目次
20世紀を大きく変えた“Jeep”というクルマ
戦後日本の自動車産業の復活、そしてモータリゼイションの足がかりは「ジープ」にあったといいのではないだろうか。ジープ、ここでは敢えて“Jeep”と表記するが、このクルマは20世紀を大きく変えた自動車だった。
Jeepは周知の通り、本来は軍用であり、第二次世界大戦を通して世界中に広がっていった。バンタム社が造ったこの小さな四輪駆動車は、大量生産をするためにウイリスオーバーランド社とフォード社にも設計図が公開され、結果的にバンタム製は「40BRC」、ウイリスモデルを「MA」、フォード社製は「GP」といった。
だが、最終トライアルで残ったのは、なんとバンタムではなく、ウイリスとフォードだった。そして基本構造はウイリス、フロントマスクのデザイン(特にヘッドライトの意匠処理)はフォードのものが採用され、ウイリス「MB」とフォード「GPW」に昇華した。フォードは実質的にはトライアルで不採用となったのだが、その生産能力の高さゆえにGPWといういわば“OEM”モデルを造ったのである。
ちなみにバンタム社の40BRCもしっかり戦場に出ており、特に太平洋戦線に投入された。これを南方で鹵獲した日本陸軍が大層気に入り、これを模倣した試作車「AK10型」をトヨタに造らせた。トヨタは戦後、警察予備隊(現陸上自衛隊)の制式車両向けに「トヨタジープBJ型」を造ったが、いゆわるランドクルーザーの源流であるこのクルマの原点は、バンタムJeepにあったと言えるかもしれない。
三菱のJ3は完全国産化したJeep
さて、敗戦後の日本を象徴する存在となったのは、進駐軍のJeepだった。アメリカ兵、いゆわる“ヤンキー”が乗ったJeepに菓子を求めて群がる子どもたち…というイメージは、戦後を描いた映画やドラマでお馴染みだ。多くの日本人はこの高性能な小型車を見て、日本が戦争に勝てなかった理由を理解したなんてエピソードもある。
ちなみに、多く人が知っているJeepの顔のデザインは前述の通り、フォードの意匠だった。しかし、フォードが戦後に小型四輪駆動車の生産から撤退したため、ウイリス社がちゃっかり意匠登録してしまったという話である。いずれにせよ、現代のステランティスグループが生産する「Jeepラングラー JL」シリーズに至るまで、Jeepと言えばこの顔になったわけである。
さて、戦後の日本はアメリカにとって重要な意味を持つ場所となった。防共のための最前線拠点である。しかし焦土化した日本にはいかんせん、物資も生産能力もない。そこでアメリカは日本への武器供与を認めただけなく、日本工業の再生の道筋を考えた。この代表的な工業製品が、Jeepだったのである。
当時のアメリカでは、民生用Jeepである「CJ型」が登場したばかりで、これを戦勝国のみならず日本にも販売したいという思惑があった。さらに朝鮮戦争の補給基地となる日本において、ジープを安価に生産、入手したかったことから、中日本工業(三菱重工業)にノックダウン生産をさせて、倉敷フレーザーモータースに販売させるというラインを実現させたのである。
かくして、日本製Jeep「J1」が誕生したわけだが、これは「CJ3A」というアメリカのモデルだった。J1は林野庁に納入され、後には保安隊(警察予備隊の前身)向けのモデル「J2」も生産された。
その後、ハリケーンエンジンが搭載された「CJ3B」がアメリカで登場すると、日本でもモデルチェンジ。これが1956年に登場した、いわゆる「J3」である。J1/2とJ3の簡単な見分け方は、ボンネットの高さだ。グリルからボンネットまでの隙間が多いのがJ3。そしてJ3の方が、フロントパネルが四角い。
J3は完全国産化したJeepであり、三菱Jeepの歴史は実質的にここから始まったと言っていい。2001年3月にライセンス切れから販売が終了するまで、何度もモデルチェンジとバリエーション追加を繰り返し、官民において日本の高度成長を支えた。今は好事家の元でわずかな台数が現存するのみとなっているが、Jeepラングラーの販売台数が世界2番目に多いという日本の土壌を築いたのは、三菱Jeepの存在があったからなのではないだろうか。
石原裕次郎のジープをテーマにした映画
そんなJ3がイヤというほど登場するのが、石原裕次郎、浅丘ルリ子主演のロードムービー「憎いあンちくしょう」だ。ストーリーは、石原裕次郎演じる主人公が僻地医療に使うためのJ3を、東京から九州まで届けるという話だ。一見すると美しい話のようにも聞こえるが、実はそれにはいろいろなウラがある。
ちなみに作品中では“ボロボロのジープ”という設定になっているが、J3の登場年が‘56年、映画の公開が’62年なので、いくら酷使してもそこまでボロくなるとは思えない。本当はJ1あたりを使いたかったのが、もしかすると車両が手に入らず、仕方がなくJ3を使ったのかもしれない。
劇中車は左ハンドルだが、「J3R」という右ハンドル仕様車もあった。これは想像だが、左側通行である日本での撮影(カメラ位置)を考えて、敢えて左ハンドルを使っているのかもしれない。その証拠に、裕次郎本来の愛車という設定の「ジャガーXK120」もオープンカーで左ハンドル。まあXK120に関していえば、むしろ右ハンドルを見つける方が困難かもしれないが。
話を戻すが、J3はわざとボロく見せるためか、幌は外され、しかもリアゲートも取り払われている。当時の日本であれば、どちらも容易に中古パーツが手に入ったはずだ。おかげで裕次郎は埃と雨にまみれることになり、それがまたワイルドな裕次郎を演出していると言える。
ウインカーはまだ「アポロ式」が付いているのが、これを知っている人は現代には少ないと思う。黎明期の自動車にはウインカーというものが無かった。だが、走行する台数が増えてくると、他車に右左折の意思を示さなければいけない。そこで手信号を使うようになるのだが、これも分かりづらかったり見にくかったりする場合がある。そこで考えられたのが「矢羽根式方向指示器」だ。
アメリカで考えられた装置で、それを日本のアポロ工業がライセンス生産したことから、アポロ式などと呼ばれるようになった。
この装置はレバーを曲がる方向に倒すと、電気信号が流れてピラーに付いた装置から棒が立ち上がる。それだけ。後期型では電灯の点滅も併用となるが、1973年までは日本の道交法でもこれが認められていた。そんな装置も、劇中で楽しんでいただきたい。
映画は大した内容でもないが、J3をずっと観られるのは楽しい。ファンはこの頃のJeepを、そのトレッドの狭さゆえに「ナロージープ」と呼ぶのだが、これがまた何ともキュートなスタイルでいいのだ。グリル上に刻印された「WILLIS」の文字も、まさにJ3ならではと言える。