難航し、将来の拡張性も低いと指摘された。開発のみならず調達数を巡っても紆余曲折し、結果、単座型のA型が62機、複座型のB型が32機、合計94機前後が航空自衛隊に納入された。防空任務現場部隊や教育部隊に配備され運用されている。
2011年の東日本大震災では大打撃を受けた。宮城県松島基地の第21飛行隊に所属するF-2Bの18機が押し寄せた津波に飲み込まれた。海水に浸かり、漂流しながら機体同士や建物へ衝突し、多数が損傷した。被災直後はF-2の大多数が使用不能とみられたが、防衛省は修理を決める。一機あたり73億円をかけ、計13機の修理が施された。そのうちの1機目は2015年には現場飛行隊へ復帰している。
F-2のフライトを生で見ると軽快機敏な動きを高速で行なう印象を受ける。大パワーのエンジンを積み、強靭かつ柔軟な脚周りで固めたライトウェイトスポーツ車で山道を駆け上がるイメージだ。自由自在な運動性と強力な加速性を感じ取れる。優秀な運動性能は、大きく重い対艦ミサイルを射撃した後、身軽になっての自衛戦闘でより有利になることが予感される。なによりも大空を機敏に駆け上がる姿は、見ていて単純にかっこよく、壮快だ。
F-2は四周環海の地理特性を持つ日本領空・領海での航空戦闘を想定して開発され、主に敵艦艇の侵攻を防ぐ任務を担う。空対艦ミサイルの搭載・運用は、上空百数十km離れた位置から、敵艦に対し攻撃を仕掛けることを意味する。
F-2のオペレーションを想像してみるとこうだ。沖縄県石垣市登野城2492番地にある尖閣諸島・魚釣島の我が国領海へ敵艦艇等が意図を持って侵攻してきた場合、築城基地などから現場へ急行するF-2戦闘機はF-15J戦闘機などと行動を共にし、遠距離から空対艦ミサイルを発射。敵艦艇の侵攻を阻止し制圧する。こうした内容だ。だから空自のF-2部隊は、南西方面に対して睨みを効かせる航空基地への配置が厚くなっている。