喜多方の夏を代表する祭りとして毎年近隣住民たちが楽しみにしている「喜多方レトロ横丁」。大正昭和といった古い時代の建物が多く残る商店街を歩行者天国として開放、さまざまな催しが行われることで老若男女がともに楽しめる工夫がされていることが人気に秘訣。催しの一つとして行われる「レトロモーターShow」は朝の9時過ぎに歩行者天国となった商店街を、参加車両が徐行するようにしてパレード。パレードの後は整列して展示されるので、パレード中気になったクルマがあれば、その後にじっくりと見学できるのだ。
今回パレードする車両たちの中で異彩を放っていたのが、トヨペット時代である1968年に発売されたコロナマークⅡ。何が珍しいかといえば、通常のセダンやハードトップではなく、商用バンだったからだ。1968年といえば昭和43年であり、日本のモータリゼーションが本格化した時代。とはいえまだまだ個人で乗用車を購入できるのは限られた層であり、街を走るクルマの多くが社用車や商用車。ただし、この時代は今ほどサラリーマン比率が高くなく、まだまだ個人商店が多かった。個人商店主が仕事の仕入れや運搬用に自動車を用いるようになるのもこの時代で、それ以前はスーパーカブに代表される2輪やオート3輪がメイン。60年代になると一変して4輪が普及していくのだ。
4輪とはいえ一般的なセダンが選ばれることは少なく、その多くがライトバンだった。セダンのルーフを延長してラゲッジを広く使えるようにしたバンは仕事で大活躍するだけでなく、休日には家族を乗せてドライブに出かけることもできる。そのため個人商店主に格好の存在だった。例えばコロナマークⅡのことではないが、マツダ・ファミリアは乗用車のセダンを発売する前にライトバンからスタートしている。それほど時代はライトバンを求めていた。
コロナはそもそもタクシー需要に応えるために開発された側面があり、仕事のクルマとしてのイメージがある。そこで歴代コロナにもライトバンが設定されてきた。モータリゼーションが本格化し出すとコロナとクラウンの間を埋める車種が必要ということになり開発されたのがコロナの上級モデルであるコロナマークⅡ。アッパーミドルクラスとでもいえばいいだろうか、コロナより上級でクラウンほど高級ではない存在として開発された。そんなコロナマークⅡながら、やはり当時は慎重な判断がされライトバンもラインナップされていた。順調な商売を続けていた商店ならコロナマークⅡバンを選択するということがあったのだろう。だが、こうしたケースは新型車が出れば乗り換えられてしまうもの。すると商用バンは中古車としての需要が少なく、解体されたり輸出されてしまうケースが多い。つまり残存数が少なく令和の今では立派な激レア車ということになる。
このコロナマークⅡバンの所有者は58歳になる木ノ本大さん。これまでも古いクルマを何台か楽しんできたが、そのスタイルは普通に乗って楽しむのではなくベース車を自らコツコツと直すこと。だから何台か自分で仕上げたものの、長く乗ることはなく出来上がってしまうと満足して手放すことを繰り返されてきた。このようなパターンは意外にも多く、過去の記事でも「100台のクルマを乗り継いでたどり着いた境地! マツダR360クーペが最高!」として紹介している。この記事の人では多くのクルマを自ら仕上げてきたが、R360クーペになって落ち着いたという。コロナマークⅡバンの木ノ本さんも同様に、このクルマで落ち着いたと語る。
というのも、この個体は購入時から手を加える必要がないほど整備されていた。それまでの木ノ本さんなら手を出さないようなパターンなのだが、何しろレア車である。これを逃したら二度と巡り合うことはないだろうというくらいに珍しい車種であるため、手に入れたのだそうだ。このクルマは大阪で米屋を営む店主が新車購入した1オーナー車。店主が亡くなり息子さんが整備士だったため維持管理されてきた。その息子さんがSNSに写真を公開しているのを木ノ本さんの友人が見つけ、「こんなクルマがある!」と連絡が入ったのだ。
SNS経由で連絡を取り合い、自ら大阪までクルマを取りに出向いた。名古屋からはフェリーに乗って福島県まで戻ってきたそうだが、道中トラブルは皆無。さすがは整備士が面倒を見ていたクルマで、それからも困ったことはない。とはいえ予防的にメーターを追加してエンジンの状態を把握できるようにしたり、ステレオやスマホが使えるようにアレンジはしている。だがそれ以外はノーマルを保っている。気になる塗装はといえば、過去に部分的に補修されているそうで残念ながら新車時塗装のままではないものの、よくぞ生き残っていたと呼べるレベル。外装で木ノ本さんが手を加えたのは大きめのリボンが特徴のホワイトリボンタイヤに付け替えたことくらいだ。
困ったところはフロントシート。この時代の定番であるベンコラ(ベンチシート&コラムシフト)仕様であることが魅力だが、肝心のフロントシートが破れてしまっている。この当時の上級車だとシートの着座する中央部に西陣織の生地が使われることが多いのだが、このクルマもまさに西陣織。肝心の西陣織である部分が裂けて亀裂になっていた。ただ、同じ柄の生地を探すのは困難を極めるため、上から玉すだれをかけて凌いでいる。
エンジンの状態は非常に良く、オドメーターが示す9万キロ台が本当ならオーバーホールすらしていないようだ。メーターが1周(この時代のオドメーターは10万キロ台がない)していたとするなら分解整備されているだろう。だが、外観から形跡をうかがうことはできない。とはいえ点火コイルを強化型にしたり現在のオイルフィルターが使えるようカートリッジ式に変更したりといった工夫がされていた。そのエンジンルーム左には、なにやら黄色い棍棒のようなものが装備されている。これは純正ジャッキで、一般的なパンタグラフ式ではないダルマと呼ばれるもの。当時を感じさせてくれる小道具までしっかり残っている奇跡のライトバンなのだ。