トヨタ2000GT、ボンドカーとトヨペットサービスセンターとの関わり【TOYOTA 2000GT物語 Vol.27】

TRD(トヨタ・レーシング・デベロップメント)のブランドで知られるトヨタテクノクラフトは、2018年にトヨタモデリスタインターナショナルとジェータックスと統合し、トヨタカスタマイジング&ディベロップメントとなった。トヨタのモータースポーツを支えてきたこの会社で“ボンドカー”TOYOTA 2000GTのオープンカーが製作された。
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市販されたTOYOTA 2000GTの主治医としても活躍

映画『007は二度死ぬ』の劇中に登場するナンバープレート「品川5 ま20-00」をとりつけて報道陣に公開されたTOYOTA 2000GTオープン。

下取り車の商品化事業を目的に設立

休日ともなると、大勢の買い物客でにぎわう横浜市港北区のショッピングモール「トレッサ横浜」。この商業施設にはトヨタ系ディーラー3社とダイハツディーラーが入っている。

この施設がトヨタグループの会社によって運営されていることを知っている人はいても、その広大な敷地の一部がかつてTOYOTA 2000GTのオープンモデル「ボンドカー」を製作した「トヨペットサービスセンター」の綱島工場だったと知る人は少ないだろう。トレッサ横浜北棟の奥には、トヨペットサービスセンターの現在の姿であるトヨタカスタマイジング&ディベロップメント本社がある。

トヨペットサービスセンターの前身である「トヨペット整備」は、1954年6月7日にトヨタ自販の神谷正太郎社長の発案で、東京トヨペットが下取りする車両の中古車再生を目的に東京・芝浦に設立された。

1950年代に入ると、戦後復興期を経て国産車の販売も急速に伸びたが、そのほとんどがハイヤーやタクシーの営業車だったため、ディーラーで下取りしてもそのまま再版が出来る状態ではなかった。そこで、エンジンのオーバーホールや外装の手直しをする中古車再生が必要とされたのだ。同時に新規事業として、再生車ベースの患者輸送車や現金輸送車などの特装車開発にも着手した。

1956年、国産車の生産が順調に伸び、中古車再生の需要が少なくなってきたのを機に、トヨペット整備の事業は、本業である整備とマイクロバスや特装車を生産するボディメーカーへと脱皮が図られた。

ボディ生産は順調で、事業拡大のため1961年には横浜の綱島工場が新設される。のちにこの工場内にトヨタ自販チームが拠点を構え、通称「綱島」と呼ばれるようになった。一方、本社のある芝浦工場では再生車事業を終了し、事故車の修理など、乗用車の重整備を業務とするようになる。

突貫工事で作ったと思われるフロントウインドウ上端の処理の他、ステアリングホイールのスポークにスリットがあるなど、市販車と異なる点が見て取れる。

綱島工場をショーン・コネリーが訪問

トヨペット整備とモータースポーツの関わりは、1957年の豪州1周ラリーに参加するクラウンの改造にさかのぼる。1959年にはFRPホディのオープン2シーターのスポーツカーを試作し、水戸街道で130km/hを記録したという。「テスト走行時に警察官に職務質問され、SS 1/4マイル加速テストを説明して交通整理をしてもらった」というほど、のどかな時代だった。

1960年代に無配るとトヨペット整備のモータースポーツ活動も本格化。1963年の第1回日本グランプリにはメカニックを派遣し、この頃からトヨタのモータースポーツを正式に委託されるようになった。トヨタでは、ちょうどトヨタ土工内部だけでなく小回りの利く社外のチューニングショップの育成を考えていた。その白羽の矢が立ったのがトヨペット整備だったのである。

1964年にそれまでのトヨペット整備からトヨペットサービスセンターに社名を変更。1965年には、モータースポーツ部門として特殊開発部(のちのTRD)を開設。また、日本グランプリを機に盛り上がった一般のモータースポーツユーザーの要望に応えるため、特殊開発部の一部として芝浦工場にスポーツコーナーが置かれた。

そのころ、トヨタ自工ではTOYOTA 2000GTの試作1号車が完成していた。日本初の本格GTであるTOYOTA 2000GTの開発には、トヨタ自工とヤマハ発動機だけでなく、日本電装(現・デンソー)をはじめとするトヨタグループ各社が協力。もちろん、トヨペットサービスセンターもその一翼を担っていた。1966年10月に行われた谷田部の自動車高速試験場におけるスピードトライアルには企画段階から特殊開発部が参加し、記録達成に貢献した。

1966年9月には、綱島工場にて映画『007は二度死ぬ』のために、TOYOTA 2000GTのオープンカーをほとんど連日の徹夜作業の末、2週間という短期間で造り上げた。デザインを担当したトヨタ自工デザイン部・東京デザイン室のスケッチを基に、縦方向と横方向の5分の1の線図を描いただけで、あとは「現物合わせ」という大胆な方法である。

トヨタの試作工場ではとうてい不可能な作業だったが、特装車の製造やモーターショーの出展作品を手掛けるトヨペットサービスセンター綱島工場の技術力がそれを克服した。純正色のペガサスホワイトに塗られた2台のオープンカーが撮影車と予備車として造られ、ボンド役のショーン・コネリーとボンドガール役の浜 美枝がそろって工場を訪問したと伝わっている。

グローブボックス内に仕込んだソニー製のテープレコーダーなど特別装備が見える。

1967年5月にTOYOTA 2000GTの市販が開始されてからは、トヨペットサービスセンターの整備部門が主治医としての役割を果たしていく。TOYOTA 2000GTのメカニズムを熟知したメカニックが整備を担当した。当時のオーナーの中には、まだスポーツカーというものを十分理解していない人も多く、低回転域から5速に入れて「加速が良くない」と訴える人もいたという。

現代のクルマのような電子制御燃料噴射装置ではなく、ソレックス・キャブレターを3連装した3M型エンジンの調整はベテラン・メカニックでも難儀したようだ。エンジン調整に要する時間は、一般的な乗用車の3倍近くかかったという。

それでもメカニックたちはオーナーの期待に応える整備をし、21世紀の現代にTOYOTA 2000GTを走らせることに少なからず貢献していた。トヨペットサービスセンターは陰からTOYOTA 2000GTの歴史を支える大切な存在だったのだ。(文中敬称略)

トヨタ2000GT、『007は二度死ぬ』ボンドカー製作秘話  【TOYOTA 2000GT物語 Vol.26】

スピードトライアルと共にTOYOTA 2000GT発売前に話題となったのが、ボンドカーとして起用されたこと。しかも、市販車にはないオープンボディの撮影車2台を突貫工事で製作したという。また、トヨタ博物館の収蔵車はハワイで発見されて日本に里帰りしたことなど、興味深い話が多い。 REPORT:COOLARTS

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