【MOON OF JAPAN誕生秘話】『MOONEYES-ムーンアイズ-』はアメリカから日本、そしてアジアへ広がり続ける【シゲ菅沼インタビュー vol.3】

MOON OF JAPAN成立までの経緯をシゲ菅沼氏に話を聞くインタビュー記事の第3弾。今回がシゲ菅沼氏が元町にMOONEYES日本総代理店として小さなショップを開いたところから話が始まる。第1回『MOONEYES Street Car Nationals』を無事成功させた直後に「アメリカの父」と慕っていたDean・Moon氏が病に倒れて急逝。それに伴ってMOON OF JAPANは最大の危機を迎えるが……。
REPORT:山崎龍(YAMAZAKI Ryu) PHOTO:MotorFan.jp

順風満帆に思われたかのMOON OF JAPANの船出
しかし、アメリカから突然の不幸は伝わる……

1986年に横浜元町に小さなショップをオープンさせたシゲ菅沼氏。翌1987年3月には大井競馬場を会場に日本初のカスタムカーショーの第1回『MOONEYES Street Car Nationals』(以下、SCN)を主宰し、MOON OF JAPANは順風満帆なスタートを切ったかに思われた。

毎年初夏に開催される『MOONEYES Street Car Nationals』。このイベントは日本初のカスタムカーショーとして1987年3月21日に第1回が大井競馬場で開催された。開催にあたってシゲ菅沼氏は、関係機関への連絡、調整やエントリーの募集など、前例のないイベントだけに様々な苦労があったようだ。

ヒストリックからアメリカンマッスル、国産旧車にネオクラまで、1000台のカスタムカーが集まる『MOONEYES Street Car Nationals』を知っているか!?

今回で35回目を数える『MOONEYES Street Car Nationals(SCN)』の歴史は、まさしく日本のカスタムカルチャーの歴史そのものだったと言っても過言ではないだろう。多くのファンに支えられてきたSCNは、エントリー台数1000台、来場者1万8千人以上を集めるアジア地域最大のカスタムカーイベントへと成長した。今回はそんなSCNの歴史と魅力を、会場に集まったカスタムカーと共に紹介して行くことにしよう。 PHOTO:山崎 龍

しかし、SCN開催から3ヶ月後の6月、菅沼氏の元にアメリカから突然の訃報が舞い込んできた。彼が「アメリカの父」と慕うDean・Moon氏が突然の病によりあっと言う間に亡くなってしまった。

シゲ菅沼(シゲ・すがぬま)。1955年横浜生まれ。日本で空前のアメリカブームに沸いた1970年代に青春を過ごし、アメリカ留学の際に現地で見たドラッグレースに衝撃を受け、アメリカ車とカスタムカルチャーの虜となる。帰国後、会社員を経てMOON OF JAPANを設立。日本・アメリカ・東南アジアを頻繁に行き来しながら日米の会社を経営する。

元町にショップを開いてからまだ間もないタイミングでの突然の不幸。菅沼氏の悲しみは想像するにあまりあるものがある。だが、やるべきことはまだまだ山積しており、悲しんでばかりはいられない。幸いなことに本国のMOONは夫人のShirley・Moon(シャーリー・ムーン)氏が引き継ぐことになったが、その夫人も3年後に他界してしまう。
そして、後継者不在となった本国のMOON EQUIPMENT COMPANYは売りに出されることになった。その情報が報じられると、複数のアメリカ企業が買い手として名乗りを上げた。だが、彼らの欲しかったものは、あくまでもMOONのブランドだけであり、事業継続の意思は持っていなかった。

Dean・Moon氏の志を引き継ぎ
シゲ菅沼氏はMOONEYES後継者になることを決意

「アイボール」だけでなくショップも建物も、Dean・Moon氏が残したものをすべて残したかったシゲ菅沼氏は、MOON EQUIPMENT COMPANYの事業を引き継ぐべく買収を決断したのである。だが、ここでひとつ疑問が残る。Dean・Moon氏には子供がいたはずだが、彼らは事業を引き継ぐ意思はなかったのだろうか?

MOON創業者のDean・Moon氏(1927年生~1987年没)。レーシングドライバーであり、エンジニアであり、ビジネスマンでもあった。晩年にムーン氏は菅沼氏と商取引を知り合い、交流を深めたことでHot Rod & Custom文化で結びついたで結びついた親子にも似た関係になる。だが、シゲ菅沼氏がMOON OF JAPANを設立した直後に急逝。菅沼氏は彼の意思を受け継ぎ、日米で展開するMOONEYESの後継者となる。(PHOTO:MOONEYES)

「Dean・Moonには4人の子供がいましたが、一番上の子はハワイでの交通事故ですでに故人となっていました。二番目と三番目の女の子は既にそれぞれ家庭を持っていたたため事業ができる環境ではなく、末っ子のDean・Moon.Jrは、Dean・Moonが生前の頃から家業を手伝っており、Dean・Moonが亡くなってからはShirley夫人を手助けしてショップを維持していました。
ただ、彼はまだ若かったのでその準備が出来て無かったので、ボクが事業を引き継ぐことを喜んで了承してくれました。彼は人間的にも本当にイイ奴で、今でもボクたちとは良好な関係を維持しており、サンタフェ・スプリングのショップを頻繁に訪れては仕事を手伝ってくれています」

MOONEYESとしての地道な活動を続けることで
国や人種を超えてアメリカのファンに受け入れられる

MOON EQUIPMENT COMPANY (のちにMOONEYES USAと社名を変更)をシゲ菅沼氏が買収をした1992年は、折り悪くバブル景気の直後であった。
三菱地所によるロックフェラー・センターの買収に代表される「強いジャパンマネー」を背景とした海外資産の買い漁りが問題視された時期でもあり、シゲ菅沼氏の買収がアメリカで報じられると「また日本人が札束にモノを言わせてアメリカの魂を奪い去った!」と嫌悪感を示すアメリカ人も少なくなかったという。

また、アメリカのモーターカルチャーは、白人のHot Rod(ホットロッド)、メキシコ系や黒人のLOW RIDER(ローライダー)、アジア系のスポコン(スポーツコンパクト)と人種と密接に関わっている。白人がメインストリームとなるHot Rodカルチャー。その申し子であるMOONを日本人が買収したという事実に拒否感を示さない人でも、同じ仲間として認めるかどうかはまた別問題となる。

排ガス規制やオイルショックにも負けない! DEUCE[デュース]とV8エンジンが拓いたアメリカンカスタムカルチャーはHOTROD[ホットロッド]とともにあり!

これまでにHOTROD(ホットロッド)の発生の経緯、フォード・モデルAやモデルBなどのベース車の解説、1932年型モデルBが「DEUCE(デュース)」と呼ばれてアメリカのファンの崇拝の対象になっている理由など、HOTRODにまつわるあれこれを4回に渡って紹介してきた。今回はこのシリーズの最終回として、戦後から現在に至るまでのHOTROD史を解説していこう。これまでの記事と合わせて読んでいただければ、HOTRODをよく知らないという人でもその歴史のあらましを知り楽しんでもらえると思う。

「アメリカ社会は建前としては人種差別はないことになっているけど、誰かが失敗するとその人の人種や出身をあげつらって陰口を叩く。ボクはアメリカのモーターカルチャーは好きだし、文化的に素晴らしい国だと思っていますが、そういうネガティブな部分があることもまたたしかです」

2018年に開催されたSCNで来場者にステッカーを配るシゲ菅沼氏。人気者のシゲ菅沼氏はMOONEYES主催のイベントでは自然と人が集まってくる。

「MOON EQUIPMENT COMPANYの買収をけっしてよく思っていないアメリカ人が多かったことは理解しています。それに対してボクたちができることと言えば、「金儲けのために事業を買収したのではない」ということをわかってもらうために地道にコツコツと活動を続けていくしかないわけです。継続は力なりで、時間は掛かりますが真摯に打ち込んでいれば、人々はいつの日にか必ず理解してくれます。買収から30年以上が経ちましたが、アメリカのファンに受け入れてもらったとの感触が得られたのは、ここ10年くらいのことでしょうか。最初に比べれば僕たちのことを認めてくれるファンが多くなりました」

アメリカンカスタムカルチャーの伝道師として
東南アジアのカスタムシーンをアシスト

Dean・Moon氏の意思を引継ぎ、MOONのブランドを守り抜いたシゲ菅沼氏。現在、彼の活動の場は日本やアメリカだけには留まらない。世界の若者にHot Rod and Customの魅力を知ってもらうべく、タイやマレーシア、台湾などの東南アジアで開かれるカーショーにも精力的に足を運んでおり、文化的な伝道師として現地での布教活動にも勤しんでいる。

マレーシアで開催された『ART OF SPEED』におけるMOONEYESブース。近年、カスタムカルチャー熱が高まっている東南アジアでは、若い世代を中心にMOONEYESの人気が高く、イベントともなれば終日黒山の人だかりとなる。(PHOTO:MOONEYES)

「東南アジアは日本の1960年代のように20~40代の若い世代を中心にクルマやバイクへの情熱が高まりを見せています。ひとつには経済的な成長により人々が豊かになり、若い世代が自分の愛車を持つことが可能になったことがあるのでしょう。それらの国々ではクルマはまだ高嶺の花だったとしても、バイクなら若者でも気軽に乗れるようになりました」

クルマだけでなくバイクのカスタムもMOONEYESの得意とするところ。

「そうなると自分の愛車に手を加え、自分だけの個性的なマシンに仕上げたくなるのは世の東西を問わず同じです。彼の地でもカスタムカルチャーは着実に広がりを見せ、育ってきています。当初は東南アジアでの活動は文化的なの手助けをすることが目的でしたが、最近ではビジネスとしても成立するようになってきました」

「ボクたちは自分たちが好きなものを知ってほしい、教えたいという気持ちで始めたことでしたが、近年の東南アジアでのカスタムカルチャーの盛り上がりは、本当にうれしく思います。もっとも、ときには自分たちが考えているものとは違う方向へと向かってしまうこともあって、それをどう修正し、軌道変更してもらうか、という問題に頭を悩ませることもしばしばあるのですが……」

インタビュー中、終始笑顔を絶やさなかったシゲ菅沼氏だが、このときの表情は苦笑いという印象を受けた。彼の言う「違う方向」とはどういうことなのだろうか?

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…