ザ・ビーチ・ボーイズのアルバムにも登場!! アメ車=V8のイメージを確立したフォード・モデルB「DUECE[デュース]」16年間のモデルライフ&ヒストリー

STREET RODにカスタマイズされた1932年型フォード・モデルBロードスター。この年式にのみに与えられた愛称の「DEUCE(デュース)」とは、西暦の下ひと桁の数字が「2」であることからサイコロやトランプの「2の目」の呼び名が由来となった。
1927年にフォードが満を辞して登場させたモデルAは商業的にはひとまず成功を収めた。しかし、社長のエドセルが期待したモデルTの再来とまでは至らず、宿敵シボレーの牙城を崩すまでには至らなかった。そこでフォードは大衆車にパワフルなV8エンジンを押し込んだモデルBを切り札としてリリースする。結局、商業的には“まずまず”の成功で終わったモデルBであったが、同車のために開発されたV8エンジンと新設計のシャシーは、以降18年に渡って改良を施されながら使用が続けられた。そして、モデルBでV8の魅力を知ったアメリカのユーザーたちは、このエンジンの虜となったのだ。まさしくモデルBは記録より記憶に残る名車であった。

商業的に成功を収めたモデルAだが
モデルTのように市場を席巻するまでには至らず

1927年12月2日に発表されたフォード・モデルAは、上級モデルのリンカーンを彷彿とさせるスタイリング、パワフルな新開発の3.3L直列4気筒サイドバルブエンジン、新設計のシャシーとフォード初の油圧式ショックアブソーバーの組み合わせによる優れた乗り心地、そして、4輪ドラムブレーキ、安全ガラス、セルフスターター、燃料計、バックミラー(オプション)などの充実した装備により、当時の水準を超える大衆車として世に送り出された。

1930年型フォード・モデルAロードスター 。

フォードの大衆車を製造していたリバー・ルージュ工場の閉鎖から約半年。人々は19年間という長きに渡って生産が続けられたモデルTの後継車がどのような姿になるのか固唾を飲んで待っていた。そんな大衆の期待に応えるべく満を持じて登場したモデルAは、期待以上の仕上がりとなっており、人々から喝采を持って迎えられた。同車登場のインパクトは非常に大きなもので、その年のアメリカ10大ニュースのひとつに選ばれたほどだった。

1920年に稼働を開始したミシガン州ディアボーンのフォード・リバー・ルージュ工場。敷地面積1115エーカー(約4.5平方キロメートル)、建物面積160エーカー(約64万平方メートル)の巨大自動車工場で7万~12万人の労働者が働いていた(時期によって人数は異なる)。主に大衆車を生産していた工場で、一時は鋼板やガラス、タイヤなどの主要な自動車部品のほぼすべてを内製していた。

最終的にモデルAは4年間で500万台以上も生産され、商業的には成功を収めた。しかし、生産設備の遅れから工場のフル稼働が1929年中頃までずれ込み、ようやく生産体制が整ったタイミングで発生した世界恐慌により新車需要が激減してしまう。

リバー・ルージュ工場のベルトコンベア式生産ラインを流れるフォード・モデルA。ヘンリー・フォードがベルトコンベア式の生産工程の着想を得たのは、生肉加工工場を自見学した際に流れ作業で解体される食肉を見たことがヒントとなったとされる。

さらには1929年にGMが発表したシボレー・シリーズACインターナショナルが強力なライバルとしてモデルAの前に立ち塞がったことも販売面で少なからぬ影響があった。このクルマはモデルAとほとんど変わらない価格でありながら、高性能な3.18L直列6気筒OHV「ストーブボルト」エンジンを搭載していたのだ。

3.18L直列6気筒OHV「ストーブボルト」エンジンを搭載するGMのシボレー・シリーズACインターナショナル。

こうした状況に対し、ヘンリー・フォードのひとり息子であり、フォード社長だったエドセルは、熾烈さを増す販売戦を制するための切り札として、当時高級車のみに与えられていたV型8気筒エンジンをモデルAの後継車に搭載することを画策する。
そして1932年4月1日に発表されたのが、のちに「DEUCE(デュース)」の愛称でファンから親しまれることになる1932年型モデルB (正確には直4搭載車をモデルB、V8搭載車はモデル18の名称が与えられているが、今日では一般的に両車をひとまとめにしてモデルBと呼称することが多い)であった。

え!! 大衆車にV8を搭載するだって!? できらぁっ! アメリカンV8信仰を生んだモデルB「DUECE[デュース]」誕生!【よくわかる!フォードの歴史・後編】

アメリカ人のV8信仰を生み出す契機となったフォード・モデルBは1932年に誕生した。しかし、同車の登場に至る道のりは決して平坦なものではなかった。モデルTの爆発的な成功はアメリカおけるモータリゼーションの原動力となったが、同時にこの成功体験がヘンリー・フォードの心を冥頑不霊なものとし、息子エドセルに対する醜い嫉妬心もあって後継車開発を頑なに拒んだのだ。結果、フォードは並の会社なら倒産してもおかしくない苦境に陥ることになる。そこからフォードはどのように復活し、モデルBを開発したのだろうか? ヘンリーとエドセルを中心にアーリー・フォードの物語を前・後編に分けて紹介する。今回はその後編である。

エドセルの切り札! 史上初のV8エンジン搭載大衆車・モデルB

モデルBのメカニズムにおける最大のトピックスは、シリンダーヘッドにバルブを持たないサイドバルブエンジンの独特な形状から「フラットヘッド」の愛称を持つ、新開発の3.6L V8エンジンの採用にあった。
シリンダーの数が増えれば、さらなる最高出力を求めることができるとの単純明快な考えで生まれたこのパワーユニットは、最高出力はモデルAの直4エンジンから25hp増しの65hpを発揮し、最高速度は122km/hにも達した。

フォード・モデルBに搭載された3.6L V8サイドバルブエンジン。カムシャフトを持たないサイドバルブ形式で、シリンダーヘッドが真っ平な構造となることから「フラットヘッド」の愛称がつけられた。初期のエンジンは冷却性能に難があり、オーバーヒートしやすい傾向にあったが、ファンの羽根を2枚から4枚に変更するなど改良を施したことで問題を解消している。

じつはフォードが大衆車にV8エンジンを搭載することはモデルAの開発時にも一度は検討されたものの、開発時間とリソースに余裕がなかったことから時期尚早として見送られた経緯がある。だが、生産責任者のチャーリー・ソレンセンの手記によると「1929年にソビエトからモデルAのプラント購入の申し出を受けた際に、設計中だったV8も一緒に売り込むつもりでいた」とあることから、この時期にはすでに開発作業が始まっていたことになる。

フォードからモデルAのパテントを購入し、ソ連国内でライセンス生産されたGAZ-A。フォード社の生産責任者だったチャーリー・ソレンセンの手記によれば1929年にはV8の設計が進んでおり、モデルAとともに売り込む予定であったと記されている。

大衆車に高度なメカニズムであるV8エンジンを搭載する上で問題になるのが製造コストだが、ソレンセンと主任設計技師のローレンス・シェルドリックは、量産を前提にシリンダーブロックを一体鋳造で製造し、削り出しや鍛造に代えてダグタイル鋳鉄を用いたクランクシャフトを用いた設計を採用した。

フォードはフラットヘッドV8を海外メーカーにも売り込んでおり、第二次世界大戦中にイギリス陸軍で大量採用された装軌式汎用車両のユニバーサル・キャリア(搭載機銃から「ブレンガン・キャリア」と呼ばれることもある)の心臓部にも採用されている。

従来のV8が5ベアリング構造であるのに対し、3ベアリング構造とした画期的な設計で、これらの設計の簡素化によりV8エンジンの単体ブロックの製造コストは、直4よりもむしろ安価に収まったという。
また、新エンジンの採用に併せてトランスミッション(3速MT)も改良を受け、セカンド(2速)とトップ(3速)がシンクロメッシュ化され、さらなるイージードライブ化が図られた。

1957年型シムカ・ヴェルサイユ。フォードからパテントを購入し、フラットヘッドV8エンジンを搭載(排気量は2.3Lへと縮小)。フランス以外の一部の国ではフォードブランドで販売された。

シャシーも一新され、モデルAが直線で構成されたシンプルなものだったのに対し、モデルBは前方から後方へ向けてなだらかに弧を描くようになり、低床化のためにリヤアクスルが弓状に上方に突き出されている。ただし、前後のトランスバースリーフスプリング(横置き板ばね)を用いたリジッドアクスルをフルトルクチューブとラジアスロッドで受ける方式はそのまま踏襲されている(1948年までこの方式が使い続けられた)。

1928年型フォードモデルA。
1932年型フォード・モデルB

1928年型フォードモデルA(上)と1932年型フォード・モデルB (下)。モデルBはモデルAの改良型であり、エンジン以外ではグリルの形状とフレーム形状が識別点となる。よく見るとモデルBはボディ下端が前から後ろにかけてなだらかなカーブを描いているのがわかるだろう。なお、1933年以降のモデルBは縦型のグリルとなり、ホイールベースが延長された。こちらはグリルとボンネット上のルーバーの形状で識別が可能だ。

今日もでも愛され続ける、記録よりも記憶に残った名車・モデルB

モデルBは発表とともに世間の話題をさらった。シボレーの6気筒がなめらかで高級感のあるフィーリングであったのに対し、フォードのV8は独特のビートを刻みつつ電気モーターのようにスムーズに回転し、パフォーマンスはシボレーのそれを圧倒した。

1933年型フォード・モデルBウッディワゴン。STREET ROD(ストリートロッド)に仕上げられているが、特徴的な木製のワゴンボディはオリジナルに忠実だ。工場出荷時はボディ後端は架装されずに出荷され、アッシュ材やポプラ材などを用いてコーチビルダーが手作業で仕立てた(金属製ボディの採用は戦後になってから)。なお、当時のクォーターウィンドウはガラスではなく、必要に応じてビニールウィンドウが装着された。

販売価格はロードスターで495ドル(現在の価格で1万ドル弱)ほどと、モデルAよりも110ドル値上げされたが、これまでの直4や直6エンジンに飽きたらないユーザーはモデルBをこぞって買い求めた。モデルBにはモデルAの直4エンジンの改良型も用意されていたが、わずか10ドル追加するだけで高性能なV8が買えるということもあり、人気を集めたのはV8モデルとなる(ただし、ヨーロッパや日本、ソ連などのアメリカ国外の生産車は直4モデルが中心となった)。

1932年型フォード・モデルB2ドアセダン。

モデルBの1932年型は28万6449台が生産された。評判の割に販売台数が伸び悩んだのは、エントリーグレードの直4エンジン搭載モデルの販売台数の売れ行きが振るわなかったことと、V8エンジンの生産プランの立ち上げの遅れ、さらには世界大恐慌(1929年)の影響による自動車市場の縮小が挙げられる。
しかしながら、モデルBに搭載されたV8エンジンは、パフォーマンスを求めるユーザーの心をガッチリ掴むことに成功したのだった。

改良を施されながら1934年まで製造が続けられる

モデルBの1933年型はエクステリアにリファインを加え、イギリスで生産されていた小型車のフォード・モデルYからインスピレーションを受けた盾型グリルを採用した。また、シャシーはXメンバーを追加した改良型のフレームが採用され、ホイールベースは153mm伸ばされて2845mmとなった。

1933年型フォード・モデルBコンバーチブル。

搭載されるV8エンジンは、モデルイヤー後半から圧縮比の高いアルミヘッドと新型キャブレターが与えられ、点火系に改良を加えたことにより、最高出力は75hpへと向上している(改良型の正式な車名はモデル40と呼称される)。

1934年型はフロントグリルとボンネットルーバーの意匠をわずかに変更し、ヘッドランプが小型化された程度で外観上は大きな変更を受けなかった。さらなる加速性能を求める市場の要求に応えるかたちでV8エンジンに改良の手が加えられ、インテークマニフォールドは左右独立式になり、併せてツインキャブレターが採用されたことで、最高出力は85hpにまで向上している。

1934年型フォード・モデルB4ドアセダン。

1934年型まで直4エンジン搭載車は設定されていたものの、販売の主力はすでにV8へと移行しており、フォードはこの年をもって直4モデルを廃止。大衆車用のエンジンをV8に一本化することを決定した。一般にモデルBに区分されるのは、直4エンジンの設定があったこの年までとなる。

1934年型フォード・モデル40(モデルB)スペシャルスピードスター。エドセル・フォードがヨーロッパ視察で見たスポーツカーに感化され、初代リンカーン・コンチネンタルを手掛けた腹心のデザイナーであったボブ・グレゴリーに命じて作らせた車両。心臓部は「フラットヘッド」V8を搭載し、アルミボディのふたり乗りロードスターとして完成した。アメリカ初の本格的スポーツカーであったが、量産化はされず1台が制作されたに留まる。

モデルBのV8エンジンとシャシーは改良を受けながら16年間も存続

1935年型はモデル48と呼称され、重心位置を前方に移した「センターポイズ」と呼ばれるスタイリングを採用。ボディはワイド化されて、より流線形となった。

1935年型フォード・モデル48ウッディワゴン。

エンジンやシャシーなどの基本メカニズムはモデルBからキャリーオーバーされているが、さらなる改良により最高出力は90hpへとパワーアップされている。初期のフォード製V8は冷却性能や信頼性に若干の問題を抱えていたが、この頃になると地道な改良によりこうした問題はほぼ解消。これが販売面でもプラスに働いて、宿敵シボレーから販売台数首位の座を奪い返すことに成功する(同時にフォードにとっては最後の全米首位をとった年になった)。

1936年型フォード・モデル68デラックスコンバーティブルセダン。

以降、フォードはイヤーモデル制による1年ごとのマイチェンと2年ごとのフルモデルチェンジを繰り返すことになるが、トピックスとなるのは1936年型に新たにモデル68の名前が与えられたことと、1937年型で経済性を重視した小型の2.2L V8を追加(販売低迷により1940年に廃止)されたことくらいで、エンジンやシャシーなどの基本メカニズムは適時小改良が施されつつ1948年型まで使用が続けられた。

1937年型フォード・スタンダード2ドアセダン。この年からモデル名は使われなくなり、単に年式とグレード名のみで呼ばれるようになる。

シボレーやプリマスなどのライバルが大衆車にV8エンジンを設定するようになるのは第二次世界大戦後のことである。それまでこのクラスでは、V8エンジンはフォードのお家芸として高い人気を保持し続けた。

1938年型フォードデラックスコンバーチブル。

時代はすでにヘンリー・フォードが理想とした「流行に左右されない実用的なクルマを末長く使い続ける」というものから、GM流の「最先端のトレンドや新技術をいち早く取り入れ、大量生産・大量消費で次々に新しいクルマに乗り換える」ことが当たり前の世の中になっていた。フォードもこうした風潮に完全に飲み込まれてしまっており、イヤーモデルごとに消費者の関心を買うようなスタイリングやメカニズムを取り入れ、派手な宣伝広告でそのことをアピールして買い替えを促進するようになった。

1939年型フォード・スタンダード4ドアセダン。

歴史に残る名車・モデルBとて、アメリカ人にV8信仰を根付かせた功績こそあれ、本来ならば消費社会で毎日のように行なわれるスクラップ&ビルドの繰り返えしのなかで、やがては歴史へと埋没するはずであった。だが、第二次世界大戦後になって若者たちはアーリーフォードとフラットヘッドV8エンジンの新たな魅力に気がつき、自分たちなりの楽しみ方を見つける。それがモデルBないしその心臓部を使用したHOTROD(ホットロッド)であった。

アメリカのロックバンド「ザ・ビーチ・ボーイズ」が1963年に発表したアルバム『LITTLE DEUCE COUPE(リトル・デュース・クーペ)』のジャケット写真に登場した1932年型フォード・モデルB 3ウインドウクーペ。エンジンはオールズモビルロケットのV8へと換装され、クライスラー300Hのヘッドランプを流用した特徴的なボディはオーナーであるクラレンス・カタルロがカスタムした。アメリカではDEUCEは映画や音楽のテーマになるほど文化的にも浸透している。

アメ車といえばV8! アメリカンカスタムの源流は「HOTOROD[ホットロッド]」にあり! 『アメリカン・グラフィティ』のあのクルマ「DEUCE[デュース]」に注目!

アメリカのモーターカルチャーの中で重要な位置を占める「HOTROD(ホットロッド)」。しかし、日本のクルマ好きにとっては「巨大なV8エンジンを搭載したド派手なカスタムマシン」というような漠然としたイメージしか持っていなのではないだろうか? そこで今回はHOTRODの歴史を振り返り、その起源であり、アメリカ人のV8信仰を生み出した「DEUCE(デュース)」こと1932年型フォード・モデルBについて解説することにした。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…