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直6を搭載したスカイラインGTが日本GPで歴史に残る快挙
1964(昭和39)年5月3日、第2回日本グランプリ(GP)のGT-IIクラス決勝が行なわれた。前年の第1回日本GPで惨敗を喫したプリンス自動車が、2代目「スカイライン」にグロリアの直6エンジンを搭載した「スカイラインGT」で参戦。7周目に一時的ながら「ポルシェ904」を抜き去るという快挙を成し遂げ、ここにスカG神話が始まったのだ。
第1回日本GPで惨敗を喫したスカイライン
本田宗一郎氏の“世界に通用する本格的なサーキットを作りたい”という熱い想いで、1962年に完成した鈴鹿サーキット。翌1963年5月3日から2日間、日本初の本格的なレースとなる第1回日本GPが開催された。
第1回日本GPで、初代スカイラインのスポーツモデル「スカイラインスポーツ」と「スカイラインスーパー」で参戦したプリンス自動車は、見せ場なく惨敗。レース前の “メーカーがチーム編成をしない、メーカーが改造に関与しない”という紳士協定を律儀に守り、完全な市販車でレースに臨んだことが敗因だった。
他のメーカーは、レース用にチューニングされたマシンで参戦。他のドライバーからも、規定違反ではないかと抗議が出て物議を醸したが、結局抗議は認められなかった。例え、そんな理不尽なことがあったにせよ、レースの敗北は、飛行機づくり出身の誇り高い技術陣を主力とするプリンスにとっては耐え難いものであり、プリンスは翌年の第2回日本グランプリでの雪辱を果たすためすぐに開発に取り組んだ。
6気筒エンジンを搭載したスカイラインGT誕生
雪辱に燃えるスカイラインの開発責任者だった桜井眞一郎氏が考えたのは、2代目スカイラインに2代目グロリアの2.0L直6 SOHCエンジンを搭載し最強マシンを仕立てることだった。
最大の難題は、もともと1.8Lの直4を搭載していたスカイラインには、直6を載せるスペースがないこと。そのため、フェンダーを切断したエプロン部分にスペーサを溶接してホイールベースを延長し、鼻先を200mm伸ばし半ば強引に直6エンジンを収めた。さらにエンジンチューニングによって、最高出力150ps/最大トルク18.0kgmを発生する「スカイラインGT(S54A-1型)」が誕生したのだ。
レース参戦のためのホモロゲーションである100台の生産は、すべて職人の手作りで行われ88万円で販売された。ちなみに、当時の大卒初任給は2.1万円程度(現在は約23万円)なので、単純計算では現在の価値で約960万円に相当、かなりの高額である。
今も語り継がれる生沢徹とスカイラインGTの伝説のレース
第2回日本GPのGT-IIクラスでの圧勝を目論んでしたスカイラインGTだったが、予想外の強敵がエントリー。それは、式場壮吉選手が駆けるミッドシップスポーツ「ポルシェ904」だった。最高出力が180psのポルシェ904に対して、150psのスカイラインGTでは到底勝ち目はなかった。
ところが、生沢徹選手が駆けるスカイラインGTは必死に追いすがり、なんと7周目のヘアピンでポルシェ904を抜き去り、先頭に立つという快挙をやってのけたのだ。最終的には、ポルシェ904の圧勝で終わったが、国産車が最高峰のポルシェを抜いたことに観客は熱狂し、今も伝説として語り継がれている。
同時にドライバー生沢選手の卓越したドライビングテクニックも賞賛され、人気レーサーとして確固たる地位を獲得。その後、生沢選手はヨーロッパでも活躍し、1967年の第4回日本GPには「ポルシェ906」でプライベート参戦し、日産が満を持して開発したレーシングプロト「R380」を押さえ優勝を飾った。ワークスチームに勝った生沢選手は、モータースポーツ界のスーパースター、国民的スターに上り詰めたのだ。
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スカイラインGTは100台の限定販売だったので、さらなる販売の要望に応え、翌1965年に「スカイライン2000GT(S54B-2)」を投入し爆発的な人気を獲得。その後1969年には3代目(ハコスカ)「スカイラインGT-R」へ進化、さらに2007年に「日産GT-R」へと発展した。スカイラインGTの偉業は、60年経った今も脈々と受け継がれているのだ。
毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかもしれない。