目次
知っているようで知らないHOTRODの世界とそのはじまり
アメリカで生まれ、同国のモーターカルチャーを語る上で欠かすことができない存在が「HOTROD(ホットロッド)」だ。われわれ日本人がこの言葉を聞いて思い浮かべるイメージと言えば、大排気量のアメリカンV8エンジンを搭載したマシンに、人目を惹く大胆なカスタマイズを施し、ピカピカのクロームメッキとボディサイドに描かれたFLAMES(フレイムス=ファイアーパターン)でド派手に飾ったアメリカの傾奇者が乗るクルマ……そんなところだろう。
だが、これはHOTRODカルチャーの表層、ごく一部分しか見ていないことになる。日本でこの言葉は一般に広く知られていても、その歴史や真髄を知る人は意外に少ないのだ。
そもそもHOTRODの語源とは何か? じつのところよくわかっていない。有力な説としては、高度にチューニングを施した結果、エンジンのコンロッド(OHVエンジンのバルブ開閉に使われるプッシュロッドとする説もある)が焼けるように熱くなるからというものと、ベース車にロードスターが多く用いられることから「HOT ROADSTER」が転じたというものがある。ほかに「ROD」には英語のスラングで男性器を意味することからこれにかけたものとする説もある。
禁酒法により密造酒づくりが横行する時代
アメリカ社会が混乱する中でHOTRODは産声を上げる
このようにHOTRODの語源にはさまざまな説が存在するが、起源についてはハッキリとしている。
その始まりは禁酒法時代(1920~1933年)に遡る。「高貴な実験」と称して世論の支持を背景に成立した禁酒法であったが、飲酒と保持ではなく製造と輸送を禁止したザル法の上、抜け道としての入手方法はいくつかあり、酒の需要は些かの衰えも見せなかったことからギャングによる密輸や密造酒作りが横行した。
巨額な酒税を失った政府は弱体化し、警察による犯罪摘発の手が緩んだことから犯罪組織が勢力を伸ばし、各地で縄張りを巡ってギャング同士の抗争が激化、治安も悪化した。
また、このような社会状況に人々の遵法精神は低下し、神を敬い、質素・堅実さを重んじる建国以来のピューリタン(カルヴァン派の清教徒)的な価値観はこのときを境に失われ、プラグマティズム(功利主義)と拝金主義が広く社会を支配するようになる。すなわち、アメリカ社会のモラルハザードはこのときから始まったと言っても過言ではないだろう。
こうした社会の混乱の落とし子として生まれたのがHOTRODカルチャーであった。
禁酒法とクルマは一見すると結びつかないように思える。だが、密造酒を運ぶにはクルマが必要であり、運び屋のドライバーはカネになった……と聞けば理解が早いだろう。
運び屋は人里離れた森にある秘密の醸造所から「スピークイージー」や「ブラインドピッグ」と呼ばれた街の秘密酒場まで素早く密造酒を運ぶ必要があった。密造酒の輸送はれっきとした犯罪だ。当然のように警察や内国歳入庁も運び屋を取り締まるべく街道の端々で目を光らせている。
途中で官憲に見つかった場合は振り切って逃げなければ、運び屋を待っているものは高額な罰金と自由を奪われたムショでの生活だ。運び屋になるのはスピードフリークの走り屋が中心だった。彼らは自らの腕を磨く一方で、スピードアップのために有効と思われる様々な手段を駆使して愛車をチューンした。
アメリカ人の「V8」信仰の発端となった1932年型フォード・モデルB
禁酒法廃止の1年前、そんな彼らに心強い新型車がフォードから発表される。それが心臓部に3.6L V型8気筒サイドバルブエンジンを搭載した「モデルB」(正確には直列4気筒エンジン搭載車をモデルB、V型8気筒エンジン搭載車はモデル18の名称が与えられているが、今日では一般的に両車をひとまとめにしてモデルBと呼称することが多い)の登場だ。
これ以前にもV8エンジン搭載車は存在した。1909年の仏ド・ディオン・ブートンがその嚆矢であり、その5年後にはキャデラックが実用水準に達した市販車を製造・販売している。しかし、これらは庶民にはとても手が届かない高級車であった。
いっぽうでモデルBに搭載されたV8は、削り出しや鍛造に代えてダグタイル鋳鉄を用いたクランクシャフトを採用するなどしたことで、最高出力は従来の3.3L直列4気筒サイドバルブエンジンから41%増しの65hpを叩き出しながらも製造コストを低く抑えることに成功した。
比較的手に入れやすい価格のモデルBは瞬く間にスピードフリークたちから熱い支持を得て、アメリカにおけるV8エンジンの大衆化に大きく寄与した。こうした安価な高性能車の存在を運び屋たちが見逃すはずもなく、登場とともに彼らはこぞってモデルBへと乗り換えたのだ。
その結果、警察や内国歳入庁のモデルAやシボレーでは運び屋の追跡が難しくなり、取り締る側も急遽モデルBのパトカーを導入したのである。また、運び屋以外にもモデルBの高性能に惚れ込んだ裏社会の人間は多くおり、そのなかには映画『俺たちに明日はない』で有名なボニー&クライド(ボニー・パーカーとクライド・バロウのギャング団)もいた。アメリカ中西部で強盗や殺人を繰り返した彼らは、凶悪犯罪を犯しては逃走を繰り返したのだが、そのアシとして好んで盗んでいたのがモデルBだった。
そして、彼らがルイジアナ州の州道で待ち構えた警官によって射殺され、最期を迎えたのも1934年型モデルB 4ドアセダンの車内であった。言ってみれば、1930年代のアメリカでは、追うものも追われるものもフォードのV8大衆車を愛用するようになったのである。
アメリカンモータースポーツの発祥は運び屋たちの腕自慢から始まる
さて、密造酒の運び屋たちはもともと腕自慢のストリートレーサーということもあり、彼らの関心事は「仲間内で誰がいちばん速いか」というところにあった。昔も今も実力を示すにはレースしかない。彼らは仕事がオフのときは、自慢の改造車を持ち寄ってストリートレースに興じることが珍しくはなかった。
レースのスタイルは優勝劣敗ががわかりやすいドラッグレースに始まり、ドライレイク(乾湖)でのスピードトライアル、郊外の空き地を囲って即席のサーキットに仕立てた草レースなどであった。これらはやがて競技としてルール作りと組織化が行なわれ、「NHRA(National Hot Rod Association:全米ドラッグレース協会)」のドラッグレースや「NASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing:全米自動車競争協会)」と呼ばれるストックカーレースへと収斂していくのである。
1940年代以降になると、大量生産されたモデルBと、それに搭載されていた「アーリーフォードV8」は比較的安価に中古が手に入るようになったこともあり、新車を買えないクルマ好きの若年層が入手し、改造してストリートレースや週末の草レースに使用するようになる。
シンプルでコンパクト、おまけにチューニング次第で如何様にも化けるアーリーフォード製V8エンジンは人気が高く、モデルB以外にもモデルTやウィリス・クーペ、クロスレイ、アメリカン・バンタムなどの軽量な小型車に移植することで優れたパフォーマンスを発揮した。
やがて、V8エンジンを搭載したフォードの成功を横目で見ていたライバルメーカーたちも主力エンジンを直列6気筒からV8へと徐々に移行し始める。そして、1970年代のオイルショックの発生まで、V8はアメリカ車のスタンダードになり、メーカー間のパワー競争は熾烈さを増して行った。
アメリカ車の歴史を振り返ったときにそのマイルストーンとなったのは、間違いなくフォード・モデルBだ。このクルマの登場によりアメリカでは大衆の間でV8信仰が生まれ、HOTRODカルチャーをを作り出し、同国でのモータースポーツ発展に大きく寄与することとなった。
『アメリカン・グラフィティ』に見るHOTORODカスタム
すでに登場から90年以上が経過したモデルBだが、アメリカ人が郷愁を感じ、未だに愛してやまないのは、こうした事情からなのである。
とくに「DEUCE(デュース)」の愛称を持つ1932年型は前述の誕生当初の経緯に加え、映画『アメリカン・グラフティ』で主人公のひとりであるジョン・ミルナーが劇中で黄色い5ウィンドウ・クーペのSTREET ROD(公道走行を前提にした1949年以前のHOTRODのこと)に乗っていたことも影響して、アメリカのカーガイ(Car Guy)たちにとっては、もはや崇拝の対象と言っても良いほどだ。