1966年に発売された初代ルーチェは、東洋工業(現・マツダ)にとって初めてとなる1.5リッタークラスのモデル。4ドアセダンと5ドアのバンがラインナップされ、フロント・ベンチシートによる6人乗り仕様。小型モデルであるファミリアと明確にクラス分けされていた。ボディスタイルはジョルジェット・ジウジアーロがデザインしたもので、どこか国産車離れしたものだった。このルーチェをベースに社内でデザインされ、ロータリーエンジンを搭載する高級クーペとして開発されたのがルーチェ・ロータリークーペだ。
1967年の東京モーターショーにはファミリア・ロータリークーペとともにマツダ初のFF方式を採用するRX87が参考出品された。2台のロータリー車は当時の東洋工業がいかにロータリーエンジンの普及を目指していたかの現れで、早くも翌年にはファミリア・ロータリークーペが発売されている。ところがRX87はFF機構を採用したため開発が難航。1969年の東京モーターショーにルーチェ・ロータリークーペとして出展された後、ようやく発売が開始された。
駆動方式をFFとしたことでルーチェに搭載されるロータリーエンジンは専用設計となった。2ローター方式であることは従来の10A型と変わらないが、エンジン長を短く抑えるためローター本体やローターハウジングを新設計。655cc×2の排気量から126psの最高出力を発生した。エンジン後に配置されたトランスミッションやデフも専用設計であり、どれだけ威信をかけて開発されたかを物語っている。
市販が開始されると、高価格ゆえか販売台数は伸び悩む。さらにオーバーヒートが多発したことで信頼性まで疑問視されてしまう。そのため1972年に販売が中止されるまで、わずか1000台足らずが生産されたに過ぎない。また専用設計の部品が多いために補修部品の供給も良くなく、維持するための苦労は他のロータリーエンジン車と比較にならないほど難しい。そのため残存している個体はごくわずかで、実動車となると数えるほどしかないのではと思われる。
悲劇の主人公のようなルーチェ・ロータリークーペだが、これまで取材して多かったのがコスモスポーツのマニアが同時にルーチェを所有しているというケース。特にコスモスポーツオーナーズクラブの会員に多く、このクラブはマツダに掛け合って10A型ローターハウジングを再生産してしまったほどのマニア集団。それゆえかコスモスポーツ同様にルーチェ・ロータリークーペをマツダの記念碑的存在として捉えているのだろう。
5月21日に開催されたクラシックカーフェスタIN尾張旭の会場には2台のマツダ製クーペが参加していた。レシプロエンジンのファミリアクーペとルーチェ・ロータリークーペという珍しいコンビで、どちらもレアなモデル。興味深く拝見していたところ、たまたまルーチェのオーナーが戻ってこられたため早速お話を伺った。オーナーは今年で69歳になる髙木弘重さんで、やはりコスモスポーツを所有するマニアだった。しかも国内仕様のコスモスポーツのほか、輸出モデルである110Sまで所有しつつ、自分で修理やレストアを繰り返してきたという。
ルーチェ・ロータリークーペは購入時から不動車だったが、修理やレストアを繰り返してきた髙木さんだから復活は難しいことではないと考えた。ただ部品が極端に少ないモデルのため、もう1台部品取り用の個体を手に入れている。13A型エンジンは2台ともに分解したが、サイドシールを剥がすのに難航したそうだ。
2基のエンジンから程度の良い部品を取り合って、なんとか13Aエンジンの再始動に成功。車体側でもフロントにハイエース用、リヤにレガシィ用の部品を流用してサスペンションを刷新。サビが大量発生していた燃料タンクは2つに切断して内部のサビ取りを実施してから溶接により元に戻した。さらにクーラーを装着するため電動ファンを自作するなど、とんでもない苦労によりナンバーを再取得している。
手に入れてから公道復帰まで実に5年の歳月を要したが、復活から9年を経た今でもルーチェは調子良く走っている。髙木さんの修理技術が優れていることの証で、イベント当日はエアコンなしでは辛いほどの陽気だったが快適に自走で参加されていた。しかもイベント会場は愛知県尾張旭市だが、ご自宅は滋賀県北東部で決して近い距離ではない。自分で直したから不安な個所がなく自信を持って走らせることができるのだろう。