MOONEYES[ムーンアイズ]日本上陸! “目玉のマーク”を受け継ぐ男「シゲ菅沼」が世界に伝えるアメリカンカスタムカルチャーの祭典『Street Car Nationals』!!

横浜・本牧にあるMOONEYES AREA-1。(PHOTO:りな)
レーサーであり、エンジニアであり、優秀なビジネスマンであったディーン・ムーン氏は、アメリカン・カスタムカルチャー史の中で燦然と輝く「MOONEYES(ムーンアイズ)」を一代で築き上げた。1980年代、そんなムーン氏のもとに日本からひとりの若者が訪ねて来た。彼の名前は“シゲ菅沼”こと菅沼繁博氏。「MOON DISCS」が縁を取り持ち、アメリカン・カスタムカルチャーで結びついた血の繋がらない親子の関係。菅沼氏は「アメリカの父」亡きあと、後継者としてMOONEYESを守るために奮闘する。現代に続くMOONEYESの歴史を、5月14日に開催された『35th Anniversary MOONEYES Street Car Nationals®』のエントリー車両とともに紹介していこう。

「HOTROD」ブランドを一代で築き上げたディーン・ムーン氏

1940年代、高校時代に中古のオースチン・バンタムを購入し、当時の南カリフォルニアの若者の多くがそうであったようにスピードの魔力に取り憑かれ、スピードトライアルやドラッグレースにエントリーして活躍を見せたディーン・ムーン氏。氏はマルチキャブレターを装着したエンジンに燃圧を均等に分配するためアルミ製フューエルブロックを手作りし、それを父親が経営するカフェの片隅で販売。それがスピードフリークの目に止まったことから注文が殺到し、若くしてチューニングパーツのビジネスを始めることになった。

MOONEYES創業者のディーン ・ムーン氏(1927年生~1987年没)。晩年にシゲ菅沼氏と出会ったことが、MOONEYESをブランド消滅の危機から救うことになる。(PHOTO:MOONEYES)

第二次世界大戦と朝鮮戦争という2度の戦争に従軍してもなおクルマへの情熱が尽きなかったムーン氏は、1950年代初頭にレース活動と自動車ビジネスを本格的に始動し、1957年にサンタフェスプリングのサウスノーフォーク・ブールバード10820番地に土地を購入。チューニングパーツの製造・販売、HOTRODマシンの製作、モータースポーツ活動を行う「MOON EQUIPMENT COMPANY」を設立。

建築中のMOON EQUIPMENT COMPANYの社屋。(PHOTO:MOONEYES)

ゼッケン番号「00」にいたずら心で数字を目に見立てて瞳を描いた「アイボール」のレーシングマシンは、ドラッグコースやドライレイクで行われるスピードトライアルで無敵の活躍を見せた。その結果、ムーン氏はモータースポーツにおいても、スピードパーツビジネスにおいても、アメリカではその名を知らぬ者がいないほどの成功を収めた。

レース業界にもファッション性を! 目玉のマークで人気の「MOONEYES[ムーンアイズ]」がリードするアメリカンカスタムカルチャーの秘密に迫る!

5月14日(日曜日)にお台場・青海駐車場で開催された『35th Anniversary MOONEYES Street Car Nationals®』のリポートともに、同ショーの歴史と魅力をお届けした。しかし、MotorFan.jpではこれまであまりアメリカ車やアメリカン・カスタムカルチャーを紹介する機会が少なかったこともあり、「MOONEYES(ムーンアイズ)」の名前を聞いたことがあっても、どんなブランドなのか詳しく知らないという人も多いのではないかと思う。そこで今回はMOONEYESとその創業者であるディーン・ムーン氏について語っていこう。

1980年代初頭、初老に差し掛かったムーン氏のもとにひとりの日本人青年が訪ねてきた。彼の名はシゲ菅沼こと菅沼繁博氏。のちのMOON OF JAPANの代表にしてムーン氏のスピリットを今に受け継ぐ人物である。

心の中にカリフォルニアをもつ男
アメリカン・カスタムに情熱を燃やす“シゲ菅沼”

菅沼氏は1955年に横浜で生まれた。裕福な会社経営者の家庭に育った彼は、日本の高度経済成長期に少年時代を過ごす。当時の横浜は本牧にアメリカ海軍基地があり、敷地内には日本人から「米軍ハウス」と呼ばれた米軍関係者の住宅街「ベイサイドコート」などの施設が存在した。戦争からの復興がひと段落した時代とは言え、その頃の日本はまだまだ貧しく、「フェンスの向こうに広がる豊かなアメリカ」を当時の人々は羨望の眼差しで見つめていた。

シゲ菅沼こと菅沼繁博氏。1955年横浜生まれ。若い頃からアメリカ文化に親しみ、とくにアメリカのHOTRODカルチャーに強い憧れを抱く。MOONDISCSが縁となりムーン氏とクルマへの情熱で結びついた父子のような関係となり、会社員を経て横浜元町にMOON EQUIPMENT COMPANY日本代理店をオープンする。ムーン氏亡き後はアメリカのMOON EQUIPMENT COMPANYを買収。ブランドの危機を救った。(PHOTO:MOONEYES)

多感な時代をそんな横浜で過ごした菅沼氏は、アメリカに対する憧れを強く抱くようになる。当時のアメリカを象徴するものといえば、全長6m近くになるテールフィンを伸ばしたきらびやかなアメリカ車、ロックンロール、コカ・コーラやハンバーガーに代表される豊かな食生活、そして世界の流行をリードしていたファッションであった。
生粋のハマっ子としてアメリカの息吹を身近に感じていた少年期の菅沼氏の関心は、当然のようにそうしたアメリカ文化へと向けられ、ごく自然にそれらを吸収していった。

2023年の第35回『MOONEYES Street Car Nationals(SCN)』にエントリーしていた1959年型キャデラック・エルドラド。巨大なテールフィンはアメリカ車史上最大の大きさを誇る。少年期の菅沼氏は在日米軍人が持ち込んだこうしたクルマに憧れを抱いていたのだろう。(PHOTO:山崎 龍)

その中でも菅沼氏の興味の中心にあったのがクルマであり、アメリカのクルマ雑誌を通じて知ったHOTRODカルチャーであった。大学時代はアルバイトに励み、得られたバイト代はほとんど愛車とそのカスタムパーツに使っていたほど。1978年にカスタムパーツを買うためにアメリカ西海岸へ向かうと、その地で本場のカーレースを見て強い衝撃を受けたという。

そして、カリフォルニアに生活の基盤を置くことを即決して、南カルフォルニア大学へ留学を決めたのだった。そして、卒業後は帰国してウォルト・ディズニー・プロダクション・ジャパンに就職して東京ディズニーランドの起ち上げに携わる。しかし、心は常にカリフォルニアにあったという。

「MOON DISCS」によって繋がれたムーン氏と菅沼氏の縁

1932年型フォード・モデルB 5ウィンドウクーペのSTREET ROD。その足元に輝くホイールカバーこそ「MOON DISC」だ。(PHOTO:MOONEYES)

そんな菅沼氏がムーン氏の元を訪ねたのが1983年10月のこと。同年夫人と結婚した彼が新婚旅行の地に選んだのは、心の故郷であったカリフォルニアであった。そして、その際に当時日本では販売されていなかった「MOON DISCS(ムーンディスク)」を求めてサンタフェスプリングを訪れたのだ。

ダッジ ・マグナムのホイールに組み合わされたMOON DISCS。クラシカルなモデルばかりではなく新しい車両にもMOON DISCSはよく似合う。(PHOTO:MOONEYES)

当時、菅沼氏は真っ赤な1980年型トヨタ・ハイラックスを愛車にしていた。ハイラックスは背の高い4WDモデルが人気を集める中、彼はあえて2WDモデルを選び、ローダウンして南カリフォルニア流にカスタムして楽しんでいた。帰国後、さっそく愛車にMOON DISCSを取り付けてみると、足元がグッとクールに引き締まった。

菅沼氏は愛車のカスタムハイラックスを意気揚々と乗り回すが、クルマにさして興味のない人たちは「一円玉みたい」「ヘンな円盤」と笑った。だが、クルマ好きの仲間たちの反応は違った。「どこで売っているんだ?」「オレも欲しい!」と菅沼氏に詰め寄ってきたのだ。

菅沼氏が若き日に愛車としていた4代目トヨタ・ハイラックス 。4WDのイメージが強いが、2WDモデルもラインナップしていた。

そこで菅沼氏はカリフォルニアのMOON EQUIPMENT COMPANYに12ダースを追加オーダー。するとMOON DISCSを装着した仲間の友人へ、さらにそのまた友人へとオーダーがひっきりなしに舞い込むようになった。
こうした状況は代表のムーン氏の耳にも届き、ある日、菅沼氏の元へムーン氏から国産電話(当時の国際通話は大変高価だったにもかかわらず)が掛かってきた。そこから菅沼氏とムーン氏との交流が始まったのである。

国を超えカスタムカルチャーで結びついた父子

ひょんなことから始まったムーン氏との交流は菅沼氏にとって望外の喜びであったに違いない。だが、当時の彼はウォルト・ディズニー・プロダクション・ジャパンで働くサラリーマン。しかも、この時期は東京ディズニーランドが開園して間もない時期であった。
根っからのクルマ好きの菅沼氏は迷う。「もともと趣味の延長で始めたMOONEYES製品の輸入代行業だったが、このままサラリーマンの片手間仕事でやって行って良いのだろうか?」。のちに菅沼氏はインタビューの中で「当時はクルマ屋という商売にあまり興味を持っていなかったんですよ。だから自分でも迷っていたんですね」と当時の心情を語っている。

MOONEYES AREA-1の店舗裏側。ガレージには魅力的なMOONのカスタム車両が展示されており、休日ともなると駐車場は来場者の自慢のカスタムマシンで賑わう。(PHOTO:りな)。

結果を先に言ってしまうと、菅沼氏は1986年にMOON EQUIPMENT COMPANY日本代理店として横浜元町に小さなショップをオープンする。
店を開くに至っては、ムーン氏との間で何度も商取引を行い、日本でMOON EQUIPMENT COMPANY製のパーツを積極的に販売したことに加えて、忙しいサラリーマン生活の中で時間を見つけては渡米してムーン氏と親交を温めた。

菅沼氏はムーン氏と会うたびにその人柄に引き込まれて行き、ムーン氏もまたクルマへの情熱に溢れる日本人の若者を大変気に入ったことから、「お前はMOON OF JAPANだ」と独立開業を勧めてきたのである。ふたりの関係はいつしか商取引相手という枠を超え、菅沼氏はムーン氏を「アメリカの父」と呼ぶようになり、ムーン氏も菅沼氏を実子同然に暖かく接したという。

MOONEYES AREA-1の正面には同社が保有するコレクションが並ぶ。(PHOTO:りな)

しかし、本来ならショップのオープン前に勤めていた会社を辞める予定だったのだが、残務整理が長引き、半年間は平日はサラリーマン、週末は店舗経営という二足の草鞋生活が続いた。その間、菅沼氏を支え、平日の店舗を守ったのは菅沼氏の夫人だった。

開業直後に「アメリカの父」を失った菅沼氏
悲しみの中でムーン氏の意思を継ぐべく奔走

順風満帆な門出を迎えたかに思われたMOON OF JAPANだったが、ショップのオープンから1年後の1987年6月に菅沼氏に不幸が訪れる。「アメリカの父」と慕うムーン氏が亡くなったのだ。ムーン氏は長年病気を患っており、その年の3月に大井競馬場で開催された第1回『MOONEYES Street Car Nationals』(以下、SCN)へのゲスト招聘も断念せざるを得ない状況ではあったが(このイベントには代理として夫人のシャリー・ムーン氏が招かれた)、あまりにも突然の不幸だった。

毎年春から初夏にかけて開催される『Anniversary MOONEYES Street Car Nationals®』。アジア最大のカスタムカーショーは今年も大盛況のうちに終了し、エントリー台数1000台以上、来場者は1万8000人以上を数えた。(PHOTO:山崎 龍)

悲しみに打ちひしがれる菅沼氏。だが、ショップのオープン直後、日本初のカスタムカーショーの第1回SCNを成功させたばかりということもあり、悲しんでばかりはいられない。ムーン氏が築き上げたMOONEYESのブランド、そしてアメリカン・カスタムカルチャーを日本に根付かせるためには、やることがまだまだ山積していた。菅沼氏は傷心を紛らわせるように仕事に打ち込んだという。

『SCN2023』にエントリーしていた1970年型ダッジ ・チャレンジャー。アメリカン・マッスルカーの最高傑作のうちの1台。(PHOTO:山崎 龍)

それから3年後、再び菅沼氏の元へ凶報が舞い込んできた。亡き夫からビジネスを引き継いだ夫人のシャーリー氏が他界したのだ。しかも、不幸はそれだけではなかった。後継者不在となったMOON EQUIPMENT COMPANYが売りに出されるというのだ。その情報が報じられると、複数のアメリカ企業が買い手として名乗りを上げた。だが、彼らの欲しかったものは、あくまでもMOONEYESのブランドだけであり、事業継続の意思は持っていなかった。

同じくエントリー車の1974年型ダッジ ・モナコ。映画『ブルース・ブラザース』のブルースモビル仕様にカスタムされている。(PHOTO:山崎 龍)

1991年にショップを元町から本牧のMOONEYES AREA-1へと移転し、併設するMOON CAFEをオープンさせたばかりというタイミングであったが、「アイボール」だけでなくショップも建物も、ディーン・ムーン氏が残したものすべてを残しておきたかった菅沼氏は、MOON EQUIPMENT COMPANYの事業を引き継ぐべく買収を決断したのであった。

こちらのエントリー車両は1968年型ビュイック・リヴィエラ。リヴィエラとしては2世代目にあたるモデルで、格納型のヘッドランプを備えた高級パーソナルクーペとなる。(PHOTO:山崎 龍)

だが、菅沼氏がMOON EQUIPMENT COMPANY (買収後はMOONEYES USAと社名を変更)を買収をした1992年は、折り悪くバブル景気の直後であった。三菱地所によるロックフェラー・センターの買収に代表される「強いジャパンマネー」を背景とした成金的な海外資産の買い漁りが問題視された時期でもあり、菅沼氏の買収がアメリカで報じられると「また日本人が札束にモノを言わせてアメリカの魂を奪い去った!」と嫌悪感を示すアメリカ人も少なくはなかったという。

1935年型シボレー ・マスター。ローダウンしたうえでバイザーやリアフェンダーのスパッツを装着。「ボム」スタイルでまとめられたローライダーだ 。(PHOTO:山崎 龍)

菅沼氏をはじめとするMOON OF JAPANのスタッフたちによる「金儲けのために事業を買収したのではない。カリフォルニアには“澄みきった青空”と“パームツリー”、そして“HOTROD”がなくてはならない」という真摯な気持ちがアメリカの人々にも理解されるようになり、誤解は次第に解けていった。

月を継ぐもの
ムーン氏から菅沼氏へ、そして未来の若者たちへ

『SCN』はアメ車ばかりでなく国産車のエントリーも盛んだ。珍しい初代日産プレジデントをベースにバランス良くローダウンし、足回りはスチールホイールにホワイトリボンタイヤを組み合わせている。(PHOTO:山崎 龍)

それから30年あまりが経過した現在でもMOONEYESのブランドは、日米のカスタムカルチャーをリードし続けている。
ムーン氏の意志を引き継ぎカスタムカルチャーの伝道師となった菅沼氏は、最近では東南アジアのタイやマレーシア、台湾で開かれるカーショーに精力的に通っており、現地での文化的な布教活動に勤しんでいる。

トヨタ・ライトエースをエアサスでローダウンし、ボイド製のビレットホイールを奢っている。ツボを抑えたセンスの良いカスタムで存在感を示した1台。手前のホンダ・モトコンポもファットなホイールとロー&ロングスタイルにカスタムされている。(PHOTO:山崎 龍)

以前、菅沼氏は某誌のインタビューで筆者に東南アジア出張の目的をこのように語ってくれた。

「東名アジア各国では20~40代の若い層を中心にカスタム・カルチャーが広がりを見せており、しっかりしたガイドをすれば大きく伸びる要素はあります。東南アジア出張の目的はビジネスではなく、彼らの手助けをするために行っているだけです」
三菱ランサーセレステの輸出仕様のプリマス・アロー。
USDMではなく左ハンドルのアメリカ仕様は希少だ。

菅沼氏の夢は留まることを知らない。かつての菅沼氏がそうであったように、やがては東南アジアからもアメリカン・カスタムカルチャーの担い手が現れてくるのだろう。そのときに彼は「アメリカの父」として敬愛するムーン氏の立場で、若者たちにHOTRODの魅力と楽しみ方を啓蒙して行くのだ。

B310型の日産サニーカリフォルニア。
鮮やかなイエローのボディにメッキの組み合わせが美しい。

「アイボール」に象徴されるMOONEYESのブランドは、クルマやバイクがその魅力を失わない限り、国や人種、言語を超えてこれからも大勢の人々を魅了し続けることだろう。ムーン氏や菅沼氏のカスタムカルチャーにかける熱い想いとスピリットとともに……。

『SCN2023』のアワード授賞式でプレゼンターを務める菅沼氏。第1回からSCNのオーガナイザーを務めている。(PHOTO:山崎 龍)

ヒストリックからアメリカンマッスル、国産旧車にネオクラまで、1000台のカスタムカーが集まる『MOONEYES Street Car Nationals』を知っているか!?

今回で35回目を数える『MOONEYES Street Car Nationals(SCN)』の歴史は、まさしく日本のカスタムカルチャーの歴史そのものだったと言っても過言ではないだろう。多くのファンに支えられてきたSCNは、エントリー台数1000台、来場者1万8千人以上を集めるアジア地域最大のカスタムカーイベントへと成長した。今回はそんなSCNの歴史と魅力を、会場に集まったカスタムカーと共に紹介して行くことにしよう。 PHOTO:山崎 龍

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…