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ル・マン24時間参戦のために開発されたシェルビー・デイトナ・クーペ
1959年にアメリカ人として初めてル・マン24時間耐久レースを制したキャロル・シェルビーは、持病の心臓病のためレーサーを引退した。しかし、モータースポーツへの情熱は覚めやらず、翌1960年にシェルビー・アメリカンを設立してレースコンストラクター兼カーデザイナーとして再起を図った。
こうした経緯から誕生したしたのが、英国製ACエースのロードスターボディにフォード製XHP-260(4.3L)V8エンジンを搭載したシェルビー・コブラであった。
その後、モータースポーツへの参加を前提にさらなるパフォーマンスを追求した同車は、1962年にエンジンをチャレンジャー289(4.7L)スペシャルV8に換装してFIAのGTホモロゲーションを取得し、1964年にはサンダーバード用に開発したエンジンを軽量・高性能化した427(7L)V8エンジンを搭載した。
軽量・コンパクトなボディにパワフルなV8エンジンの組み合わせによるパフォーマンスは圧倒的で、シェルビー・コブラはアメリカ国内で活躍した。だが、ヨーロッパでのレースに参戦するにあたり、パフォーマンス的にはライバルのフェラーリやアストン・マーティンに勝るとも劣らないものの、オープンボディのため空力では大きなハンデを抱えていた。とくにル・マン24時間レースでは全長6km (当時)にも及ぶミュルサンヌ・ストレートでライバルとの差が開いた。
シェルビー・アメリカンではハードトップを装着するなどの対応を採ってはいたが充分ではなく、スポーツカー世界選手権への参戦を前提として、1964年に同社はピート・ブロックがデザインを手掛けたコブラのクーペバージョンを開発する。シェルビー・デイトナ ・クーペの誕生であった。
本物のコブラ・ロードスターをベースに
1990年代に製造されたデイトナ ・クーペ
ラインオフしたシェルビー・デイトナ・クーペはプロトタイプを含めて全部で6台。シャシー番号はCSX2286、CSX2287、CSX2299、CSX2300、CSX2601、CSX2602となる。そのすべてが現存し、コレクターや各地の博物館の手で大切に保管されている。
だが、今回アメフェスに展示された車両はいずれのシャシー番号でもない。展示車両の細部をよく検分すると、後年スーパーパフォーマンス社が製造したレプリカではないようだが、1960年代にレースで活躍した車両とは細部の意匠が異なる。WWRJのスタッフに尋ねると「本物」との答えが返ってきた。これは一体どう言うことだろうか?
後日、資料を漁ったことで謎は解けた。この車両のシャシー番号はおそらくはCSX2469だろう。その出自は1990年代前半にオリジナルのコブラ・ロードスターをベースにシェルビー・デイトナ・クーペへと改造された車両のようだ。ただし、製造はキャロル・シェルビーの監修の元、彼のパートナーであり、コブラの専門家でもあるマイク・マクラスキーが手掛けている。どうやらシェルビーが自分用に作ったマシンらしい。
厳密に言えば「本物」とは言えないが、製作者や誕生の経緯から考えて「レプリカ」とバッサリ切り捨てることも些か気が引ける。強いて言えば「復刻車」というのが妥当な評価になるかもしれないが、いずれにしても6台のオリジナルを基準にするなら「枠外」の車両となる。
じつは2022年夏にこのクルマはアメリカのオートオークションに出品されており、出品目録にあった写真と展示車を見比べると、車体に入ったゼッケン番号以外はまったく同一の車両であった。おそらくは展示車両はこのオークションで落札されたか、落札後にオーナーから購入した上で日本に輸入したのだろう。
こうした希少なクラシックカーの場合、車両固有のヒストリーとその裏付けとなるシャシー番号によって金銭的な価値は決まるものだが、それらはあくまでも売買する際の価値基準であり、この車両の持つパフォーマンスや美しさ、魅力と言った「クルマが備えた本来の価値」を何ら毀損するものではないことを付け加えておく。これほどの貴重なマシンを間近でじっくり見ることができたのはまさに行幸であった。
スーパーカー世代には感慨深い! デ・トマソ・パンテーラ
アメリカンマッスル×イタリアンデザインの妙
1970年代に少年時代を過ごし、あの「スーパーカーブーム」の洗礼を受けた人なら、デ・トマソ・パンテーラという存在には特別な感慨があるはずだ。そして、古くからの『OPTION』読者の方にはゲーリー・アラン・光永の名前とともに国内で初めて300km/hの壁を超えたマシンとして、この車名が胸に刻まれていることだろう。
創業者アレッサンドロ・デ・トマソの数奇な人生……アルゼンチン出身の素寒貧なレーサーだった若者が、異国イタリアでデトロイトと強力なパイプを持つ富豪の令嬢のハートを射止め、嫁の実家から支援を受けてレーシングコンストラクターを起こし、さらにはフォードの資本を獲得して「フォードGT40の市販版」とも言うべき巨大なV8エンジンをミドシップに搭載したスーパースポーツを世に送り出した物語は、福野礼一郎氏や沢村慎太郎氏が執筆した名文があるのでここでは敢えて詳しくは触れない。今回はアメフェスの会場に持ち込まれたシャシー番号02874、8台製造されたパンテーラGr.4にのみ焦点を当てて語って行くことにしたい。
モータースポーツ参戦のために製造されたレーシング・パンテーラ
Gr.4の製造台数はわずか8台! 展示車は唯一のモータースポーツ未参戦車
開発当初からパンテーラはモータースポーツへの参戦が考慮されていた。最初に開発されたレーシングモデルは、1972年に登場したプライベートカスタマーチーム用に製造されたGr.3で、およそ30台が製造された。このモデルは当時のFIAグループ3(量産グランドツーリングカー:1000台以上生産した2座席以上のクローズドボディ車)規定に従って、市販車両に6点ロールケージやレーシングバケットシート、消化器が追加され、強化カムシャフトと10Lに容量を拡大したオイルパン、ホーリーレーシング4バレルキャブレターなどのレース用パーツが追加された。
このパンテーラGr.3をベースに、FIAグループ4(特殊グランドツーリングカー:500台以上生産した2座席以上のクローズドボディ車)規定に基づいて同じ年に製造されたのがパンテーラGr.4で、製造はフェラーリのレーシングカー製造に経験を持つ英国人エンジニアのマイク・パークスが担当した。
エンジンはフォード社が供給を拒否したことから社外のレーシングエンジンコンストラクターだったバド・ムーアに依頼。フォードのレーシングユニット・クリーブランド5.7L V8エンジンをベースに、特注のアルミニウム ヘッド、TRW鍛造ピストン、大容量オイルパン、チタンバルブを装備した。キャブレターは当初はホーリー製1150CFM4バレルキャブレターを1基備えていたが、のちにウェバー製2連キャブレター×4に換装された。その結果、最高出力は市販バージョンの178ps増しの508psとなった。
ダブルウィッシュボーンサスペンションは設計を大幅に変更し、フロント10J&リヤ13Jのカンパニョーロ製ホイール&幅広タイヤを装着するために、コニの車高調整式サスペンションを採用している。ブレーキはガーリング製の大径ベンチレーテッドディスクに換装され、ステアリングラックをクィックレシオ化することで制動力とハンドリングを大幅に向上させている。
ボディは幅広タイヤに合わせて大きく張り出したオーバーフェンダーを装着。アルミ製のドア、フロントリッド、エンジンカバー、フレア状のグラスファイバーホイールアーチなどの改良が加えられた。また、サイドウインドウなどにはプレキシガラスが使用され、軽量化のためシャシーは肉抜き加工が施されている。また、前後バンパーは取り外され、代わりにリップスポイラーが取り付けられている。
8台作られたパンテーラGr.4のシャシー番号は、02860、02858、02859、02861、02862、02872、02873、02874で、02874を除いてルマン24時間耐久レースやスパ・フランコルシャン1000km、ジロ・デ・イタリア、モンツァ1000kmなどの国際格式のモータースポーツに投入されている。
今回、アメフェスに姿を見せた02874は、パンテーラGr.4としては最終生産車であり、1973年のジュネーブモーターショーに出展された過去を持ち、製造された8台の中で唯一モータースポーツに参戦歴のないマシンだ。Gr.4としてのスペックを持ちながらロードゴーイングカーとして仕立てられており、過去ナンバープレートが付けられていたこともある。WWRJは同車に徹底的なレストアを施しており、新車のコンディションを今に残すパンテーラGr.4だ。そうした意味でも貴重な存在である。
ウォルター ウルフ レーシング ジャパンの展示車両は注目度抜群!
ウォルター ウルフ レーシング ジャパンでは、シェルビー・クーペやパンテーラGr.4のほかにフォード・モデルT・ロードスターピック(ピックアップトラック)ベースのTバケットやモデルAロードスターなども展示された。
ランボルギーニ・カウンタックのミニカーも展示されており、自走できるかなど詳細は不明だがかなり精巧に作られている。欧米では金持ちが子ども用にこうしたミニカーを作らせたと聞いたことがあるが、このクルマもそうした経緯で製作されたものなのだろうか?