スカイラインというモデルはそもそも日産自動車ではなくプリンス自動車工業から発売されていた。プリンスは立川飛行機の技術者たちにより第二次世界大戦後に創設された自動車メーカーで、発足当初は電気自動車を製造していたことから「たま電気自動車」を名乗るようになる。そこへ戦闘機を製造していた中島飛行機などが加わりガソリンエンジンを開発。1952年に皇太子明仁親王(現・上皇陛下)が立太子礼を行うことと合わせて、プリンスと命名された新規モデルを発売することとなる。
その後プリンス自動車工業、富士精密工業と社名を変えつつ1961年にプリンス自動車工業で落ち着くことになる。スカイラインは初代モデルが富士精密工業時代に発売されたが、2代目はプリンスへ社名変更した後の1963年に発売された。飛行機メーカーが母体なだけに先進的なメカニズムと高性能が持ち味だったプリンス各車。
それだけに1963年に開催された国内初の本格的な自動車レースである第1回日本グランプリには、プリンスからグロリアとスカイラインが鳴り物入りで参加。レース参加車に自動車メーカーが手を加えないとの紳士協定が交わされ、プリンスは市販状態のまま出走する。ところが他の国産車メーカーは公然の秘密とばかり参加車をチューニングしていたからプリンスは惨敗してしまう。
この結果に激怒した上層部から第2回グランプリには必勝体制で挑むことが課せられる。当時のスカイラインは1.5リッター直列4気筒エンジンを積むファミリーセダンだが、急遽グロリア用G7型2リッター直列6気筒SOHCエンジンを搭載する計画が立てられる。4気筒より長いエンジンを搭載するためフロントフェンダーを延長するといった荒療治が加われた結果、ホモロゲーションを取得できる100台を生産してスカイラインGTが誕生したのだ。
スカイラインGTが勝つことを誰しも疑わなかった。ところがレース直前にポルシェ904カレラGTSという、レース用に開発された車両が持ち込まれる。いかに6気筒エンジンをブチ込んだスカGとはいえ、レース用に作られたモデルとは比較にならない。ポルシェがリードするレース展開に失望していた観衆だが、あろうことか1度だけスカGがポルシェを抜いてトップに立つ。観衆からはヤンヤの歓声が上がり、レース後にスカGを売って欲しいと大勢の客が駆け込むことになった。
こうしてスカイラインが国産最強モデルでなければならないことが宿命づけられた。以後、スカイラインの6気筒モデルはスカイライン2000GT、1キャブレター仕様のスカイライン2000GT-A、3連キャブ仕様の2000GTはスカイライン2000GT-Bへ車名を変更することとなる。ちなみにその後の日本グランプリ・トップカテゴリーではポルシェとプリンスR380系モデルの激闘が交わされ、オイルショックによるグランプリ中止まで続くことになる。
歴史あるスカイラインGTをファンは「スカG」と呼んできたが、その元祖がプリンス時代のS54という型式を持つスカイライン2000GT。S54は国産車ファンにとり長年の憧れだが、その後に生まれたスカイラインGT-Rにより人気はGT-Rへ移ってしまう。だがヒストリー性を重視するならS54が極め付け的な存在であり、真紅のGT-Bを所有する齋藤富次雄さんにとってもスカGの元祖であることが重要なポイントだった。
齋藤さんはランボルギーニ・カウンタックLP500Sやロータス・ヨーロッパS1などの歴史的な名車を所有するマニア。同時に2輪の名車も複数所有されているほどで、古く歴史的なモデルに精通されている。そんな齋藤さんの知り合いがこのGT-Bを長年所有していた。その知人から「大切に乗ってもらえるなら」という条件付きで譲り受けることができたのだ。
ナンバープレートを見れば「茨5」というシングルナンバーが付いている。新車時から同じ地域を離れたことのない、履歴のしっかりした個体でもある。このGT-Bを撮影中、旧車マニアであり自らイベントにも参加されている方から「この54はずっと同じ地区にある由緒正しいクルマなんですよ」と語り掛けられるほど、素性の良いGT-Bなのだ。
それだけに齋藤さんの熱意も並大抵ではなく、マッハのステアリングやダットサコンペのフルバケットシートに変更してあるほかはノーマルを保っている。この時代のクルマ、特にプリンス時代のモデルを維持しようとするなら相応の知識とパーツが不可欠になる。S54スカイラインの専門店は国内に数えるほどしかない。苦労されることが多いのではと質問すれば「G7エンジンを3機持ってます」と即答。それくらいの情熱がなければ万全の状態を保つことは難しいことだろう。
これまでブレーキ回りや水回りのオーバーホールを済ませ、燃料系はタンクを作り直して燃料詰まりの原因を排除するなどメンテナンスされてきた。これからも良い状態のまま乗り続けられることだろう。