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低価格の大衆車としてマイカー時代を先導したサニー
1966年(昭和41)年4月23日、日産自動車から「ダットサン・サニー」がデビュー。当時は、日本のモータリゼーション黎明期であり、サニーは低価格の本格的な大衆車として大ヒット。“一家に1台”のマイカー時代を先導した。
誰もが入手できる小型大衆車を目指したサニー
1960年代、日本は前例のない高度経済成長期を迎え、所得倍増計画などによりサラリーマンの収入は急増し、日本中が豊かな生活を手に入れることができた。高速道路などのインフラ整備が進み、徐々にクルマの数は増え、日本のモータリゼーションに火が付いたのだ。
それまで乗用車を購入するユーザーの大半は、富裕層かタクシーなどの法人。それが、国民の所得増大により一般大衆でも入手可能となり、一家に1台のマイカー時代が到来したのだ。そうは言っても、すでに発売されていた100万円を超える高級車「クラウン」や「セドリック」というわけにもいかず、一方で安価な軽自動車では高速道路を走るには力不足だった。
そこで市場が求めたのは、1Lクラスの小型大衆車。これに応えるため、日産はブルーバードの下のカテゴリーに位置する1Lクラスの小型大衆車として、サニーをデビューさせたのだ。
軽量ボディでファストバック風の快速サニー
サニーの特徴は、軽量ボディを生かした優れた動力性能と、ノーズが長く傾斜したリアウインドウで構成されるファストバックのような斬新なスタイリングだ。
新開発の一体成型システムで剛性を確保しながら、外板も極力薄肉化を図り、車両重量は軽量な625kgを達成。エンジンは、当初800ccだった計画を急遽1000ccに拡大、最高出力56psの直4 OHVで、最高速は135km/hを超え1.5Lクラスの優れた走りを見せた。
車両価格は、標準仕様41万円/デラックス46万円。ちなみに当時の大卒の初任給は、2.5万円(現在は約23万円)程度、単純計算すれば現在の価値でスタンダードが約380万円に相当する。この価格は、当時のクラウンの半分以下、上級グレードの軽自動車と同等だった。
発売後、サニーは5ヶ月で3万台を超える販売を記録し、その年の12月には月販台数が1万台の大台を突破。また半年後の12月には、ライバルの初代カローラが43.2万円で登場し、大衆車の市場規模は2年間で倍増した。その起爆剤になったのは、間違いなくサニーだった。
モータリゼーションを加速したサニーとカローラの熾烈なCS戦争
小型大衆車市場を2分する圧倒的な人気を誇ったカローラとサニーだが、その設計思想は全く異なっていた。
カローラは、排気量を100cc増やすことによる走り、乗り心地、静粛性などすべてにおいてバランスの取れた“80点主義”の大衆車。一方のサニーは、軽快さと信頼性を重視し、ボディはやや小ぶりでシンプル、それゆえ俊敏な加速と軽快な走りが特徴だった。
人気のカローラとサニーは、ライバルとして“C(カローラ)S(サニー)戦争”と呼ばれた熾烈な販売競争を繰り広げながら、日本のモータリゼーションをけん引。2つのモデルが登場して大衆車市場を切り開いたことから、1966年は“マイカー元年”と呼ばれている。
カローラは、現在もロングセラーモデルとして単一モデルの世界No.1の座に君臨しているが、サニーは9代目を最後に2004年に販売を終了した。
初代サニーが人気を獲得した理由として、クルマ自体の魅力とともに、斬新な販売戦略があった。車名のサニーは、800万通を超える一般公募から選ばれ、またティザーキャンペーン(じらし広告)を大々的に行った。ティザーキャンペーンとは、新型車の発売前に意図的に部分的な情報を流し、消費者の興味を引きつける手法で、今では当たり前のように使われているが、当時としては珍しい宣伝手法だったのだ。
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