エストニア、ラトビア、リトアニアからなるバルト三国の最も北に位置するエストニアは、旧ソ連の崩壊後、1991年に独立を回復した、比較的新しい国家だ。2004年には欧州連合(EU)への加盟も果たしている。バルト海を挟んだフィンランドとの関係が深く、ヘルシンキから首都のタリンまではフェリーで約2時間ほど。フィンランドよりも物価の安いエストニアで買い物をしようと、週末には多くのフィンランド人が日帰りでエストニアを訪れている。
ラリー界にエストニアの名が轟いたのは1990年代後半、マルコ・マルティンの登場だった。トヨタ・チーム・ヨーロッパに抜擢されたマルティンは、スバル・ワークスを経て、2002年からMスポーツ/フォードに加入。03年のアクロポリスで、エストニア人初となるWRCウイナーに輝いた。04年には3勝を挙げてWRCドライバーズ選手権3位を獲得、翌05年にはタイトル獲得を目指してプジョー・ワークスへと移籍を決めている。
しかし、この年のラリーGBでコースオフを喫し、立木に激突。このアクシデントでコ・ドライバーのマイケル・パークを亡くし、若くしてラリー引退を決めてしまう。エストニア人初のWRCチャンピオンに近づきながら、道半ばでキャリアを諦めたマルティン。彼がマネージャーとしてサポートするのが、現在ヒョンデ・ワークスに所属するオィット・タナックである。
マルティンのサポートを受け、2008年にエストニア王者に輝いたタナックは、2010年にピレリ・タイヤの若手育成プログラム「ピレリ・スタードライバー」に選出。翌2010年にはMスポーツ/フォードに加入し、最終戦ラリーGBでWRカーのシートを得ると、一気にWRCトップドライバーへの仲間入りを果たした。
その後、なかなか結果を出せない時代が続いたものの、2017年サルディニアでついにWRC初勝利。トヨタから参戦した2019年には6勝を挙げて、WRCドライバーズ選手権王座を獲得。ここにWRC初となる、エストニア人チャンピオンが誕生した。
マルティン、タナック、そしてスズキのワークスドライバーとして活躍したウルモ・アーバ。さらに、ゲオルグ・リンナマエやベルト・ヴィルブスといった若手も控えている。人口わずか133万人、愛媛県と変わらない人口の国から、なぜこれだけ多くのトップドライバーが輩出されるのか?
ひとつは前述したように地理的にフィンランドに近く、良質な高速グラベル(未舗装路)に恵まれていること。隣国に免許取得前でも国内選手権に参戦が可能なラトビアがあり、10代から実戦を経験できること。そして何よりも、マルティンが活躍したことで、ラリー人気が日本のプロ野球・大相撲レベルにあることも大きい。
タナックが世界チャンピオンに輝き、2020年からはWRCカレンダーにラリー・エストニアが加わった。エストニアでのラリー人気は不動のものとなり、多くの子どもたちがラリードライバーを目指しているという。かつてマルティンがそうしたように、タナックは次世代へのサポートを明言。この好循環が続く限り、バルト海を望む小国から、今後も次の世代を担う新たなトップドライバーが登場することになりそうだ。