目次
実際に観て、触れることの大切さ
以前プロゴルフのトーナメントを見に行ったことがある。プロゴルファーのスイングの鋭さにも驚くのだが、打球が空気を切り裂いて飛んでゆくときの「シュババババーーッ」という音に驚いた。家でテレビ観戦している時には感じられないプロゴルファーの実力と迫力を感じることができる。そして目の前に広がるゴルフコースの最高に綺麗に整備された芝の美しさと、鼻腔に届く芝の香り、降り注ぐ日差しの強さも感じることができる。
相撲でも、野球でも、サッカーやテニスでも同様にその競技者の発する技の凄さと同時に、その場に一緒に存在しているという実感や雰囲気に圧倒され驚いて「うーん、やっぱり生はいいなあ」とつくづく思うのだ。これはコンサートや観劇でも同様で、「生」で自分の目の前で繰り広げられる演技の迫力、直接肌に伝わる音の振動や、繰り広げられるスケール感に圧倒される。
自然の持つスケール感もそうだ。たくさんの素晴らしい画像があるけれど、やはり画像では想像の範囲しか伝わらない。しかもその感覚は多分過去の自分自身が巡り合ったことのある同様のシチュエーションからの類推であって、後日現実にその場へ行ってみると本物の地球スケールに圧倒されて打ちのめされる。
建築や彫刻も然り。芸術作品もまったく同様で、直接見るときの感動はほかには代えられない。とくに立体物はその差が凄い。3次元で表現された造形の実寸を目の前にし、それが発する存在の強さや表現の多様さを全身で感じることができる。そのうえ、もし触れられるものであれば、その理解力は格段に違ってくる。手のひらで触り撫でることで立体を感性で捉え、感動を自分の感覚に残すことが可能になる。
一体ボディを纏った年代のクルマを観に
6月15日から18日までの4日間、イタリアの北部の街Brescia(ブレシア)で1000miglia(ミッレミリア)が開催された。Bresciaを出発しイタリア半島のアドリア海側を南下しRomaまで行って、今度は地中海側を北上してスタート地点のBresciaまで戻ってくるという公道を使ったレースである。
このレースは1927年から実際に開催されていたスピードレースであり、1000はMille(ミッレ)、miglia(ミリア)とはイタリア語でマイルを意味するものなので、1000マイルレースの意味である(1600km)。
現在参加できるのは、1927年~1957年の間に当時参戦した実車やそれらと同型車と主催者によって登録されている車種であり、レースもタイムトライアルラリーとなっている。
イタリアの美しい景観のなかを通過するこの大会のためのクルマの定期的なレースになっており、今年は世界中から400台を超える最高に美しく仕上げられたクルマたちが参加した。もちろん展示のためではなく競争するために参加しているので、全車ともしっかりと走れる状態に維持されており、日本からも6組が参加していた。
今年のイタリアは大変な猛暑で毎日35℃を超えるような日が続いた。エントリーしたクルマたちにとっては大変過酷な条件だったし、それをドライブするドライバーやナビゲーターにとっても耐久戦だったはずだ。スタート日こそ午後からの開始だが、毎日早朝から深夜までその日のLeg到着地点を目指して走り抜く。ほとんどのクルマが満身創痍(もちろん乗員達も)で、トラブルを克服しながら、とにかく4日間を走り切りBresciaに戻ってくることを目標としている。そして今年も18日の昼過ぎにはBresciaまで戻ってきた。
見物するほうも大変だが、イタリアではこの手のイベントが各地で開催される。しかも続けざまに色々なイベントが行なわれ、老若男女がワイワイと集まってくるのだ。お爺ちゃんから孫まで一家で見にくるのは当たり前の光景である。みんな本当にクルマ好きだし、真剣な目で見ている。そして参加者も「ワンッ! ワンッ!」とエンジンを吹かしてそれに応えると、観客は拳を上げて歓喜の声を上げる。
僕のお目当てはフェンダー付きのクルマではなく一体ボディを纏った年代のクルマたちだ。そもそもがスピードレースなので軽量化は最大の目標。エンジンの後にそれを操るドライバーズシートを取り付けたオープン2座が主流で、最高速度が上がるにつれてエアロダイナミクスを取り入れたクローズドボディのクルマが現れてきた。
まだ手叩き板金の時代のボディは、おおらかな身体つきをしていてとても美しい。その流れる曲面に映り込むリフレクションの光と影。ボディカラーはそのふくよかなサーフェイスをグラデーションで見せる。
どのメーカーも性能の高さを競い合い、当時ヨーロッパで開催されるレースで一番を取るためにレーシングスポーツを開発していた時代。空気力学も現在のように精緻なシミュレーションソフトを駆使して計算値で解を出すような、そんな時代ではない時に、それぞれのデザイナー(本来の意:設計者)の勘と経験値でボディコーチビルダーと共に思考を重ねていった時代のエアロダイナミックボディ。
そのボディは何処にも無理な部分がない。使用している素材(鉄板あるいはアルミ)の持つ性質と形が協奏してでき上がっているとても自然な造形なのである。手叩き板金の職人が絞りと伸びの技術を駆使して作り出す。あるいは半田で綺麗に仕上げてもいるのだろう。いずれにしても僕はこれらのボディワークを前にすると、職人たちの油の染み込んだ分厚い掌としっかりとした太い指で撫で回して形状を作り出しているようなシーンを回想してしまう。現代ではほとんど姿を消してしまった自動車の工場(「こうじょう」ではなく「こうば」と呼びたい)には必ずあった風景。人の温もりを感じるというか、関わった職人たちの意気を強く感じるのである。
そしてゆったりとした時間の流れというか、心豊かな感性を感じる。どこもギスギスしていない、しかし決して緩いわけではない。でも緊張し過ぎていない、ちょうど良さがそこにある。そして彼らはエンジニアでもスタイリストでもないのだけれど、塗装され仕上げられた後のリフレクションの綺麗なとおり方だとか、グラデーションで変化する艶っぽさまで計算していたのではないだろうか。そうに違いない。
日本の自動車メーカーに必要になる、なにか
これらの車を前にすると僕は自動車デザイナーとしてさまざまな思いを巡らせてしまう。このイベントをクラシックカーのイベントとして昔を懐かしんでいるのではない、自動車デザインで忘れてしまったなにかを感じさせてくれるものがそこにはある。
その思いは人それぞれで構わないが、この形を実際に外光の元で見て、触って、何かを感じる必要があるだろうと思うのだ。自動車メーカーのデザイナーやモデラー達にはどうにかして「生」のこういうシーンを見に来て欲しいと思う。なぜなら、くどいようだが実物を見なければわからない。しかもミュージアムでは感じられない。クルマがイキイキとして走り回っているシーンのなかでしばし浸ってもらいたい。空気感と共に感じてもらいたいのだ。記録や知識としてではなく、実体験で記憶に残したいし、その手に感触を残してもらうことがとても大切である。身体で感じてもらいたいのだ。
ヨーロッパの自動車メーカーの最高峰のスポーツカーには、これらの感性がまだ残されている(もちろんちょっと違うものもある)。それは、それを手に入れたいと思う人達の感受性をよく理解しているからに違いない。僕にとって残念なのはクルマが時代と共に大きくなってしまったことなのだが、しかし情緒性は変わらずに持ち続けてくれていると感じるのである。
いま、自動車は変わろうとしている。しかし変わらずに持っていたい感性はあるのだろうと思うし、今後も相変わらず自分で所有したいという気持ちも残るはずだ。無理な相談なのかもしれないが、日本の自動車メーカーにこれから必要になるなにかを、日本のデザイナーやモデラーたちにぜひとも感じてもらいたいと願いながら今年の1000migliaを見ていた。