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『さいたまイタフラミーティング2023』のようなイベントを散策していると、かつて自分が所有していた同型車にばったり出会うことがある。もちろん、自分が所有していた個体とは別物なのだが、思わず街中で旧友とばったりと再会したような懐かしい気分にさせられる。
1990年代生まれのアルファロメオ155とはどんなクルマだったのか?
1992年に発売されたアルファロメオ155は、慢性的な経営赤字により1986年にフィアット傘下となったアルファロメオが開発した同社初のFWD中型セダンである。
155は開発・製造コストの低減を望む親会社の意向に従い従来までのFRレイアウトを諦め、フィアット・ティーポ由来のフィアット製FWDプラットフォームを使用することになった。
イタリア本国にはディーゼルを含めてさまざまなパワーユニットが用意されたが、日本仕様の心臓部は2.0L直列4気筒仕様とモデルライフ途中で追加されたV型6気筒搭載モデルで、ともにガソリンエンジンとなる。
前期型が前任の75からキャリーオーバーしたオールアルミ製の2.0L直列4気筒DOHC8バルブ・ツインスパークエンジンを搭載。
フルタイム4WD車のQ4には、ランチア製の2.0L直列4気筒DOHC16バルブターボが搭載された。なお組み合わされる変速機はいずれも5速MTでATの設定はなかったが、現在ほどAT普及率が高くなかった当時は問題とならなかった。
Q4は販売価格が高価な上、維持する上で苦労を伴うデルタHFインテグラーレの心臓を移植したこともあり、販売の主力は直4ツインスパークであった。このエンジンは低速トルクはスカスカだったが、高回転まで気持ちよく回るエンジンで、あたかも2ストバイクのような楽しさを持っていた。
足まわりはティーポの形式がそのまま踏襲されており、フロントがマクファーソン・ストラット、リアがトレーリングアームとなる。実用車として考えれば、可もなく不可もなくというサスペンション形式である。
しかし、初期型の155はアルファロメオらしくハイスピードでワインディングを楽しんでいると、ロールを嫌うフィアット流の設計と荷重変化を許容するアルファ流のセッティングが喧嘩してしまい、ある速度域を超えると低速での粘りが唐突に消え、限界を迎えてリアがコントロールを失う悪癖があった。
欧州市場での人気復権を賭けてツーリングカーレースに参戦
販売価格が手頃だったことに加え、当時の輸入車ブームと、インポーターだった大沢商会が販売に力を入れていたこともあり、日本市場での155はまずまずの評判であった。ところが、欧州市場では姉妹車のフィアット・ティーポやランチア・デドラとの差別化が不充分とされ、また性能や個性の面でも突出したところがなかったことから販売は低迷。打開策を模索したアルファロメオは、伝統的な販売向上の手法……レースでの活躍を背景に売り上げ回復を図ることにした。
もともと155はイタリア・ツーリングカー選手権(CIVT)に参戦していたが、それだけでは不足だとして、1993年からはドイツツーリングカー選手権(DTM)に、1994年からはイギリスツーリングカー選手権(BTCC)に殴り込みをかけ、DTMでは1993年にニコラ・ラリーニが、BTCCでは1994年にガブリエル・タルキーニがドライバーズチャンピオンに輝いている。
また、日本では1995年に神戸のユニコルセから全日本ツーリングカー選手権(JTCC)に155はスポット参戦している。同年1月の阪神・淡路大震災の影響でフル参戦こそ叶わなかったが、極東の島国でもたしかにその爪痕を残したのだ。
欧州では不人気モデルだが日本のファンに愛されたアルファロメオ155
こうしたモータースポーツのイメージを市販車にも取り入れるべく、1995年後半に155はマイナーチェンジを施された。主な改良点はエンジンで、販売の主力だった直列4気筒モデルはアルファロメオ純血の8バルブユニットを降ろし、フィアット製スーパーファイアをベースに、ヘッド部分をアルファロメオが新開発した16バルブ・ツインスパークユニットが新たに搭載された。この改良により最高出力は10ps増しの150psとなった。
日本仕様はマイナーチェンジを機にQ4がカタログから落ち(厳密に言えば後期型のQ4は1996年に120台弱販売されている)、その代わりに2.5L V型6気筒SOHCエンジンが追加された。直4モデルとの価格差はわずか45万円だったので、以降の日本市場ではスムーズな吹け上がりで、パワーにもゆとりがあるV6モデルが人気となった。
また、エンジンが一新されたのに合わせて前後フェンダーはブリスター化された。ボディ幅が拡大した(1700mm※→1730mm)ことにより155は3ナンバー化され、マイナーチェンジ直後に販売された155スーパーを除き、スピードライン製16インチホイール+205/45ZR16サイズの幅広タイヤを装着、本国でオプション扱いだったスポーツサスが標準装備となった「スポルティーバ」に全車なった。これに合わせてサスペンションセッティングも見直され、アシをガチガチに固めたことでアルファらしいしなやか足捌きは影を潜め、乗り心地は地の底へと落ちたが、前期型に比べると足廻りの整合性はとりあえず取られることとなった。
※日本登録は1695mm
アピアランス的にもスポーティで迫力あるものになった155であったが、欧州市場での評価は依然低調で、アルファロメオが目論んだ通りには売り上げも向上しなかった。ところが、日本市場ではマイナーチェンジを機に人気が爆発。これまで「マニアのためのクルマ」と言われたアルファロメオを一般のユーザーが買い求めるようになったのだ。
これに気をよくしたアルファロメオは、1996年にV6モデルをベースにツェンダー製のエアロにホワイトアロイホイール、レカロのセミバケットシートを奢ったV6リミテッドを限定販売したほか、1997年には最終限定車(V6が250台、直4ツインスパークが500台)も販売されている。
155が盛り上げたアルファロメオの人気は、モデル途中で追加された妹分の145、そして後継モデルの156にもそのまま引き継がれ、日本市場に空前のアルファロメオブームを巻き起こす契機となった。故に筆者以外にも155に対して特別な想いを持っている人は少なくないだろう。輝かしいアルファロメオの歴史の中においては、155は欧州市場での評価もイマイチで特別な存在ではなかったかもしれないが、日本人にアルファロメオの魅力を再発見させた記念すべきモデルであり、ファンにとっては今も特別な1台であり続けている。
旧友と再会するような懐かしさ……会場で出会ったかつての愛車の同型車
さて、筆者はアルファロメオ155には特別な感慨を持つ。『さいたまイタフラミーティング2023』の会場でばったりとこのクルマに出会ったときは、思わず街中で旧友とばったりと再会したような懐かしい気分にさせられた。というのも、若かりし頃に愛用していたクルマだからだ。クルマの免許を取得して最初の愛車となった1991年型フォード・トーラスワゴンLXを手放し、1995年に買ったのが2.0L直列4気筒DOHC8バルブ・ツインスパークの155ツインスパーク8バルブだったのだ。
当時、学生だった筆者はこのクルマで様々な場所で出向いた。悪友の鉄道マニアが南部縦貫鉄道がさよなら運行するというので一緒に乗りに行ったり、六甲山のミーティングに下道だけで遊びに行ったり、兵庫のキャンプ場で開催された「みやむー」こと声優・宮村優子のファンクラブイベントに堂々乗りつけたりと、どこへ行くのも155と一緒だった。結局、就職してからもそのまま乗り続け、7年間で10万km近くを走破した。
その間、故障は枚挙に暇がなかったし、何度かの事故もあった。駐車場に停めていたらひどいイタズラをされたことさえあった。だが、惚れてしまえばあばたもえくぼ。大好きなクルマだったので、トラブルの度に借金をしては修理して乗り続けた。
伝統のオールアルミ製アルファ純血ユニットのツインスパークは最高出力こそ140psと飛び抜けた性能ではなく、低速トルクはスカスカでクラッチワークをミスると簡単にエンストした。しかし、そこはアルファロメオだ。高回転まで回せば何とも気持ち良く、あたかも2ストバイクのような感覚の楽しいエンジンだった。
その頃はバブル崩壊後とはいえ景気も今ほど悪くなく、中古車なら国産スポーツカーは選びたい放題。若者でもちょっと頑張れば280ps級のハイパワーマシンに乗ることができた。友人たちはスカイラインやシルビア、インプレッサなどの国産ターボ車に夢中で、ホンダファンに多かったNA勢はスポーツシビック(EG型)やCR-X(FE型)を好んで乗っていた。そんな彼らと交通量の減った深夜に競争ごっこをすれば、残念ながら155ではまるで歯が立たなかったのを覚えている。
それでも負けん気だけは強かったので、学校そっちのけでアルバイトをしてはお金を貯め、エキマニやマフラーを社外の高性能と言われる物に交換したり、足まわりをビルシュタインのコイル+アイバッハのダンパーに組み替えたり、ショップに依頼してヘッドのバランス取りとポート研磨をしてもらったりと、健気にもチューニングに励んだものだった。まあ、それで速くなったかと言えば、ほとんど変わりがなかったような気もするが……。
今から思えばバカな話だとは思うが、そういうくだらないことに情熱を傾けることこそ若さなのかもしれない。ちなみに言えば、スペックの近いプリメーラとは結構いい勝負をした記憶がある。
結局、このクルマは2002年に勤めていた編集プロダクションを辞める直前に滑り込みでローンを通した中古のアルファロメオSZ (ES30。このクルマがなかなかの食わせ者だった。その話は機会があればまたいずれ……)を購入するのに伴って手放してしまったが、本当はずっと手元に置いて置きたかった。思い出深い愛車との最後の別れは泣きの涙だった。
そんな思い出深いクルマにこうして再会できたのだから感慨もひとしおだ。会場で出会った155はブリスターフェンダーを備えた後期型であり、厳密に言えば筆者が乗っていた前期型とは別物なのだが、車体にはDTMを模したデカールが全面に貼られ、エアロパーツで完全武装したその姿は、当時の筆者が「いずれはこう仕上げてやろう」と考えていた理想の155の姿だった。
思い出のクルマは人それぞれだろう。こうした懐かしいクルマに出会えるのもカーミーティングの楽しいところである。