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■官民共同で開発された国産旅客機「YS-11」が初披露
1962(昭和37)年7月11日、戦後初の国産旅客機「YS-11」の試作1号機が完成し、三菱小牧工場でロールアウト式典が行われた。開発したのは、1959年に創業した官民共同の「日本航空機製造」で、試作機を使って飛行実験や荷重実験を繰り返し、同年8月30日にはメディア関係者を招いて初の試験飛行が行われた。
●戦後多くの航空機技術者は自動車の発展に貢献
第二次世界大戦で敗戦国となった日本は、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令本部)によって飛行機の製造・運用、さらに研究や教育なども禁止された。
戦前に高いレベルの技術力を持っていた軍用の航空機技術者の多くは、戦後になって自動車や鉄道製造部門で活躍した。例えば、プリンス自動車(後に日産自動車に吸収合併)の初代「スカイライン(1957年~)」などを開発したのはゼロ戦のエンジンを設計した中川良一氏、スバル(富士重工業)の名車「スバル360(1958年~)」などを開発した百瀬晋六氏、トヨタの「パブリカ(1961年~)」や「カローラ(1966年~)」の開発を担った長谷川龍雄氏、ホンダF1優勝の立役者でチーム監督だった中村良夫氏など、多くの航空機技術者が自動車産業の発展に多大な貢献を果たしたのだ。
そして、1952年サンフランシスコ講和条約が発効され、日本は正式に独立。これに合わせて航空法や製造事業法が施行され、日本の航空機産業が再開、ようやく日本も飛行機を作り出す環境が整った。
●航空機技術者が集結してYS-11の開発スタート
飛行機製造が解禁されるとすぐに、国産飛行機をもう一度大空に飛ばしたいという夢を抱いていた技術者は、1955年頃から通産省(経産省の前身)主導で国産旅客機製造計画に取り組んだ。この計画には、ゼロ戦を設計した堀越二郎氏(2013年にヒットした映画「風立ちぬ」の主人公のモデル)など戦前の軍用飛行機事業を支えた技術者が集結した。
そして、1959年に官民共同の特殊法人「飛行機製造会社」が創業し、開発のリーダーに選ばれたのは東條輝雄氏(戦時中の内閣総理大臣・東條英機の息子)。メンバーとして、戦前の飛行機製造を担った新三菱重工(現:三菱重工)、川崎航空機(現:川崎重工)、富士重工(現:スバル)などから優秀な技術者が集められ、戦後初の国産旅客機「YS-11」の基本設計がスタートしたのだ。
●苦難を乗り越えて完成したYS-11は50年以上日本の空を飛行
優秀な航空機技術者が集まったとはいえ、戦前は軍用飛行機が主体だったので、民間用の旅客機を作った経験がほとんどなく、開発段階でさまざまな困難に見舞われた。
「YS-11」の基本要件は、座席数60、滑走距離1200m、航空距離600海里(約1100km)であり、それを満たすエンジンとしてロールス・ロイス製の双発ターボプロップエンジンが選ばれた。ターボプロップエンジンは、ガスタービンエンジンの一種で、ターボで圧縮したガスを燃焼させてそのエネルギーでタービンを回転、それと連動したプロペラを回転させる機構である。
苦難を乗り越え1964年8月には、「YS-11」の初号機を全日空(ANA)に納入し、その後日本航空(JAL)、東亜国内航空、エアーニッポン、日本エアコミューター、南西航空にも納機。しかし、1973年に採算悪化により製造総数182台で生産終了、1983年には日本航空機製造も解散した。
旅客機としての「YS-11」は、2006年9月30日の日本エアコミューターによる国内定期便の運航が最後となった。なお、航空会社以外にも国交省航空局や自衛隊でも運用していたが、こちらも2021年3月17日自衛隊の飛行点検機「YS-11FC」が最後のフライトとなり、ついに50年以上にわたる「YS-11」の歴史の幕を下ろしたのだ。
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「YS-11」の後を継ぐ形で進められていた三菱重工の小型ジェット機「MRJ(三菱スペースジェット)」の開発中止が、2023年2月に発表された。一方2024年3月には、経産省が2035年頃をめどに官民で次世代の国産旅客機の開発を進めると明らかにした。MRJの反省を生かしたいところだ。
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